ウル ナナム

  • 38

    組み上げ途中の櫓の下を通るとき、「見えるか」とドゥッガが怒鳴った。何人かの子どもがてんでにはしゃぎ声を上げた。その高さからなら、神殿基壇の盛土の向こうが眺められるのかもしれない。車止めの材が噛ませてある車輪が俺の腕尋ほどもある大きな櫓だ。
    「王宮の近くへ行ってもちび共には人の足腰以外は見えない。見えずともあの場にいる方がずっと愉快だ。しかし、万一気づかれたら、あいつらはこっぴどく追い払われる」
    すぐに歩き出したドゥッガは二度と櫓を見なかった。どんな小さな村にも疎まれ遠ざけられる子どもらがいる。ラズリ様の子たちも、行く先々で傷を負い汚物を浴びたはずだ。「安楽で充たされた幼少を過ごした私には自分の子の身をよじるような欲望をついに汲み取れなかったのですよ」とラズリ様は嘆息したのだ。俺もまた大きな商隊の長ビルドゥの子として遇され、今も導き手に彩られている。俺のようなものが人の心を汲み取ろうと考えるのは傲慢でしかない。
    「ディリムもつむじが二つあるんだ」とイシャルの声が弾んだ。
    肩に乗っているとはいえ、イシャルの目の高さは俺の頭よりほんの少しだけ上だ。一度そう言われたことがあった。こんなふうに嬉しそうにではなかったが。
    「やっぱり私たち似ているのよ。お可哀そうになんて言われたけれど、私にはわかっていたの」
    「つむじなんぞに意味はありゃしませんよ」不機嫌な声でドゥッガは肩のイシャルを一揺すりした。
    「あるのよ。ドゥッガさんには一つ。皆にも一つ。二つある人を見たのはディリムがはじめて」
    「お可哀そうにとは言いませんがね、他の人にないことなら、隠しておきなさい。二つあるのはお二人だけなんだと知っているのは、この私たち三人だけにしておきなさい」
    「覚えておく。ドゥッガさんの言うことはいつも間違っていないから。それに、この三人だけの秘密なら悪くないわ」
    カドネツァル王子が評した通りだ。イシャルは賢い。そして好悪の激しい俺は、隠し事もできず視野も濁りがちだ。そのことを俺も覚えておかねばならない。前を行く二人がそれぞれに小さく頷いているように見えた。
    櫓がもう一つ据えられていたのは、前の場所から四百歩ほど離れたあたりだった。今度はドゥッガの呼びかけはなかった。近くに日干し煉瓦用の木枠が六つあり、その周りに十数個の水瓶が伏せられていた。緩やかな傾斜の先に水路の突端があり、船寄せがつくられている。水路の幅は荷運びの筏が漸く入れる程度の狭さだ。船寄せの側に哨所があった。三人の軽装兵が手にしている短槍で俺たちに小さな礼を示した。普段はたくさんの人足や驢馬が行き来するのだろう、道は踏み固められている上、随所に土止めの石が積まれている。
    船寄せの水音が聞こえなくなるまで歩いたころ、二本の木が見えてきた。一本はあめんどうで、植えられて間もないもう一本は俺の知らない木だ。ドゥッガは若木の下にイシャルを降ろし、何も告げずに切り戸の奥へ入っていった。神殿造営の棟梁、煉瓦積みのドゥッガの住まいは二本の木を守護神像としているのか。
    髪飾りが頭の半分を覆っているので、イシャルにつむじが二つあるのかどうかはわからない。しかしこの小さな頭を見つめていないと、時の感覚ばかりか所在さえ覚束なくなりそうだった。バビロンの街が砂嵐に運ばれて束の間現れた幻のように感じられる。ナブ神への讃を詠ってからすでに幾日も過ぎている気がした。人声もなく匂いも漂わず、土壁の前、影のない木の下で赤黒い虫穴に吸い込まれる。
    「何か言った」
    「ディリムのほうよ、何か言ったのは。私の知らない言葉、短くてよくわからなかったけれど」
    「立ったまま夢を見ていたのかな、私は」
    「どこでも夢見る人、でもニネベでは夢を見ないで」
    その場で腰を屈めて、イシャルが貴顕の娘らしい辞儀をしたのは、右手に水差しをもった男に対してだった。男の左手首がなかった。ドゥッガの言った、自ら片腕を落とした男だろうか。イシャルが若木の根元に両手を差し出すと、男が三度に分けて水を注いだ。男の腕に掛けられている布で水気を拭い、イシャルは俺を促した。俺の手洗いが済むと、男の後にイシャルが従った。光を喪ったのは衝立となっている狭い仕切り壁を回り抜ける間だけだった。丸く刳り抜かれた天井からまっすぐ光の柱が落ちている。さすがというべきか、床の一部には焼成煉瓦が張られていた。高さの違う大きな卓が二つ、向かい合う壁に据えられていて、羊皮とパピルスが重ねられている。描きこまれているのは数と図絵だった。ドゥッガがこれらの数や図を刻み出した時のすべて、吐息と歯ぎしりと独り言のすべてが降り積もって、石壁が熱を放っているようだった。この住まいはドゥッガの頭の中、胸の裡、指先の血の流れそのものなのだ。
    円い光の少し外に横座りしているイシャルは顔半分の陰のためか、皇女の面差しを滲ませている。
    「このような胸躍る場所ははじめてです。イシャルが王宮を抜け出てきてしまうのもむべなるかなと」盆を抱えてきたドゥッガに俺は精一杯の礼をこめて頭を垂れた。
    「俺は必要な物は遠慮なしに所望することにしている。そして王は物惜しみしない。頗るつきの気前の良さだ。この卓もそうだ。黒石には手前の瞳が映るし、そっちの厚板は赤子の肌触りだ。羊皮の使い放題が何より助かる。マルドゥク神殿は基壇だけで二百頭の羊が生贄になっているわけだ。
    片手の男が先ほどとは違う小ぶりの水差しを持って現れた。男はドゥッガよりもずっと年上だろう。額の二本の深い皺には銀貨が挟めそうだ。喉から腕には老いたところがなかった。ドゥッガが粗織りの敷物に並べ置いた碗に男は腰を屈めることなく水を注ぎ入れた。

  • 37

    イシャルの言葉通りなので、その男がドゥッガだとすぐにわかった。瀝青と土と陽と炭と鉄の匂いが岩塊のごとき体躯を陽炎のように包んでいる。イシャルに連れてこられた煉瓦焼きの大窯はまだ冷めきっていないらしく、すぐに顔が火照った。
    「お前の声。ナブーの讃を詠った男だな」一言名乗っただけでドゥッガが返した。「俺は気に入ったな。このマルドゥク神殿に火入れする日には、ぜひお前さんに讃を奉じてもらいたい。ポラッサル王が城壁を拡大せよとのたまうから、神殿の捗がいかなくて閉口しているところだ
    「その日は私、お妃としてディリムの後ろに控えているわ」
    「して姫様。今度はどなたのお妃に」首にかけている黄銅の測量儀をイシャルに向けてドゥッガは声を低めた。
    イシャルは俺の手を取り「決めたの。ナブー神様の御前で」と胸を反らせた。
    「姫はお目が高いですな。この新年祭にお二人して煉瓦積みの仕事場へ喜んでお運びくださるとは、見上げた心がけというもの」
    「煉瓦積みが好きなわけじゃないの。私はドゥッガさんが気に入っているのよ」
    ドゥッガが虚を突かれたように目を落とした。顔半分を覆う強い髭が一本残らず溶け落ちて七歳の少年の顔が現われた。水に映った鳥の影のように一瞬のことだったが、イシャルにはいつも見えているのだろう。
    「人誑しですな、姫は」
    眼の端で俺に笑いかけながら、ドゥッガは生真面目な声で言った。
    「ひとたらし、ってなに」
    「その人のためにすべてを捧げようとさせてしまうことですよ。それにしても姫の心移りには、兄上様がさぞお気を落とされているでしょう
    「仕方ないわ。ドゥッガさんだって、ディリムの声が気に入ったと
    「我が息ベルヌスが姫様に見捨てられたときなど、わしゃ可哀そうで見ておれなかった」
    「ベルヌスはお兄様と同じくらいきれいなお顔。でも喋らないの」
    「あいつは手振りで話すのが向いておる。私ら煉瓦積みはあの高みに立つ者と地面にいる者が話したいときは、こうして大きく腕を振って伝え合います。ベルヌスはまだ言葉も出ないころから、煉瓦積みを見上げて真似をしていたものです
    「ドゥッガさんは大声じゃないの」
    「私は見ての通り手足が短い。地声でないと伝わらんのですよ
    「先ほど、カドネツァル王子の前でベルヌス殿にお会いしました。長弓に優れていると」
    「大地に立っていればな。確かにベルヌスは手足が長く五人張りと称される強弓を引く。だが、王子のお側にいるのなら船端に立っても射られるようでなければならん
    ドゥッガのしてみせた足踏みは大槌が振るわれたように地面を揺すった。共振れのように鈴が鳴り、イシャルは手綱を捌くように俺の腕を突き出させて言った。
    「ディリムはキッギア将軍の戦車を御したのですってよ」
    「あの讃の詠い手がキッギア将軍の左に立った者なのか」
    ドゥッガがいきなり俺の両手を支え持つと、血の流れを聴く医術師のように息を詰めた。俺の腱や掌を押さえるドゥッガの指は柔らかい。途切れ途切れに渡ってくる新年祭のどよめきに俺は耳を傾けていた。
    「無遠慮なことをして済まなかった。見習いとして入ってきた者でも回されてきた奴隷でも先ずは腕を抱えてみるのでね。儀式みたいなもので、特別なことが見えてくるわけじゃない。戦車乗りの腕に触るのは初めてだが、もっと瘤立っているかと思ったよ
    「戦車の訓練は受けましたが、私は書記見習いですから、いつも車乗しているのではありません。キッギア様の下にいる人たちは皆同じ力瘤をしていますね。あと二年もすれば私の腕にも筋は付いてくると言われました。未熟なままニネベの地に赴くわけです」
    「書記か。俺も二つだけ文字を刻せるぞ。戦場では巧者が大功に値する働きを得るとは限らんし、勇者が生還できるとも決まっていない。お前さんにマルドゥク神殿の讃を捧げてもらうまで、あと五年。ニネベで転がってしまうなど許せんぞ
    ドゥッガは窯の縁に膝をつき、口中で湿らせた指先を窯に這わせ始めた。こうしたことにも惹かれるのか、イシャルもドゥッガの傍らにしゃがみこみ顔を寄せている。
    「新年祭とて休んでいたくはないのだが、手の者たちはそうもいかん。奴隷共にも骨休めがいる。俺は鞭を使わない。食い物もたっぷりだ。まともな仕事をさせるにはそれが何よりも効くからな。甘い顔を見せているわけではない。逃げられては困るから両手の甲に焼き鏝は押す。片手を切り落として逃げた奴がいたのだ
    鏝跡が一つなら俺もたぶん、片手を残して逃げることを選ぶ。その備えでもなかろうが、父も覚師も俺に両手を使わせた。二人の意図するところは違っていたのだと思う。覚師は尖筆をただ両手で使いこなすだけではなく、左右見分けがたい文字を刻ませようとしている。左手で刻むように命じたのは夢の記だった。
    あの人もきっと、ラズリ様に出会わなくても逃亡奴隷となっていただろう。しかし、片耳落とされてすぐにラズリ様と出会った。選ぶ前に選ばれたということなのか。
    ドゥッガが立ち上がり、手庇をつくって日輪を見上げた。
    「俺ら神殿づくりは天を崇めているのではない。挑んでいるのさ。そのために一つ一つの煉瓦を焼き締める。一つでもやわなものが入ってはならない。果実も煉瓦も同じだ。こんなことはお二人さん以外には聞かせられませんがね。新年祭らしい特別な食い物の用意などないが、よろしければ一休みしていってもらいましょう」
    「行こう」イシャルはドゥッガの腕に飛びつき、鈴を鳴らせて歩き出した。基壇を築いている神殿に近いからなのか住居は見当たらず人影もない。どこからでも城壁が見えるボルシッパとは街の大きさがまったく違うので、俺たちがバビロンのどのあたりにいるのかまったく見当がつかなかった。南東の中空に灰白の靄が澱んでいる。香の煙だとすれば、夥しい数の香炉台が用意されているわけだ。いつの間にかざわめきが遠ざかっていて、聞こえてくるのは石壁を叩くような鳥の声と怯えた犬どもの吠え交わしだけだ。イシャルがねだったのだろう、ドゥッガは姫を放り上げるようにして左肩に乗せた。きっといつもそうしているのだ。資材が積まれた掛け小屋も、四十本ほどの若木が育つオリーブ園も無人だった。

  • 36

    「圭角露わな息子を密かに恐れる父親も多々あると聞くが、言うまでもなく父王は大きく、私は力足らぬ者だ。しかし、数多い父の男子の中で父と共に、そして父を継いでバビロニアを動かせるのは私のみだと断言できる。私の知らぬ処で優れた弟が己に磨きをかけているかもしれぬし、今もって盛んな父王ゆえ、猛き賢き男子が誕生ということもあろう。だが今ここには私しかいない。父王もそう考えて私を遇し隊を率いさせ臣従国に名代として遣わされる。私が父にまったく敵わないのはあの辛抱強さだ。見ての通り、私は性急だ。果断であるのと思慮のなさは同じ顔をしている。私の許には諌める気概胆力をもつ者が父王以上にいてもらわねばならない。私に親衛隊や取り巻きは不要だ。皆にも臣下としての献身を求めないのは常々話していることだ。父王にはハシース・シンがあり、ディリムの父ビルドゥはハシース・シンの翼。キッギアに並ぶ軍団の束ねにはハジルとツァルムという二人の将軍。このベルヌスの父はハシース・シンにも増して父王に注文をつける御仁で、石積みのドゥッガと何故か女名で呼ばれているが、土木築城にかけては敵地にまで盛名が届いている。ドゥッガの自慢の息子ベルヌスは測量術と長弓が得意だ。私とともに歩む友はなによりもまず戦士であり、かてて加えて手業において旗頭になるほどの技量優れた者であって欲しい。ところで父王にはもう一人知恵者がいて、それがあのイシン王ヤシュジュブ。イシン王はかつて父王と並び立つほどの勢力で、このバビロン開城もヤシュジュブの手になっていたかもしれない。係争を経て父王が王権を握った時、父王は政敵を殺めもせず追放もしなかったのは己にない才を見込んでのことで、法治に関る諸々はすべてイシン王の采配に委ねたのだ。傾きかけた国であろうと、成り上がっていく国であろうと中傷陰謀は暇なく飛びくる。イシン王も気の毒なことだ。すべての訴え密訴に目を通すがゆえに眠る暇さえない。確かにイシン王ヤシュジュブは治者には不向きなのだ。積りくる訴えの細目を悉く覚えているという尋常ならざる記名術。イシン王に粘土板は不要と言われるが、ヤシュジュブ自身が粘土板のごときものなのだ。その男が櫂を取れ、と和したのだからディリムの声の威力たるや
    鈴の音がした。血相を変えて男たちが王子を囲みこんだ。武器になるものは何一つ身につけていないので、俺は拳を固めて音の方へ飛んだ。
    「櫂を取れ」両腕を神像に差し上げて幼い声が言った。
    「イシャル姫」と皆が呼んだ。
    「ねえ、あなた、クルギリンナって何」と七、八歳くらいに見える娘が俺に問いかけた。
    「イシャル、お前、何をしているのだ」カドネツァル王子が少女の前にかがみこんだ。
    「私、この人のお妃になる、素敵な声だったもの」
    「兄の妃になると云っていたのは誰だったかな」王子が少女の唇に指先を当てた。
    「昨日まではそう。でもこの人は声もお顔もきれい。カドリ兄様、お顔はきれいだけれど、声が威張っているもの」
    「私はそんなに威張っているのか
    王子は若者たちに顔を巡らせ悲しげな声を出してみせた。
    「威張っているとは云ってないわ。カドリ兄様は声が威張っているけど、威張ってないの。二番目のシュムリ・シル兄様の声は威張っていないけれど、威張っているのよ」
    「イシャルは賢いな」
    「賢いってどういうこと」
    「よく見ているということさ。ディリム、何番目の妹かよく分からないがイシャル姫だ」
    この姫は廷室のあちこち人々の間を生まれて間もない仔馬のように屈託なく走り回っているのだろう。鈴はイシャル姫の踝飾りの音だった。
    「イシャル姫様、クルギリンナは今咲いているクロッカスのことです。大昔の言葉ですよ。文字をつくった人たちの」
    「ほら、やっぱりきれいな声」イシャルは香炉台に額をつけ、神像を見上げた。
    「おお、クルギリンナ、クルギリンナ、御身なる知恵の花、青き知恵の花クルギリンナ。クロッカスは知恵の花なのね」
    「よく覚えておいでだ」
    「ディリムこそ、この歌を全部覚えたの」
    「妹はヤシュジュブより追及が厳しいぞ、ディリム」王子の笑い声に男たちが和した。「それよりも皆、我々誰一人として姫が隠れているのに気付かなかったのは由々しきことだ。私も含めて鞭打ちに値する
    階に向かうカドネツァルに頭を垂れた八人がついていく。
    「イシャル姫様は秘密を守れますか」俺は声をひそめた。イシャルが動いたようには思えなかったが鈴の音が聞こえた。「私の声を誉めてくださった御礼に姫様にだけ内証でお教えしましょう。その前にお尋ねしたいのですが、姫は私がここに上がってくるところをご覧になっていましたか」
    「本当を言うと、近くを通るまで見えなかった。周りの人たちがディリムのことをあれこれ言っているのを聞いていただけ」
    「私の歩き方、様子は変ではなかったですか」
    「どうしてそんなこと訊くの。いい匂いのするナブー神像と同じくらいディリムはきれいだったのよ」
    「夜明け前、ボルシッパの船留りで御座船の神像を見上げていて、次に気づいたら、この場で詠いはじめていたのです
    「ディリムは船の中で夢の中であの長い詩をつくったのかしら」
    「眠っているうちにナブー神かタシュメートゥー神が詩を注ぎいれてくださったらしいのです
    「でもあれはディリムの歌よ。ほかの人には詠えない。ディリムにしか詠えないのだからディリムの歌よ。夢の中でも夢は自分のものでしょ
    「夢がすべて自分のものなのかどうか。この身は夢の渡し船なのかもしれません」
    「ディリムは夢を積んで運ぶ渡し船」と呟き、遠ざかっていくものを見つめているような不安げな表情のままイシャルは黙りこんだ。幼い者を相手に俺は自分にさえ掴みきれないことを話してしまった。大人びて怯んだような顔のイシャル。夢の渡し船などという不分明な言葉が幼い者に貼りついたからだ。
    「姫は夢をよく見ますか」我にもあらず気の抜けた口調になった。鈴の音がした。
    「空飛ぶ夢が好き」鈴が大きく二度鳴った。「ディリムは知っているかしら。ここはバビロンで一番高い場所。私たち二人とナブー神様が今誰よりも高い所にいるのよ」
    イシャルに促されて俺は空を見上げた。陽はかつてないほど間近にある。甲板に立っているように爽快なのは陽と風を真っ向から受ける場所にいるからなのだ。
    「ドゥッガさんがつくろうとしているマルドゥク神殿が今に一番になるけれど、まだまだ先。ドゥッガさんは顔も体も横に広がっていて蟹みたい。いつも怒鳴りまわっているけれど、私はドゥッガさんの声も好きだわ」

  • 35

    「確かに納得はしないでしょう。代々伝え渡されてきた誓文を諳んじるのではない。また託されたものでもないとすれば、それは当然言葉を発した者に帰するはず。ここまでの理はイシン王にありましょう。升目正しきを誇るイシン殿の面目ここにありというべき」
    「王子、皮肉はそれくらいでよかろう」
    イシン王と呼ばれた男の声音には苛立ちの兆しもなかった。王子と返されたが、長子カドネツァル様なのだろうか。アシュの話していた通り髭は濃くない若者だ。
    「しかし呪われるべきは当面の敵ばかりではないでしょう。不実、猜疑、強奪、裏切り、すべてこのバビロンにても蔓延しております。それゆえにこそ、御方が目を光らせる意味もあろうというもの。現にこの新年祭に参集した王族高官とて半分は間者と変わりないはず
    「参集といえば、この者を推したハシース・シンは何ゆえこの場に来ておらんのだ。そもそもこの度の讃は、奴が酒の勢いで拵えたものではないのか」
    「我が父王の女好きもハシース・シンの酒好きも度はずれているのは、まったくもって仰せの通りだが、踏み外したことがあるとは聞いていませんよ。なにはともあれ、この者の声、少なくとも喉を潤させてやらねば答えも出てきますまい」
    「答など待っておらん。私はこの者ともまたハシース・シンとも違って言葉を信用していない」
    「何故でございましょう。あなた様のお考えを察するに言葉には表と裏がということでしょうか」覚師まで軽侮する物言いに俺は王子の前もわきまえずに食い下がった。
    「見くびるではない。見くびるではないぞ、ディリム」
    はじめて俺の名を言ったイシン王が怒ったように見せかけているのか、怒りを抑えかねているのか、やはり俺には見当がつかなかった。イシン王と呼ばれた男はゆっくりと立ち上がって王子に拝礼し、王子を囲む八人の若者たちの間を抜けていった。贅を競う礼装を目にした後では、イシン王のまとっている長衣は粗毛をつなぎ合わせただけに思えた。
    「軍鼓のごとき讃を詠った者にしては、いと拙き弁解だったな。私までイシン王のように信じそうになるではないか、ディリムがつくったものではないと。まずは熱を冷ますのだ、ディリム。杯がない、手で受けよ」王子は傍らの男から水差しを取って言い、膝を折った。
    「勿体なきことでございます」
    俺は遠慮を捨て、時間をかけて水を含んだ。喉のそこかしこがひび割れているようだった。水は強い薬草のようにひびに染み入った。血の匂いがした。王子が熱を冷ませと言ったのは喉のことだけではない。先ほど参集者から投げ与えられた布の一枚で口元を拭き、俺は石床に額をつけた。
    「このエジダ神殿の天壇でディリムに我が友たちを引き合わせることができる。それをナブーの御心に感謝しよう。ここであれば耳を気にせずに話ができる。ディリムは聞いているだけでよい。私はカドネツァル。皆、出自はさまざまだ。シャギルとリシヤ、アッドウは私と初陣を共にした」名を云われた三人が代わる代わる会釈した。
    王子の初陣の話はいくつも聞かされている。王子一人で密集軍団の堅陣に馬を乗り入れ切り結んで崩したなどという大げさな噂まである。臆することも逸ることもなく、父王を安心させる動きだったという覚師の言が真実に近いのだろう。
    「ディリムは初陣でキッギアの御を務めたそうだな。羨ましいことだ。軍団の頭自らが教導した者に己の御を抜擢したのだからディリムの技は格別なのだろう。総勢二千ほどの部隊で両翼五十騎ずつの騎馬隊の一つに私は付けられた。例のアッシリア中核の歩兵部隊から相手の騎馬隊を切り離す命を受けていたのだ。牽制し合って駆けまわっていたのはどれほどの時だったのか。直にぶつかることは一度もなかった。後で部隊長は言った。騎馬隊の技量は互角でした。しかし奴らがここに王子がいるのを知っていたら仕掛けてきました。ぶつかってこられたら、王子を守るために兵の三分の一を失ったでしょう、とな。キッギアはもちろんそうだが、父王は将軍に恵まれている。冷静で率直な物言いいは戦場を引き締める。矢合わせ一つなく終わったその初陣の日、下馬しようとしても手綱を離せなかったよ。アッドゥが気づいてこじあけてくれたのだ。そう、笑われても仕方ないが
    ナボポラッサル父子の見かけは似ていないが、二人とも尊大なところがなく付き従う者は気構えなく己の考えを上申できるのだろう。
    「王子を笑ったのではございません。この私もまったく同じでした。キッギア殿に解いていただいたのです」と言って俺は低頭した。
    「そうか。だがディリムの戦いは夜戦で容赦なき殲滅戦だったと聞く。死と血と叫喚の真っただ中でのこと、恐ろしさは尋常ではなかったろう
    王子はすでに俺のことをかなり詳しく聞き知っている。俺は言を継いだ。
    「騎兵隊長の言葉、肝心なのは技量互角な敵が王子たちに気づかなかったこと。五十騎が一体となって動いていたからこそ、際立つ緊張を見せなかったのでしょう
    「そして背を向けた時に、技量の差が露わになるというわけだ
    と王子は頷いた。
    「無難に働いたのだな、われわれ三人とも」とシャギルが言い、「シャギルはいつも無難さ」と五人の中の一人が笑った。
    「ディリムは思いがそのまま顔に出る。衝に当たるには向かないな。あれほどの言葉を操れるのに惜しいことだが、何もかもこなせたのではかえって処遇に困る。ゆっくりと知り合ってゆけばよいが、この者たちの名を言っておこう。カハターン、ウッビブ、ワラド、ハンム、ベルヌスだ。ディリムのここでの居室はボルシッパから来た従者が整えている」
    「この私に従者ですか」
    「ハシース・シンから何も聞かされていないのか」
    「ボルシッパに戻らないのは分かっていましたけれど、覚師がこの場に来られぬことも、イシン王の言ではじめて知りました」
    「ハシース・シンの居場所を知っているのは父王だけだ。あの二人がどのような手段で通信し合っているのかをぜひ伝授してもらおう」
    地上から歓声が上がってきて三度繰り返され、不意に静まった。陽は中点に近かったが、風はまだ冷たい。長く見上げ続けていたナブー神像から目を戻し王子が話しはじめた。

  • 34

    御身の第一の指が愛でしもの、それは流れ、
    ユフラテの流れ。とこしえの生命ゆえに。
    御身の第二の指が愛でしもの、それは麦穂、
    豊かなる麦穂。約束の力ゆえに
    御身の第三の指が愛でしもの、それは大空、
    青き黒き天蓋。身罷りしものたちの思い出ゆえに。
    御身の第四の指が愛でしもの、それは大角、
    白き牡牛の冠、額に潜む夢ゆえに。
    御身の第五の指が愛でしもの、それは弦、
    古の七弦琴。同胞の血で購った凱歌ゆえに。

    御身の第一の左指が呪いしもの、それは彼の地の南門、
    言葉なき市、不実の巣、御身の火矢にて破砕せん。
    御身の第二の左指が呪いしもの、それは彼の地の東門、
    巫術はびこる市、凶夢の巷、御身の車輪にて斥けん。
    御身の第三の左指が呪いしもの、それは彼の地の西門。
    苦吟絶えぬ市、恐怖の牢獄、御身の鼓にて解き放たん。
    御身の第四の左指が呪いしもの、それは彼の地の北門。
    清き水喪われし市、善心なき広場、御身の拳にて裁きを下さん。
    御身の第五の左指が呪いしもの、それは彼の地の糞門。
    猜疑渦まく市、眠り奪われし寝所、御身の歌にて浄化せん。

    雨降らしの星が没するとき、御身北へ歩み出さば、
    我ら軍旅の行李を整え、御前に額づかん。
    我らが旗印は御身の腕、御身の声、御身の眼差し、御身の涙。
    すなわち我らは比類なき神軍。
    すなわち我らは丈高き香柏の番人。
    すなわち我らは劫初の井戸の守り人。
    すなわち我らは唯一の花の見者。
    すなわち我ら恐れぬ者、つくる者、充たす者、憧れる者。
    御身口を開くとき、我ら勲求めて駆ける者となるだろう。

    汝ら今こそ見よ、東の空を、獅子座の大鎌を。
    駆け続けよ。
    汝ら、明日には見よ、鷲座の出現を。
    さらに駆け続けよ。
    そしてさらに、葡萄収穫者の星とともに駆け続けよ。
    駆け続けよ、そして櫂を取れ。
    櫂を取れ。

    「よくぞ詠ったな、ディリム」
    俺は恐懼した。神に名を呼ばれたと思ったのだ。頭に大きな掌を感じ、俺は目を開けた。目を開いたつもりだったが何も見えず、光の鞘の中に俺はいるようだった。顕現したナブー神に俺は包まれている。耳許で風が鳴った。
    「声の力とは驚くべきものだ。お前の讃はこの神殿だけでなく城壁の外にも響きおよび、天象も大地も心ふるわせたにちがいない。我らはまたとない恩沢を受け取ることになろう」
    ナボポラッサル王はナブー神像のごとき偉丈夫だった。俺が知るもっとも背の高い男は父の商隊の黒き人だが、王ははるかに丈高く逞しく、御座船の帆柱とも見えた。王の声はおだやかで、夜闇の底で額を合わせている気がした。
    「ハシース・シンはお前のことをタシュメートゥー神の愛でし若者と言った。大口、大戯けも遠慮なしのハシース・シンだが、此度は申し分ない推挙であった。私には収穫の託宣を受ける儀式が残っているが、もはや気をもむことも無用だ。とはいえ、涙流すまでは慎まねばならぬ。ディリムは十分寛ぐがよい」
    答礼しようとして、俺は喉が腫れ上がっているのに気付いた。まこと城壁の外にまで讃が迸り出ていったのなら、俺の喉など焼けてしまうだろう。歩み去ったナボポラッサル王に続いて、我が邦の、同盟国のそして交易地の貴顕らしき男女が次々と俺に声をかけ、玉を置き、布をかけていく。はじめて耳にする異国の言葉も数多あった。うねり流れる布のあでやかな色、豪奢な織に俺はすっかり幻惑されていた。
    「隠さずに答えよ」
    跪いたまま礼を返していた俺に男が言った。死を宣するのに劫もためらいのない声があるとすれば、この男がそうだ。俺は顔を上げた。この上なく冷酷だが嘘のない男の顔が俺を見つめている。
    「なぜだ。なぜお前は国の名を挙げなかったのだ。呪うべき邦土の名を彼の地などと言いおって。今このとき、我がバビロニアが呪うはアッシリアであるのは紛れもないこと」
    「わかりません」土中に埋められているようなしゃがれ声が洩れた。竦んでいると思われたくなかった。
    「無礼は許さん。お前が詠った讃のことだ。言葉を預かったとでも申す気か、西国の預言者同様に」男は鼻先が触れるばかりに顔を寄せてきた。
    「申し上げた通りです。詠ったのは私ですが、私がつくった讃ではございません。また、どなたかに授けられたものでもないのです」
    「櫂を取れ。信じられんことだが、私も気づいたら声を合わせていた。皆、王に倣ったわけではない。自ら和したのだ。熱狂すれば痛みも恐れもつかの間忘れる。私は熱狂に与する者ではない。にもかかわらず、我知らず巻き込まれた。危ういことだ。滅びに至るまやかしの高揚ということだ」
    「あなた様には信じられないことかもしれませんが、私自らが練り上げた歌や讃と、この度詠った讃は出処が違うのです。口を貸したとは言いますまい。ひとたび私の口から出た言葉はどちらでも繰り返せます」
    「彼の地といえば、それはどこをも指していることになろう。となれば、お前は暗にバビロンの民を貶め弾劾しているやもしれぬ。ハシース・シンの学舎にいる者なら哀歌も知り尽くしておろう。シュメールの古語にも通暁しているはず。そういう輩にしかできぬ技だ」
    「我らが敵アッシリアと我が邦地バビロニアをひと混ぜにするなどありえぬこと。それはわざわざ誓うまでもございません」
    声を出すのが精いっぱいのまま答えながら、怒りが込み上げてきた。憎しみは努めて抑えるべきだけれど、怒りが募ったら放てばよい。しかし、この喉では怒ることも叶わない。
    「私だけではない。今のお前の話に誰が納得できる」
    罪を暴くというより、浮き彫りのごとく罪を切り出そうとする男の前で俺は反駁のしようがなかった。何と答えても、男はそんなはずはないとの一点張りだろう。この男は決して大声で喚くことはしない。詰め寄る口調でこの人は怒りを装っているのだ。俺はといえば、決して怒りを溜めおくことができない。

  • 33

    指笛が鳴り、船が小刻みに揺れた。二昼夜の断食のせいか、胃の腑も共振れする気分だ。俺はいま一度振り返りバシュムの丘を見た。夜明けにはまだ間がある。丘から見送ると言ったグラが合図の灯を点すかもしれないと俺は思っていた。あの日ラズリ様が語った父エピヌーの話をグラはどこまで聞いたのだろうか。いつの間にかグラが俺の脇に坐っていたのだ。「エピヌーは得体のしれない者となった」とまでラズリ様は語った。娘が聞いて穏やかであろうはずはない。あるいは以前から知っているために左岸の父の家を離れて祖母のもとにいたのだろうか。あの日から俺は一度もグラには会っていない。すでにバビロンの鍛冶屋に嫁がされたのかもしれなかった。覚師とともに太守に直答するラズリ様であっても、父娘のことに祖母は口を挟めないのだ。
    天空の脱ぎ落して行く夜闇で川面に寒気が染み通る。時折寛衣の裾を震わせる風が渡ってくるけれど、汀に連なる松明が揺らめくことはない。御座船に先行する九艘の小舟が舫を解いた。小舟に配された漕ぎ手は皆俺と同じ年頃だ。銀糸で縫い取りされた短衣をまとって小舟を操った者たちの中から御座船の二十七人の漕ぎ手は選ばれ、さらにその中から王の軍船の舵を取る者が抜擢されると云われている。今日の誉れは出世の印章だと大半の水夫が信じているようだ。
    「われらはいずれ海を繋ぐ。上の海から下の海までを」とナボポラッサル王は宣したという。我が御座船の漕ぎ手は華奢ではない。しかし、この国の水夫たちはまだ水と闘ったことはないのだ。八歳になる前に父と上の海まで行ったとき、俺は錫や梁材を求めて北の海へ向かう船乗りたちを見た。櫂に見紛うほどの太い腕の連中ばかりだった。
    バシュムの丘を神域とした往古の者たちは海の民だったにちがいない。あの丘のどこかにそれを証する粘土板が埋まっているだろう。
    ボルシッパの住民も夜明けを待たずに起き出している。この御座船とともに河岸を歩いてバビロンまで行こうとする連中だろう。犬どもも昂ぶって夜通し吠えたてていた。新年祭が始まった六日前からバビロン城壁の内外には各地からの旅人や商い人の天幕が張られ喧騒と熱気が充満している。風の具合によって人声や食い物の匂いまでがちぎれ流れてくるのだ。
    戦乱の卵は遠からず孵る。殻を突く音が聞こえてから久しく、明日をも知れぬという思いが祭りへの熱狂をいっそう煽るのだ。怖れに咬まれることに疲れた者たちは自棄狂乱の態で戦を迎えようとしている。麦酒はふんだんに呑まれ、驢馬は例年に増して鞭打たれ、行きかう民の罵声殴打は数知れない。男たちは頻繁に娼窟に出入りし女たちは寡婦となる前から意中の男を誘う。僅かしか持たぬ者は使い尽くし、富める面々は闇雲に溜め込もうとしている。「生き残りの後裔は腑抜けばかりだ」と学び舎の者は吐き捨てるが、数十年前に味わった敗戦後の酸苦は思い起こすほどに強まるのだろう。アッシリアの逆さ吊りを目にした先の代の恐慌は孫子の夢をも引き裂くのだ。首竦めるのが習い性となったボルシッパらしいというべきかもしれない。ナボポラッサル王が強くなりすぎたからだと囁く輩までいるようだ。それはしかし、誤った見方ではない。ナボポラッサル王と一度でも渡り合ったアッシリアの将軍連は王の果断な駆け引きに翻弄された。幾度も謀殺を企て、都市群の切り崩しを図ってきたのはそれゆえだ。ナボポラッサル王自らが出陣したときは、この三年負け戦がないと聞いていたが、「敵にも味方にも退いているとは見せないからだ」と覚師は言い、「逃げ道を指し示して突撃と叫んだのも一度ではない。ときには真っ先に逃げたわけだな」と含み笑いを見せた。
    王が自軍もまた欺かなければならないのは当然のことだ、と俺は思う。出世話と敗軍の流言は蝗の飛来のごとく一気に膨らみ、欲と恐れに抱き取られた者は必ず裏切る。同盟軍からも親衛隊からも身内係累からも全幅の信頼を受けること、そしてこの者たちの心変わりに動じない覚悟と度量が王たる者の要諦なのだろう。
    「アッシリアはわれらにとって腕力のある異母兄弟のようなものだ。かの国から新たに得るものはない」とハシース・シンは言い、呟くように結んだ「次は一回限りの会戦となろう。敗軍は血の帯引いて城壁まで駆け戻る、それがニネベとなるかバビロンなのか」
    戦いは両国の宿命なのだ。どちらかが倒れるまで、ないしは共倒れになるまで終わらない。両国人を区別するのは衣服や髪の結い方、俺たちにとっては耳障りな舌の叩きくらいで、裸で目を閉じていれば敵味方を見分けられない。
    釣り合っている天秤、それが今のわが邦とアッシリアだ。わずか一粒の小石で天秤が覆る日が迫っている。夢を刻んだ粘土板の文書倉を封印するようにと、俺は十日前、覚師に言い渡された。長い間ボルシッパを離れることになるのだ。血の帯引いて城壁へ。俺自身の帰還が叶わぬばかりか、この地が再びアッシリアに貶められるかもしれない。
    バシュムの丘の稜線が朝靄から滲み出てくる。丘は大海を押し分ける舳先のようだ。そこにグラはいない。丘にあるのは粘土板に遺された声だけだ。
    俺は御座船中央の台座に据えられている神像に近づき、四人の衛士の後ろに跪いた。神像に随行するのがお前の役目ではないと覚師に告げられたのも十日前だった。王や侯国の太守らが居並ぶ主神殿で讃を奉献するのだと。グラの言った通りになったわけだ。あいつは言った。「あんたは五十の新しい名を捧げるお役を賜るのだわ」
    あらかじめ讃をつくってはならぬ、と覚師は命じた。タシュメートゥー神に夢を捧げたように、その日その時口の端に上ってくるままにナブー神への讃を唱えるのだと。
    曙光が射し、香が匂う。御座船に移される前の七日間、四つの花湯と三つの香風呂に浸されていたナブー神像。俺は目を開けた。感じ取れるのは白い光と乳香の香りだけだった。俺は言葉を注がれた。白い光と乳香の香りから。

    御身は呼び起こす者、逝きし者。
    御身の声、御身の目、御身の涙。
    御身の第一の御子は空を行くお方。
    第二の御子は耳の後ろに隠れるお方。
    そして第三の御子はなべての尖筆と戯れる。

    おお、クルギリンナ、クルギリンナ、
    御身なる知恵の花、青き知恵の花クルギリンナ。
    バビロンに集う我らは御身の僕、御身の叡智にひれ伏す者。
    御身は言葉の樹、はじまりの聖都で燃え立つ火炎の樹。
    バビロンに集う我らは御身の僕、御身の言葉に仕える者。
    御身は言葉の泉、涸れるを知らぬ悲しみの泉。
    バビロンに集う我らは御身の僕、御身の言葉に手引かれる者。
    御身はすべてを見しお方、往にし方より来し方までを。
    バビロンに集う我らは御身の僕、御身の物語を語り継ぐ者。

  • 32

    物持たぬ旅人にとって、ましてや年端のいかぬ子連れ親子にとって物乞いは生きていく術の筆頭だろう。私たちは一度もそうしなかった。集落や城市に入ると鍛冶や陶工の才覚を恃んで、流れの職人を拒まない座を選んできた。同行の旅人が組し易いとみれば、往々物乞いは追剥ぎに転じる。街道でそうした追剥ぎに襲われると、私たちは二人の子の前で容赦なく殺した。子らに傷一つ負わせないためにあの人が子の前に立ち、私が先手となった。二人の子が怯えて声を挙げたり目をつむって震えたりすることはなかった。胆力というほどのことではなく慣れだったろう。それほど私たちは見くびられることが多かったのだ。もちろん、何もかも二人で切り抜けてきたわけではない。大いなる援けに幾度も与ってきた。この世は不思議に満ちている。援けはいつも不思議な出来事だった。
    「これまでは追い出されてきた。この地からは自ら出て行かねばならない」とあの人は言った。
    吹き荒ぶ砂の向こうに滲む監視櫓の灯。あれは烈風の中にあっても燃え盛る松明だ。それでも、哨兵たちの目は飛び流れる砂で大いに晦まされているだろう。出発してしばらくは激しくもがいていたエピヌーも櫓に近づくとおとなしくなった。私たちは身を寄せ少しずつ這い進んだ。顔に塗った炭の匂いがした。
    真上から灯が当ったとき、スハーが私の腕輪に指を置いた。怯え竦んでのことではなかったのだ。幼き迷う者は行く道を心得る者、スハーこそ腕輪の力を知る者だった。長い間、砂の窪みに臥していたような気がしたけれど、どんな時が流れたのだろう。風は止んでいた。砂煙が澱んだままなので身の回りが辛うじて見えるだけだ。
    腕輪から指を離し、スハーはあの人の横に這っていって耳打ちした。そのやり取りは敵の陣構えを見定める将と副将を思わせたが、エリュシティを起こして砂を払っている様子は普段の二人に戻って仔兎が睦み合っているようだった。あの人はゆっくりとエピヌーの縛めを解いた。長子エピヌーは夢の名残に浸っているみたいに横座りのまま目をさまよわせていた。
    膝立ちのスハーとエリュシティが揃って皮袋の水を零していた。目をむいて止めようとするお前たちにスハーは銀の国の言葉で静かに言ったのだ。「私たちはあそこから出てきたのですから」
    振り返ったお前たちの目には、既に監視櫓も灯も映らなかったろう。
    スハーの声に迷いはなかった。半身は丸い頬と柔らかな声の幼き者、耳から後ろは天より遣わされた智者。お前たち二人は託宣を受けたかのように、異を唱えることなく皮袋の水を捨てた。そしてさらに、二人の子供に倣って麦粉も捨てた。口にする水なく、天に星なき夜、お前たちは迷う者に随いていくこととなった。自分より幼い者が父をたじろがせ畏怖させる力を顕すのを前にして、長子エピヌーは縄打たれたときには感じなかった屈辱を覚えただろう。長子を襲った途方もない憤怒をお前たちは知っていたか。そのことをも嗅ぎ取ってなのか、スハーが先だって歩くことはなかった。
    井戸を聴き当てる力とつながるのだろうか、あの人は一度踏みしめた土地を忘れない。大地は風と水によって日々剥がされまた覆われるのだから、足裏の記憶とは違う。人の顔は日々移っていくが、顔から生まれてくる声は変わることがなく、幼い声は長じても同じものだ。あの人は土地の声を聞いていたのだろう。丘全体の崩落で街道が消えても、大雨が三百年の樹を運び去っても、大地と空は見つめあいときに争いながら、同じ声を発する。さりながら、あの人は行く手を定めることができなかった。
    スハーは時折あらぬ方へと走り出し、エリュシティが後を追った。砂に紛れるほど遠ざかっても、エリュシティの青布だけはよく見えた。そのようにして、スハーは道を示したのだ。
    長子エピヌーはその振る舞いも憎んだのだ。ボルシッパの女たちをざわめかせたエピヌーの美貌は幼い憎悪の果実だった。美しい二親を釘打ちこむほど睨み続けたためだ。お前と夫が先を行く子らだけを見ていたときに。
    スハーに従って通った六ヶ所の水場には露営跡も獣たちの気配もなかった。私たちだけの水だったかのように。名のない地から脱け出し二十六日目に辿りついた村には二本のアカシアと五十九本のオリーブがあった。私たちは追い出される前にそこを後にした。スハーが導いたからだ。その村から六つの集落を経て百十四日でボルシッパの右岸に着いた。ボルシッパはあの人が消え入るだけの場所となった。到着から月の巡りが四つ。この地が私たちを受け入れたのかどうか決めかねる日数だ。あの人は裡から病に喰われてしまった。初めて会ったときのように髪をなくし、耳の痕が露わになった。
    人の生き死に一つひとつを天の神々が覗き込み手を下すことなどありはしないのだ。己の行く末を神に視られているなど思い上がりの極み。しかし天が徴をつける者たちはいる。そのような天の囚われ人、足跡を残す者たちは、当然のことながら死の日を選ぶことは叶わない。
    あの人が逝き、エピヌーが婿となって左岸に渡り、エリュシティたちが身まかった後、一人になった私は旅立った。名のない地から二十六日目の村の場所は、樹の燃え跡で見つけることができた。焼尽して久しいと思われた。私たちが去ってすぐだったのかもしれない。燃え落ちた村から子どもの足で二十六日分の道のり。驢馬駱駝を使えばいくばくもない。そのどこにハシース・シンほどの智者、ディリム・ディピの父ビル・ドゥほどの旅人が見聞したこともない場所が潜んでいるのか。隠されているものは必ず見いだされるはずだと私は思う。
    隠されているものなら見つけ出せるとお前は信じてきた。あの地の魔性が夫の早すぎる死を呼び寄せたともお前は疑い続けている。しかし、共にあの地にいたお前自身は永らえている。長子もまた栄えている。
    生き延びていることに何の理由もないのです。捨て置かれただけ。脱出に力あった者たちだけが早々と命を摘まれてしまった。あの広大な窪地が呪いのかかった辺土であることは打ち消しようがない。あの人が探った洞のどこかに、目にしてはならぬもの、触れることを許されぬものがあったはずだ。スハーもエリュシティも知らずにそこに迷い込んでしまったにちがいない。

  • 31

    「来歴はみかけに宿るものではありません。勘違いしがちなのです。選ばれたものは特別なみかけをしていると。ディリム・ディピのようにこの腕輪に触った者がありました。幼い指でした」
    あの地に着いた翌朝エリュシティはその少年を連れてきたのだ。いつから一人になっていたのだろう。エリュシティが「この子はスハー」と言ったので、あの人も私も少年が迷子になったのだと思いこんでしまったけれど、少年が自ら迷う者と名乗ったようだ。その夜から私たちは同じ皿で食べ始めた。
    あの人と私と子供だけで使う言葉は十種ほどの豆でつくった煮込みのよう、赤い砂の国と銀の山の国の言葉を主として、アッシリア、ウガリト、ヘブル、ファラオの国など、住まいした地の言葉がとりどりこき混ざっている。ひとたび囲いから出ればその地の言葉だけを使う。幼い者たちにはそのような弁えがあろうはずもないが、十日ほどでその地の言葉をたちまち覚えこむ。口数が少なくとも耳は別な生き物なのだ。スハーは最初の日から私たち四人だけの煮込み言葉を使いこなした。長い間私たちの傍らにいたのに誰も気づかず、エリュシティが空を刳り抜くようにして封印を切り、スハーを迎え入れたかのようだった。
    スハーが巻いてくれたのだろう、エリュシティは髪に青の飾り布をつけていた。美しい髪のエリュシティ。私の髪は荒野の娘の名の通り、いつの間にか強い毛の束となって梳るのが難しかったけれど、娘に櫛を当てるのは心地よかった。櫛の歯は麦畑を渡る風のように香しさの中を走った。エリュシティの髪はあの人ゆずりだった。出会ってから一年を過ぎて片耳の痕がすっかり隠れるほどに髪が伸びたとき、あの人が言った。「俺はアステレー・コメーテスとあだ名されていた」
    髪のある星、彗星のことだそうだけれど、その時はまだ私は彗星を見たことがなかった。
    「小さいころは肩より長かった。思い切り走ると馬の鬣みたいに靡く。もっと速く走りたくて、長い丘を駆け下りたり高みから飛び降りてよく怪我をした。この髪、二度と切らせはしない」
    アステレー・コメーテスが髪のある星という意味なら、俺はその国の言葉を少しだけ学んだ。女首領が遠いと言ったわけだ。上の海よりもっと北の国だ。父は船団を組んで都市のいくつかを訪れたと思う。
    エリュシティは幼い時の想いを全うし、スハーとの間に一人息子キナムを儲け、静かに逝ってしまった。二人ともあらかじめ決まっていたことに途惑いひとつなく身を預けていったようだった。二人を出会わせるために、私たちはあの名のない場所に導かれたのかもしれない。
    見え隠れする隊伍に行く手を阻まれ追い立てられてからの夜空には月も星も見えなかった。土塁を巡らすように砂塵を捲き上げる兵団のせいかと思えた。奴らが現われる前夜までそうだったように、その季に星が埋もれる夜は滅多にないからだ。
    「星が読めぬ」。
    名のない土地に囲い落とされて三日後にようやく広がった星空を見てあの人が呟いた。星の在処が狂っていた。一つ二つの月の巡りの違いではない。天の河の洪水に見舞われた星々が元の場所を忘れ去ったかのようだ。不安不吉を言い立てる声は聞こえなかった。着いた場所が刑場でも奴隷市場でもなかったことで、緊張の解けた面々は牧者のいない群れとなり空を見上げることも忘れたのだろう。間遠の軍団に向かって豪胆そうに悪態を突き通しだった男も膝の間に頭を垂れていた。
    「星が読めぬ」とお前の夫は言った。
    行く先々で、お前たちから栖を剥ぎ取ってきたのは星神の邪眼だった。この度は発する声もなく顔貌さえも定かならぬ兵団だ。理由なき人狩りがあろうはずはない。囲い込まれ、たらふく食わされるとなれば、山羊か羊に見立てられていることになる。切り落とされ手首の山に歓喜するという女神二人。お前の夫、かつてアステレー・コメーテスと呼ばれた男が、自分たちは妖神を崇める部族の犠牲に供されるのかと疑ったのも故あるところ。しかし、櫓の組み方、水路や溝の切石は神々の家造りを担う大工の手業かと思えるほどだった。だとすれば、四方世界の大王が版図とした帝国よりもさらに遠方からの軍勢であろう。
    「星が読めぬ」あの人は呪文のように繰り返した。あの人が初めて見せる不安げな様子だった。星神の非道をすべてはねのけてきた戦士が雲の影のような兵に肝引き裂かれることはない。しかし、ひび割れてつなぎ損ねた天空の有様は凶事の予感ではない、凶事そのものなのだ。
    星々が処を違える、そんなことはあろうはずがない。変わらぬ星宿こそわれらの拠り所ではないか。俺には、そのような天空を思い描くことができない。カルデア人なれば、天を支える柱が歪んでしまったかのような変事も読み解くのだろうか。
    生贄でも奴隷でもないのだとすれば、どのような企みのもとに、いかなる神慮に拠って私たちは狩り立てられたのか。私たちは以前から住んでいる者たちに尋ねまわったのだ。いつからここにいるのかと。耳馴染みがない異邦の言葉を話す者はいなかった。住人は雑多な寄せ集めで、偵察行軍中、偶々捕捉されたかのようだ。私たちもその大雑把な網に絡め取られたわけだ。一人として、連行されたときのことを覚えていなかった。それを訝っている様子もない。夢から覚めたかのように、見えない縄目を受ける以前のことを囲い地の誰もが忘れている、消されている。私たちはといえば、星神の執拗な追跡に脅かされているので、来し方のすべてを忘れることができないのだ。星神の全き憎しみが私たちを忘却から救う。
    糧と水の欠けることがないためか、病んでいる者は見当たらなかったけれど、人々の動きは大儀そうで、日がな寝そべっている後宮の女たちを思い出させた。囚われ人でありながら夜空を見上げぬ者たちは、充ち足りた物乞いとなってゆっくりと立ち枯れていくのだろう。

  • 30

    あの人はそこで何を見てきたのだろう。洞窟の奥から戻るなり、住人たちに悟られぬように脱出の準備をすると囁いたのだ。天のつくりし陥穽をことごとく躱して窮地を切り抜けてきたあの人が白光に目を細めながら私の肩を抱いた。何を見つけたのだろう。あの人は最後まで語らず、私も尋ねなかった。尋ねることができなかった。制されたわけではない。たぶん、あの人は名のないもの、名づけられないものを目にしたのだろう。
    何もかもがある名のない土地。穀物倉はいつも溢れていて、日々の糧を思い煩うことなければ祈る神は無用になるのか、長はいても神像も供物台も見当たらなかった。地味の良さにもかかわらず、丈高い樹が一本もない土地。お前たちが住まいすることになった村はゆるやかに落ち込む盆地の底にあった。村のほぼ中央に鋼色の岩塊があり、岩山を背に日干し煉瓦の家が三百戸ほど半円をつくって建っていた。半日分離れたあたりに同じような岩塊があり、遠目には駱駝瘤のような小丘に見えた。夕暮れに蝙蝠どもが舞い出てくる岩の頂上の割れ目からお前の夫は潜り入り、洞窟を見つけたのだ。監視櫓まで木柵も土塁もない邑、広大な獄屋からそれまで出て行こうと考え実行し逃げおおせた者がいたのかどうか、お前たちには知りようがなかった。
    どういう者たちがあの地に放り込まれていたのか。見え隠れする兵団は大部隊ではないが、押し包まれてしまえば逃れようのない人数だった。行軍の砂煙によって行く手を遮り圧迫を加えてくるので、連行されるのではないが道を選べなかったのだ。そのようにして追い回されるうち、てんでに散らばっていた羊が一群れに包まれるように集団は二十人を超えるほどになっていた。誰も言葉を交わさなかった。元より私たちは星の懲罰に追われる身、天の書板に科を記された者だが、他の引かれ者たちはどこから集められてきたのだろうか。怯え俯いている若者、熱に潤んだ目をした女、山羊とだけ寝起きしていたような牧人、盲の老人と手引きする小娘。夜営となれば、独り者は一人で手枕し、家族は皮袋を回し、二人連れは聞き取れない小声で話をかわし眠りについた。
    監視櫓の間を通り過ぎる頃には、一行は私たち四人を含め五十人近かった。櫓は王都の聖塔を思わせる仰ぎ見るほどの高さだった。駆り集められた者の大半がそれぞれ武器になるものを身に付けていたはずだが、兵が近寄って接収していくことはなかった。武器を持つ囚われ人。叛乱も脱走もないと決めつけられていたのだろう。
    櫓から砂礫を踏みしめ丸一日歩くと草地がはじまり羊と牛が目に入ってきた。そしてさらにもう一日進むと、眼下の広大な湖と見えていた緑が密生する麦穂だとわかった。油のように光る麦畑はひとたび分け入ると身に絡みつくように感じられた。
    櫓から遠巻きに監視していた兵士たちが村まで入ってくることは一度としてなかった。囚われ人の倉を満たしている麦や家畜たちを手もなく奪い取れるのにそうしなかった。その地の支配者がどこの国だったかついに分からずじまいだ。アッシリアが著しく版図を膨らませていた時だったが、武装の様はかの国とはまったく違っていて、まとっていたのはハイエナを思わせる緑の斑点がある長衣。
    間近でハイエナを目にするのは初めてでした。群れをつくると小さな火くらいは恐れないのか、放り投げられた後一所にまとめられた果樹園の者たちの首を狙って緑の斑点が蠢いていたのです。奴らの放つ悪臭に、私はサバガシュラがはおらせてくれた外套の縁を噛んで吐き気を堪えようとしましたが、女首領も手の者たちもハイエナどもを逐いはらうそぶりもありません。商隊とハイエナの両者に黙契が交わされているかのようでした。
    「一度は自分から手放したのだから、あえてこの腕輪を受け取ることはない。とはいえ、この腕輪と交換されたものは正当ではなかった。あやつ等は犬を使えば、たやすく姫の跡を付けることができたはずだが、念入りにも小麦袋に細工した。陰謀の手先ではない。立ち回り次第では小商いになりそうだと踏んだわけだ。この果樹園の主は姫の義姉の一人だ。夫が陰謀家の兄かどうかまでは知らぬ」
    間違えなく反乱を企てた兄だろうし、女首領はそれも分かっていたのでしょう。
    「あの者たちの木ではなかったのですか」ハイエナどもが咥えていくのであろう首のことを思い浮かべまいとしながら私は訊きました。
    「この林からどれだけの実が採れると思われるか。おそらく収量は王国一、二であろう。姫が交渉した相手は代官の下で走り回る差配人の一家というところだ。こんな戯れ唄を姫は耳にしたことはないか。ご領地の無花果は喰ろうても奥方の無花果は喰らわんぞ。面白味のかけらもない唄だが、未通娘の姫にはわからんな」
    見知らぬ私を売ろうとした差配の一家と自分の国を覆し父兄弟を追い払い実の妹を捧げものとして差し出す血縁のどちらがより罪深いのでしょう。「あなた様は私どもの巷の陰唄まで聞くのですね。兄の側女は飛び切りの美女ばかりだと申します」
    女首領は眉を上げ口元をゆるめたものです。目の端をよぎるハイエナの喉声は下卑た人間の笑い声そっくりでした。
    サバガシュラが掌に腕輪を載せると、切り窓に月が現われたかのように光が染み出してきました。
    「その腕輪、いま一度、私が身に付けてもよろしいでしょうか。思い起こせば、私は呼ばれるように惹かれて所望しました。初めて手に取るべく定められた者であったなら、どれほどの苦境に立とうと、自ら外そうとはしないだろうとも考えました。とはいえ、こうして闇を剥がすように輝いているのを目にすると、手にしたのは私ではなく腕輪が私を名指したということかもしれません」
    「姫は腕輪が輝いていると言われたが、私には暗く沈んでいて掌に重みが感じられるばかりなのだ。われらもまた覚えずしてこの腕輪の僕とされていたのかもしれない」
    サバガシュラが両の指で支え持つ腕輪は光暈のように私には見えました。その時以来、私は一度としてこの腕輪を外したことはありません。
    俺は思わずラズリ様の両腕を見た。秘密とはそういうものなのだ。己を見せず語らず、封じ込めたものと一体となって影さえも晦ましてしまう。指し示されているのに目は素通りしてしまう。ラズリ様が左手を俺の方に差し出した。俺は夜の果樹園で女首領と対座するラズリ様を見ていたので、火鉢の炭火を受けて磨き銅のように光る小さな腕輪が、遠く隔たった時間を往来する小舟に思われた。
    「触れてもよろしいでしょうか」吹き荒ぶ砂嵐に埋もれた聖道を探るように俺は指を這わせた。細工の線がところどころ潰れていて元の模様はよくわからない。謂れある代物とは思えなかった。ラズリ様が小さな咳をした。咳は止まらず、間をおいて続いた。このように咳き込むのは珍しいことではない。腕は戻されなかったので、俺は指を添えたままでいた。咳の度に腕が微かに揺れる。腕輪の感触が変わったような気がして、俺はラズリ様を見上げた。

  • 29

    「手短に言う。陰謀の首魁は姫の叔父と三番目の兄。後ろ盾は当然のごとくアッシリアだ。つまりは時を経ずしてこの地はアッシリアに併呑されることになる。鷲と冠の神殿にも叛乱の一隊が待ち構えているだろう。姫は兄に売られることになっていたぞ。自分の命を救ったと言ったのはそれ故だ。アッシリアの東方総督が王族の処女を所望したのだ」
    「あなた様はサバガシュラといわれましたね。どうしてそのようなことを何もかにもご存知なのでしょう」私は槍を伏せ、馬上を見上げた。松明に照り映える女首領の顔は革鎧のように夜を跳ね返している。
    「宝物庫の中味と王族たちの腹の中を知らねば確実に利を取れはしない」独語のような小声で女首領が言った。
    自分の浅慮を手厳しく咎められた気がして、私は身を縮めるばかりだった。そして、サバガシュラが父と話していたことを思い出した。同盟の約定締結を担って引き出物と共に入城した使節のように見える女首領は実に鷹揚に構えていた。
    「しかし商いから外れたことも一つくらいはする」と言ってサバガシュラは私の方へ馬を近寄らせた。逞しい馬の頸胸が闇を押しのけるようだった。
    「この腕輪にはいささか謂れがあって、人を選ぶと伝えられてきた。誰にも見えるわけではないらしい。もちろん、目につかないということだが。先代先々代もこの品を持ち運び並べ置いてきたそうだ。初めに手に取った者を拒まない。値はその者が支払える額にする。買い手の行く末を見届けろとは言われていなかったな。叛乱がおき、姫はいずこで果てても当然といえる今、この腕輪は禍の素だったのかもしれぬ。星神への冒涜など歯牙にもかけぬ振る舞いに導く惚れ薬でも塗りこめられていたか」
    首を振るだけの合図で一人が馬から下り松明を取って、あの人の方へ向かった。揺れ流れる明かりで土塊のように転がっている首の一つが見えた。その時初めて私はあの人の言葉を聞いたのだ。隊の一人がいくつかの言葉で問いかけているうち、ふいにあの人が声を発した。呻きでも怒鳴り声でもない。松明の男が口早に話しかけ、あの人が言葉を返し、男がサバガシュラに何かを伝えた。話されている言葉は、さっき私の口から零れ出たものと同じなのだろうか。
    「この若者の話す言葉を姫は聞いたことがあるまい。姫の国の軍団が征服した地方より遥かに北方に住まいしている者だ。遠い。姫の国の奴隷になっているのが信じがたいほどの遠さだ。これから荒療治をなす。耳を塞いでおれ」
    サバガシュラの指示にさらに二人が下馬して私のわきを通っていった。はじめの男があの人に二言三言告げると、短い言葉が返った。背後で肉の焼ける匂いがした。傷口を焼いているのだろう。あの人が歯噛みして大きな苦痛に耐えているのがわかる。私は顔を上げた。二日月の底を擦っていく雲。私はどんな名も唱えずに祈った。まだ名も知らぬあの人に、生きて行こうとだけ呼びかけた。
    「この者の命を救わねばならない。一晩動かさずに、ここで野営する」と女首領が下知して馬を下り、続いて全員が下馬すると三人で馬を引いていった。手早く数枚の莚が広げられ、サバガシュラは自分の斜向かいに私を坐らせた。商隊の者たちの動き回る気配は私を落ち着かせてくれた。あの人の手当ては続けられているようだった。
    「この国はあっけなく崩れ塵と化し、幾多の国々同様忘れられる。一国の姫にとって生国が滅びることほど大きな禍はなかろうが、姫にとって生国よりも貴いものがあるようだな。人の気持ちなど国の盛衰同様長持ちはしないと私は思うが、二人の行く末は歌物語になるかもしれぬ。二人それぞれの国の言葉ではなく、二人の名前ではなく。商いはどんな入り組んだ駆け引きがあろうと、計数に尽きる。目を見張るほどの利が転がり込もうと、思いもかけぬ災厄で身一つさえ失う破目になろうとそこに不思議というものはない。あるのは読み違いだけだ。心映えや先の読めぬ者に会うのはもちろん姫が初めてではない。しかしそなたたち二人でいることがわれらの見知らぬ不思議を引き寄せるにちがいない」
    大きな商隊の長となる者の考え方は皆どこか似ているのだろうか。ラズリ様の話す女首領のことを聞いていると、そのまま父に重なるように思えた。サバガシュラという隊長は不思議と言ったのだ。あの人と腕輪がラズリ様によってのみ見えたからだ。ナブー神像も同じだ。荒野の娘リリトゥは真昼の流星を見る人だ。
    目の前の小さな火。あの人の傍ともう一か所でも香炉のような小さな火が焚かれている。土器杯に注がれた湯を口にしたとき、涙が溢れ出した。取り入れた分より倍するのではないかと思うくらい止まらなかった。サバガシュラは無言だった。気を喪ったのか深い眠りに落ちたのか、あの人の声は聞こえない。小さな火の燃え音と遠い一つの星の瞬きがつりあって地上天空すべての音が闇に溶けてしまったようだ。極まった静けさの向こうから滴りのように女首領の声が降りてきた。
    「わが商隊の荷を検めようとする兵士は上の海から下の海までどこにもいない。二人にはこの国を出るまでの十日ほど、われらの荷となってもらう。その後五日もすればその若者の傷は塞がる。それからは二人でどうなりと生きてゆけばよい。姫は荒野の娘となるのだ」
    私を荒野の娘と呼んだのは商隊のサバガシュラが初めでありました。赤い砂の国の言葉でそう呼んだのです。四方世界の夜のただ一点を穿ち、そこから射してくる熱い光のような声で。果樹園で聞いた今でも残る二つの声。青い美しい鳥の発した奇怪な啼き声。耳にしたのではなかった。解けない結び玉に封じ込められたかのように、目鼻四肢の力、肌の感覚、何もかもが奪われて、私が鳥の声とひとつになったのだ。
    その鳥の声をお前は後に一度だけ耳にした。牛も羊も他所より三倍を超える数の仔を産し、日々決まった刻にたっぷり吹き上がる水のある楽土のような地。物生りがよく、亜麻の連作さえも可能な痩せることを知らない土地。追放と放浪の繰り返しの中でただ一度だけ自ら出て行こうとした砂光る囲い地。お前の長子エピヌーは嫌がったのだ。出て行きたくないと、この地には何もかにもがふんだんにあるではないかと。十歳に満たぬ子が家族と離れ一人になろうと構わぬと地団駄踏んだ。脱走を兵士に知られてはならなかったので、滅家の王子にして、片耳の父は長子エピヌーを縛り上げ口縄を入れた。砂と礫が壁を叩き、野百合が強く匂う砂嵐の夜、脱出する五人が監視櫓の下を抜けようとしたきにお前は聞いた。お前だけが風音を圧する鳥の声を聞いた。片耳にして類まれな聞耳の父も二人の子も、エリュシティがいつものように手をつないでいた少年も聞かなかった。櫓の高みで夜を睨む兵たちもまた聞きはしなかっただろう。

  • 28

    あの人がさらに体を小さく折って咳き込んだ。私は取って返し、おとなしく待っている驢馬を井戸に近い幹に繋ぎ、棕櫚縄の袋を下ろした。荷はひどく重く、半ば引きずるようにして運ばなければならなかった。井戸水で手を灌いでからあの人の傷口を拭き、油を塗り薬草を貼り布で巻いた。葦の莚を敷いてあの人を移し外套をかけ二つの皮袋に水を満たした。夕暮れの脚は早く、赤味を帯びていた葉群れが黒い塊となって私たちを覆う。冷気がまたたく間に這い流れて、あの人の熱をもった身体を包むだろう。
    私は袋の中身を取り出し、一つずつ並べ置いてみた。使い古しの小袋が四つ、それぞれに無花果、棗椰子、煎り麦、空豆が入っていた。松脂に似た匂いのする樹脂の塊。一番底に火打石らしい尖った石が二つあったが、引き摺ってしまったせいだろう、挽き割り小麦の袋に裂け目ができていた。
    しばらく驢馬の下肢の白毛だけが薄闇に滲んでいたけれど、それも見えなくなった。蝙蝠の掠め飛ぶ気配が感じられた。私は空を見なかった。昨日まであった父王の庇護も星々の助けも喪ったのだから、私は巣立ちした若鳥のように振る舞わねばならない。
    この数日はとりわけ夜の風が北と西から強く吹いたので、今宵の無風は有難かった。額を冷やし、口元で布を絞って水を含ませるのを三度繰り返した後、私は干棗を小さく噛んであの人の歯の間に差し入れてみた。あの人は呑み込もうとしなかった。しばらくしてからさらに三度水を垂らした後は口に入れてくれた。信用しきれなかったが、男の持ってきた油と薬草に効き目はあったのだ。
    傍らに坐って傷毒と闘うあの人の早い息遣いを耳にしていると、自分は愚かなことをしてしまったが間違った道に入ったわけではないと改めて言い切れるのだった。私は白昼の流星を見たのだ。私の為したことは王家の皆々に恥を塗ることだけれど、自ら愧じるところはない。捕らえられればひっそりと埋められ、兄たちの一人が仇討と称して獅子を一頭狩り、派手な葬儀を催すだろう。物心ついてから、いずれ王都を離れて一人神殿に入るという自覚があったせいだろう、私は父母兄姉たちに今一度会いたいとは思わなかった。どの顔もすでにしておぼろだった。そのことに私は驚かなかった。
    お前は一族の誰とも似ていない。三歳となり、眉目の行方が定まる頃には血族のどの枝を遡っても似姿を見いだせないのが明らかとなった。お前は神殿に捧げ甲斐のある美しさだった。すなわち、剛柔併せ持つ並外れた策士だったお前の父であれば、実益のない神官ではなく同盟籠絡の手蔓にと、考えを変えそうなところだったがそうはしなかった。
    私が身内の者たちの誰にも似ていなかったように、私が生した二人の子エピヌーと娘エリュシティはあの人とも私ともまったく見かけが異なっていました。滅ぼしはしないけれど、目を離すこともない星神の介入は私たち二人が三人になり、四人になっても止むことはありませんでした。翼を傷めた鳥のような流浪の日々は、時によって人から言葉を奪います。まして幼子にとっては。もとよりエリュシティはほとんど言葉を発することのない子でした。遺児キナムが今喋らないのは娘に似たかどうかは分かりません。エピヌーは、何故他の者たちのように一所に居続けることができないのか、納得がいっていませんでした。不満は火種をこしらえます。途方もない道のりを踏破する遊牧の民や商隊と同じように移動していたとはいっても、私たちのような追放されながら導かれている者とはまったく違うのです。飢えと渇き、熱砂と寒風に苛まれながら、私もあの人も数えきれない境界石を目にしてきました。甘受していたのではありません。抗ってもいません。嘆いてもいませんでした。親から子へと何がどのように伝わり途切れ隠されているのか、人はついに知ることがかなわないのです。
    似ていないと聞き、不満の火種と聞き、俺はすぐにハムリのことを考えた。エピヌーの妻とは面識がないから、ハムリとグラが二親から何を受け継いだのか、俺に見極めはできない。火種は孫の代で大きく弾け、たちまち元の枝を焼き落とした。ラズリ様から血の一滴でも享けているなら、ハムリのような男はできあがらないだろう。覚師は言われた、三代隔てれば元の姿は遥かに霞むと。グラの面差しはラズリ様までまっすぐ辿れそうな気がする。そしてキナム、言葉の代わりに種子を置いていったキナム。ラズリ様の三人の孫たちはそれぞれに俺と関わりがある。星と星を繋ぐように、ラズリ様の一族とは俺の気づいていない像を結ぶことになるのだろうか。
    耳を澄まし続けていたはずなのに、数十頭とも思える蹄の音が近づいていた。闇の城壁に潜んでいて、いきなり門を割って躍り出てきたかのようだった。あの人も目覚め、肘をつき身を起こそうとしていた。街道の方向に明かりは見えなかった。それまで周りの闇にばかり目を凝らしていたのでわからなかったが、夜空で篩にかけられているみたいに夥しい星粒が地上に降り注いでいる。硬い空に撥ねているせいなのか、私には足音の方向が聞き分けられなかった。天からも地からもやってくるようだ。私はあの人の前に膝立ちして槍を抱えた。もちろん争うことなどできはしない。私たちはすぐに引き離されてしまうのだろうか。それとも二人一緒に、何一つ言い立てる暇なく命を取られるのだろうか。
    馬が十一頭。松明は両端と真ん中の三本だった。槍の穂先も抜身の刀身も見えない。駆けるときに邪魔な葉を切り落としてきたのか、青い匂いが咽るようだ。よほど巧みな乗り手たちなのだろう、枝葉のうねる斜面で馬列に乱れはなかった。援けてくれる神のいないことはわかっていたけれど、私は両手で槍を持ち上げ天を衝いた。
    「勇ましいことだな、姫。少なくとも一度、お前は自分の命を救ったことになる。私の声に覚えはないか」と中央の者が言い、松明の前に手を差し出した。握っているのは私が先ほど、果樹園の男に与えた腕輪だった。声の主が腕輪を持った腕を横なぎにすると、右端から二頭目の騎手が私の前に馬を寄せ、腰のあたりから大きな袋を取り口を解いた。無造作に振られた袋から転がり出た首はいくつだったのだろう。あの男に従っていた犬の首が最初に見分けられた。多分あの男も、そして果樹園主たちも討たれたのだろう。
    「肝が据わっているのはよいが、自ら選んだものを簡単に手放すな。この国の運気はすでに朽ちているが、それはお前の馬鹿げた振る舞いゆえではない
    私は声の主がわかった。会ったのは二年ほど前、南のディルムンから来た商隊の女首領だ。大編成の商隊の長というより、王族のような立居だったのを覚えている。広間に敷かれた駱駝の毛布に並べられていた眩い装身具。母や姉にまじって私も気に入ったものを取るのを許されていたのだ。戦勝の直後だったので、兄たちは攫ってきた敵王の寵姫を飾る宝玉をあれこれ買い求めていた。連行されてきた中には女神官がいたかもしれない。

  • 27

    私は振り返らなかった。振り返ってそこに見えたものが、どこに私を連れ去るか知れたものではない。あの人に繋がる今ここに見えている無花果の木だけを頼りにしよう。旅ではどんな些細なことも見落としてはならないけれど、その時私は何も見まいと思い定めていた。高熱と痛みに耐えているだろうあの人には時の一粒一粒が命を削り落とすようなものにちがいない。わずかな距離を行き来するのに、我を忘れてうろたえ、自ら眩暈を呼び込んでいたような私があの人の命運を握っている、弄んでいる。私は向かい風に逆らっているようなものだった。風の中にはあの人の容態も先行きも今の様子何もかもが混ざり合っている。井戸の端で眠ってしまったとき、気を喪っていたとき、街道を通りかかった者があったかもしれないが、商いも軍の移動も盛んな赤い砂の国の主要街道に人の気配が絶えたままなのは奇妙なことだ。
    幸い驢馬は素直に歩いた。齧り取られたみたいに欠けている驢馬の左耳を見ていると、蛇を咥えていた鳥の嘴が思い出された。驢馬の歩み、その頑なな姿はしばしば融通のきかない愚か者にたとえられるけれど、遠くまで行く者はそのようであらねばならないのだろう。
    愚かであっても無力であってはなりません。いえそうではなく、愚かなことを為すためには大きな力を持たねばならないはずです。力ない者が愚かなことを為して成就するとしたら、それはなにゆえだと思いますか、ディリム・ディピ。
    以前から呼び習わしているかのようにラズリ様は新しい名でもっていきなり俺に声をかけた。
    ディリム・ディピ。この地でもっともナブー神に近き者たるラズリ様が呼んでくださった
    。人は名づけられた者になる。「ディピ」すなわち俺は書き記す者になるのだ。
    「旅では一日一日旅の掟を学べ。自分は今日誤りを犯してしまったと省みることができるのは稀なる幸運なのだと銘じておけ」とわが父は申しました。「旅にあっては、確かに愚か者では生き延びることはできないでしょう。とはいえ、取り返しのつかない振る舞いや過ちこそが隠されていた扉を開くきっかけになるようにも思います。どんなことも一度は起こります。いつも初めて起こります。それが二度となり三度となれば、そこには天のはからいがあるのではないでしょうか」
    「私はあの人を石切り場から解き放つために使わされた者。この人は余人の為しえぬことを成就するために生を全うすべきなのだと、天が呼び寄せようとする場所にこの私が連れて行くのだと信じようとしました。でも私はこの千古の地、ボルシッパを自ら選んだのではなく、吹き寄せられたようなものです。追い出されることがなかったのは、あの場所を除けばこのボルシッパの右岸だけ。そしてあの場所はといえば、追いやられ閉じ込められたのだから、ニサバとバシュム、右岸の二つの丘だけが星々の呪いを斥けてくれたのです」
    「たとえそうであっても、ナブー神像を見つけられたのはラズリ様です。ラズリ様は星々の呪いとおっしゃいましたが、私は星占を信じぬ者です。この世で決して変わらぬものは星辰の動きのみ。変わらぬもので変転きわまりないわれらの行く末を占うなど理に合わないと考えます
    「奥義を心得ぬまがいの輩はいざ知らず、星占は今宵ここにある星の動きを読むものではありません。星の声、星の夢のひそやかな波動滴りを感じ取り、私たちの言葉に移し替える、それが星占というもの。カルデアびとを軽んずるわけではありませんが、彼の者たちが豊作凶作を予知する力は、脈々と伝え来った膨大な星読みの智をもってすれば、さして難しいことではありません。その予言は記憶と計算に拠っていますから星占とはちがうのです」
    夜の天空だけに目を凝らし続けているカルデアびとの中には、白昼の空にも星を見る者がいるという。見るというより、星のありかを体で受け止めるのだろう。あの者たちは一夜一夜の星見を決しておろそかにしていない。千年変わらずに続いていようと、今宵星の地図が書き換わるかもしれないと備えているのだ。星占を認めない俺だが、前々からカルデアびとと話してみたいと思っていたので、覚師に随いて新年祭に出るのは心躍ることだ。ラズリ様がみつけ出した神像とともに乗船することに俺は初めて誉れを感じた。神像に気づいたときのことをラズリ様はこう言ったのだ。「水が光ったのです。碧玉の瞳が開いたのでしょう。あの人が召されてから月一巡り半でしたから、あの人はナブーの現身だったにちがいないという気がしました。今でも少なからずそんなふうに思えるのです
    いつの間にか席を外していたらしく、一人の女が火桶をもって現れ寝椅子の足元の火鉢に炭を入れた。そして壁穴を塞いでいた木片を一つ引き抜いた。穴の向こうはイナンナの星が瞬きはじめる刻の澄んだ青になっている。今宵は半月ではないが、半月の夕餉に供される兎とヒヨコマメと香草の煮込みの匂いがした。煮込みをこしらえているのはグラかもしれなかった。グラは左手で巣穴から出てくる兎を捕らえすぐに右手で絞めてしまう。兎はもがく暇もなく四肢を垂れる。天の神々はあのように俺たちをつまみあげ、瞬きもなく冥府に送り込むのだろう。
    驢馬が小さく足踏みして歩みを止めた。鴉だろうか、禿鷹だろうか。私は叫び声をあげた。鳥を逐いはらうために、恐怖のために、闇雲な怒りのために。おそらく、あの鳥のような叫び声を。あそこにあるのは骸ではない、あってはならない。私は守り刀ひとつ身に帯びていなかったので、なにものとも戦う術がなかったので、自らの喉を破る声を振り回してあの人の許に走った。鳥どもはすぐに飛び上がらず、塵を掻き上げるように爪を立てた。取りすがったあの人の手は日向に忘れられた凝乳のようだ。汗と熱には希の一かけらがある。あの人が呻きとも囁きともつかない声を漏らした。
    「生きるのです。私たちは生きるのです」
    私は赤い砂の国の言葉でそう言ったつもりだったが、声になったのは私の知らない別の言葉だった。
    誰一人耳にしたことがない言葉を、ある日ふいに喋りはじめた子供の話を俺も聞いたことがある。いずこから言葉の神が飛来するのだろうか。ラズリ様なれば不思議でなないが。

  • 26

    私は振り返った。乾ききった葉群は灰色に霞み、あの人が横たわっているはずの来し方は麦粥のように澱んでいる。私はまだあの人の名さえ知らない。あの人を呼ぶことができないのだと思うと、怒りと恐れに唇が震えた。私たちは名乗りあう時をつくらねばならない。清明な星夜、焔沸き立つ太陽に大釘を打ち込んででも、その時をつくるのだ。
    名は美しい。人々の名。都市の名。樹の、花の、星々の名。仇敵の王たちの名でさえ美しい。名は呼ばれねばならない。名は刻まれねばならない。
    風は絶えていた。無風なのに、灰緑色の葉が私のまわりで小刻みに揺すれている。私は王宮の果樹園にある無花果が日に二度、雀の群れで満開となるのを思い出した。今は一羽の鳥も近くにはいない。私の動悸が私の踵を危うくしているように、私の顔よりも大きな葉が自ら震えている。真水のような悲しみが私を浸した。神官となるべく産まれた姫たる私は何人からも拒まれたことがなかった。この木は私が傍にいるのを嫌がっているのだと、私は感じたのだ。牙突き立てる猪が寄ってきても、鉞を片手に無骨な手が幹をまさぐろうと、こんなふうに怖気をふるうことはないだろう。星神の腕にある稲妻がこの私に向けられていると怯えたにちがいない。この時はまだ、その土地にあるなべてのことからわが身が駆り立てられることがあろうとは思ってもいなかった。
    あの人との旅の先々で、私たちは入村入城を断られたことは一度としてない。唯一の井戸を守って猜疑の毒に目を血走らせているような貧しい民でさえ私たちを拒まなかった。しかし月が六巡りほどすると、私たちは必ず村を追われ都門を閉ざされた。前知らせはなく、追い立ての布告はいつもいきなりで、麦打ち場から、鎚を打っている最中の鍛冶場から、二人の寝藁から、刺草のように疫病のように蛇のように排された。住人たちから嘲罵や石礫があるわけではなかった。宣しているのではなく、口を取られているようだったから、日々の奉献をないがしろにされた星々の怒りと呪いに人々が操られていると私たちは考えた。神々の思惑は測りがたい。われらを一撃で滅ぼさなかったのは、嬲るためなのか、試練なのか、ナブーの導きだったのか。あろうことか臨月間近という日もあったけれど、あの人は驚かなかった。渋面一つつくらず、逆らわず争わず荷をまとめるのだった。
    しかし戦うときは容赦なかった。荒野では持たない者をも襲う輩がいるので、私もわが身を護る術を身につけ何人もの命を取った。私は教えられた通り、襲撃者の刃を受けず躱さず一跳びで相手の頸を狙った。私の刃は犠牲獣を屠る祭司のようにためらいなく奔り、汚れた血がわが身に散り注ぐ前に飛びのくのだ。あの人の鍛えた短刀だからこそできたことだ。あの人は誰よりも鍛冶の神に愛された人だったが、手業は長子にも、また孫にも伝わりはしなかった。エピヌーが剣をつくらないのは己の力を知っているからだ。水を見つける才はキナムにのみ受け継がれているようだ。
    美しからざる御姿と云われる鍛冶神だが、美しい男を妬まなかったわけだ。美しい若者は石切り場ではなく、貴顕の慰み者として宮廷奴隷になることくらいは私も知っていた。私ならずとも、あまたの女そして男の目も引くだろうあの人が、一つながりの奴隷の一行に混じっていた。己の為したことから身を翻すのではないけれど、なぜあの人はあそこにいたのだろう。今でも不思議に思う。
    お前は刻々の重苦しさに耐え切れず、男と犬が去った方へと走り出した。すると、無花果の枝を四、五本束ねたくらいの羽虫の渦が次々と立ち現われてはお前を遮り、偽りの道標となってお前を振り回したのだ。羽虫は雲が雲を誘い、水が水を呼ぶように増え続け、灰色の煙雨となって視界を塞いだ。追い払うこともままならず、お前は半ば目を閉じて両手を突き出し、渦に揉まれる小枝のように狂いまわった。
    果樹の林が不意に途切れて、目の前を岩塊が塞いだ。お前がこれまで住んでいた宮殿や部厚い城壁を支える赤褐色の石や神像がつくられる玄武岩とはちがい、岩の壁は乳白色に照り輝いていた。一木一草見当たらないのは、飛び来った種子をことごとく撥ね退けるほど表面が硬いのだろう。果樹園のはずれから一跨ぎほどの先が同じ地続きとは思えず、まるで天の指が丘の半分を移し替えたようだった。丘陵がだしぬけに消えたり、涸れ谷が瞬く間に濁流で溢れたりするのがありふれたことだと、私はまだ知らなかった。風変わりな丘、奇妙な大地などというものはなく、すべてはそのようにあるのであり、また変わらぬものは一つもないことは、その後の旅で存分に見てきたこと。
    その時、あの声を私は聞いたのだ。今に至るまで、あれほど奇怪で気味の悪い声を私は聞いたことがない。比べれば獅子の咆哮など、ただ恐ろしいだけだ。逃げること闘うことができる。
    深碧色の羽、目のまわりは黒く腹の白い美しい鳥が岩壁の縁に止まっていた。ゆるやかに弧を描く嘴の先に咥えられた灰黄色にぬめり光る蛇。悲鳴であり、威嚇でもあるような鳴き声は獲物に飛びかかったときのものだろうか。この小さな鳥から出たとは信じがたい声だった。空と岩に嵌めこまれたような鳥と蛇の不動の姿は私から動きを奪い、髪の根を締め、呼吸がふいごのように荒れ騒いだ。毀れかけた私の心が希の徴を読みたくて鳥をつくりだしたのかもしれなかった。
    「姫様」と呼ぶ声が聞こえた。私は長い間気を喪っていたのだろう。乾いた土の色はすでに青みを帯び、木々から熱が去りつつあった。私は一本の無花果の老木の根方に背をあずけていたのだった。羽虫の群れは幻ではなかったようだ。足元や着衣のあちこちに潰れた死骸が散っている。そして鳥は。私は声を探した。驢馬をひいた男が私から五、六歩離れて窺うような腰つきで立っていた。犬の姿はなかった。
    早くあの人の許へ戻ろうと気が急いたけれど、粘土板だけを積んだ驢馬を選んでしまった失態を今また繰り返してはならない。「お前が用意してくれたものすべてを教えておくれ」と私は腕輪に手を添えながら言った。
    「切り傷にはこの油を塗って干し葉を重ねて縛ってください。両方とも匂いはきついですが、効き目は十分です。敷物と言えるものは持ってこられませんでした。葦の莚と粗織ですが毛の外套がこいつの背に敷いてあります。皮袋も小さいものが一つだけです。棗椰子と無花果はたっぷり入れましたが、凝乳はひとかけらだけです」男は驢馬の傍らから動かずに言った。
    耳の後ろで気がかりの影が揺れているのは釣り合わぬ支払故ではないように感じられた。何が訝しいのかは分からなかった。私は片手で驢馬の背に括り付けられた袋の口をあけた。品物は揃っているようだった。愚かな取引の代価となる腕輪をはずし差し出すと、男は慌てて跪き、油と薬草の入った編み袋を掌にのせ捧げた。異国の職人の手になるという腕輪の浅浮彫りに指を這わせながら、私は尋ねた。「来てもらったのにこう言っては悪いが、ずいぶんと手間がかかったようだな。奴婢は一人もいないのか」
    「役に立つ者は父に同行していますので」
    「この驢馬ははじめて手綱を取る者にもしっかりと従うだろうな」
    気弱なのか狡いのか見当のつきかねる薄い唇を引き結んで男は斜めに頷いた。
    「もう一つ訊きたい。この辺りは獅子がひんぱんに出没するのか」
    「私はいっぺんも見たことがありません。小さい頃、代官様の館で毛皮に触らせてもらっただけです」

  • 25

    腰を屈めて歩き出したあの人は当て所なく逃げているのではなく、道を定めているようでした。明らかに足を速めていて、私は何度も姿を見失いそうになりましたが、光の粒が瞳の中に居座ってしまったようで周りが見えにくくなってもいたのでしょう。その時はじめて、あの人の声を聞いたのです。自分の居場所を知らせるための短い合図。この声が私の名を呼ぶのだと思い、私は胸震えました。私の耳は星々の足音ではなく、この声を聞くためにこそあるのだと思って。
    鷲座が姿を現わし冠座が去り行く間の月に誕生した姫は鷲と冠を旅する神殿の申し子として祝福され、王国の行く末は光輝溢れるものになろうと賛仰の声が絶えなかったのだ。そのお前がこの男の声だけを聞くために、自ら天秤を傾けた。お前が裏切った鷲の三星は凶星となってお前たちの歩みを阻み続けることになるだろう。
    その井戸のあった場所は私には吹き溜まりにしか見えませんでした。性悪山羊の毛玉のように絡み合う藪をあの人は槍先で掻き分け、左手で掬った水の臭いを嗅ぎ舌先で舐めてから、大丈夫というように私を促しました。水は塩気が強くて、茨で隠すほどのものとは思えませんでしたが、さらに一歩、次の一日を歩き通すための用意を何一つもたない身には大いなる恵みでした。私たちは多くの人の助けを受け、また天の御使いとしか思えぬような方とも出会って旅を続けましたが、なによりもあの人の水探しの力こそが私たちを苛む砂の猛威を退ける盾でありました。
    「崇めるべきは井戸掘りたちだ。あの者たちは三年掘り続けてようやく突き当たるような源を徴ひとつない地表で感じているのだ。私などは水が現れている井戸を見つけるだけで、獣たちとなんら変わりはしない」五十七個目の水場に辿り着いた旅の途中であの人は言いました。
    あの人は私の間近に身を寄せ、たじろぐほどじっと目を覗き込んだ後、担いでいた織物の端を槍の穂先で裂き水に浸すと私の目に当てました。炎熱に焼かれた目は渇きよりも危ない状態だったと、後に言葉が通じ合うようになって聞かされました。
    言葉が通じ合う。そうだ。今語られている言葉はどこの国のものなのだろう。赤い砂の国か。それとも天に接する銀の山国の言葉か。俺は初めて耳にするのに理解できている。ラズリ様に仕える女たちは聞き分けているのだろうか。
    渇きが癒され、目の中で沸き返っていた光が鎮められると、日盛りを歩き続けた疲れが押し寄せ、私はその場に倒れ伏してしまいました。あの人が布を水に浸し直し、目が冷やされたのを二度までは覚えていますが、いつの間にか寝入ってしまい、われに返ったのは蝿の翅音のせいでした。あの人の耳の傷に蝿が群がるさまは瀝青の煮鍋を見ているようでした。
    槍にしがみつくようにして震えを抑え込もうとしていたあの人に、私は十数度口移しに水を飲ませた。わななくひび割れた唇は足元の熱砂と同じだ。探索の部隊が出てくるのはそう先ではないはず。ここ三年間、負け戦を知らない父と兄が率いる軍団にひとたび事態が伝われば追っ手は迅速に走り来るだろう。王宮と神殿は早馬で一日半ほど、小娘と逃亡奴隷を捕捉するのは手もないことだ。井戸が苦もなく見つけられたのだから気休めに過ぎないけれど、私は井戸の周りを覆っていた藪を引き摺ってあの人を囲った。
    「私はかならず戻る。獅子よりも追手よりも早く戻る」とあの人に言った。意味はわからなくても決意は伝わるだろう。獅子よりも追手よりも、そして冥府の鳥よりも早く戻らねばならない。
    まだ影は長くはないが、陽は大きく動いていた。お前は街道から井戸まで時をかけて喘ぎ上ってきたつもりだったのに、無花果の幹の間から見える道は、思いのほか間近だった。街道の向こうは勢いのない潅木と人の丈を越える赤茶けた泥岩が散らばっていて、ものみな霞むなかで、茎の細い薊の花色が目を引いた。お前の姿も同じだ。街道がいまだに目路のかぎり無人なのは、急ごしらえの関が置かれたのかもしれない。人目を避けていたお前はすぐにも人を人家を見つけ出さなければならなかった。
    あの人がまっすぐ井戸を目指していたのとはちがい、私はただ闇雲に南へ向かって街道を見下ろしながら走っていた。無花果畑の地主の住まいから遠ざかるばかりということもあるが、踏み出した方へ進み続けるだけだ。足を止めると汗が吹き出し、喉や腕や胸の間を舐めるように流れた。その度に蝿どもの翅音が嘲笑うように甦り視界を青黒く染めた。
    私を初めに見つけたのは犬だった。横腹が油を塗ったように滑り光っている。いきなり現れたと感じたのは私の方で、もちろん犬はとうに嗅ぎつけていたはずだ。あの人の耳の爛れが侵入者があることをこいつに告げたのかもしれない。小走りの私が息を整えるのに二度止まっただけだから、井戸からそれほど離れてはいないだろう。犬と並んでいる男は私とほぼ同じ年嵩だった。犬と若者はまったく同じ目の配りをしている。目を合わさず目の端でこちらを窺うのだ。
    そのての犬は俺も知っている。父の目を避けようとする犬を見たのはそいつだけだからよく覚えている。その犬の毛もまた、犠牲獣の血を流す溝みたいに鈍い色に光っていたのだ。
    この犬は背を向けたら噛みかかるに違いないとお前は感じた。それでもお前は頼まねばならない。お前に祈る神はないのだから。
    「この果樹園の持主はお前の係累か」気位高きわが母の口調を真似て私は居丈高に尋ねた。
    「親父とお袋は」と言いかけて、若者は目を伏せ「父と母は夕暮れにならないと戻りません」と呟くように答えた。上目遣いに私の胸を盗み見る男の睫毛は女官の一人を思い出させるほど長かった。粗織の寛衣から突き出た両手は耳を吊っていた奴隷役人のように逞しい。
    「獅子に襲われて怪我人がいる。三人の者たちが私を守って傷ついた。私は何としても神殿にこの身を運ばねばならぬ」若者と犬を油断なく見据えながら私は構わず並べ立てた。嘘や作り話を吐き出すことに何のためらいもありませんでした。私は腕輪の一つを抜き「これをわが父王に示せば礼は思いのまま授けられよう。出せるだけの塗り薬と水を満たした皮袋、敷物と外套と干し果物を積んだ驢馬一頭を急ぎ所望する。どれくらいで戻れるか」
    「急ぎます。姫様」若者はすぐに背を向けた。
    「待て、名は何と」
    走り出しながら答えた男の名をお前は聞き取れなかった。男と犬は捩れた幹の間を一縫い二縫いして見えなくなったが、疑り深そうな黒犬の目がそのまま残っているように感じられた。お前は苛立ち不穏な言葉が溢れくるのを抑えかねて無花果の葉を毟り取った。葉鳴りはすぐに静まり物音が絶えた。両手の甲に赤と青で塗り分けられた星宿の護符は汗と砂で薄汚れていた。神官たるお前の役割は夜明け前、一日も欠かさず井戸の水を汲み、甕に注ぐことだと教えられていた。甕の数は月の顔だけ丸く並べられているはずだった。たかだか百数十年続いているだけの王家、さしたる謂われがあるはずもないのに、大仰な儀式をつくり上げたものだ。それはお前の王家に伝わるものではなく、この赤い砂の地に土着していた先人のものだったのかもしれない。

  • 24

    「輿の先に延びる枝道は目の前の小高い台地で見えなくなっていたので、砂埃を巻き上げ血の匂いを振りまいていきなり現れた者たちは、獣でこそありませんが、臆病きわまりない宮廷人をさらに慄かせる風体でした。足首を細鎖、頸を葡萄蔓で繋がれて近づいてくる下帯だけの男たちが二十人ほど。全員頭を剃られ、亜麻布で縛った頭の片側に血を滲ませておりました。赤い砂の国で片耳といえば戦争奴隷。その枝道は石切り場へ上がる隘路で、敗軍の奴隷が働らかされているのだと後で知りました。そこから切り出される石は赤い砂の国にとって最大の交易品で、筏に積み込めるくらいの大きさにするには若い男の力をいくらでも必要としたのです。打ち破られた国の男たちはできるだけ四肢を損なわれずに連行され、石切り場に入る前に片方の耳を切り落とされていたそうです。若者たちを駆り立ててきた奴隷役人と兵は六人で、そのうちの二人が切り落とした耳に紐を通し首に下げていました。戦に破れるとはそういうことゆえ、砂嵐の国に住まう我らは男も女も戦士でなければなりません。その場には、たった一人を除いて戦士はおりませんでした。あの人だけが顔をあげ、訝しげに私を見つめておりました。弓弦の唸りさえ聞いたことのない小娘が、この若者だけが戦士たりうると一目で信じたのです。そして、信じたことに生命を吹き込む言葉は思いめぐらす間もなく、口をついて出てきました」
    ラズリ様の指は文字をなぞり続ける。俺の刻んだ名はリリトゥの通路だ。
    「皆の者、よく聞け。われは鷲と冠を旅する大神殿の最高神官を拝命する身である。たった今、天の大神より遣わされた獅子が犠牲の勇者を求めてこの地に降り立ってきた。われはその者とともに獅子の口許に赴かん」
    雷鳴のごとき獅子のひと吠えが私の声にちょうど重なったせいで、袖と裳裾に付けられた青や紅玉髄や金の薄片を鳴らし、諸手を天に差し上げての宣を疑う者はいなかったのです。私は自分の声の大きさに驚き勢いづき酔っていました。あの人は何が企まれているのかまったくわからなかったでしょう。私とあの人の国は境を接していたのではなく、間に二つの国を挟んでいましたし、父祖の故地は天に接する銀の山の麓だと話してくれましたから、私たちの言葉にはまったく似たところがありませんでした」
    白昼の月を見上げているのであろう荒野の娘の目は、不安と決意が煮えたぎる戦士の目のようだ。ラズリ様の声が一段と深まった。
    「輿の担ぎ棒を跨ぎ越え、槍持ちの一人に手を差し出すと、兵は決め事に従っているかのようにお前に槍を預けた。お前は槍を横抱きにして繋がれた男たちの前に立ったのだ。若者たちの血はまだ止まっておらず、頬を伝い肩から腕に這う黒い血の痕を見ると、お前の腕の力も声も萎え衰えてしまいそうだった。お前は気を取り直し右手の槍で白い中天の月を指し示した。六代に渡っているだけの新興の小国とはいえ、近隣から怖れられること少なからぬ王家を一気に貶める愚行。誕生の星々への背信。しかし天は幼い暴挙に呆れ果てたのか、神罰は猶予された。そうではなく、過酷な雷撃はこの娘を産み育てた赤い砂の国の方に降り注いだというべきか。ともあれ、天は皇女の掲げた槍をその場で折りひしがず、試みの時を預けた。それゆえお前は船も流れも知らぬままとも綱を斬り、運命の流れに櫂を入れたのだ。この時はまだ、お前にはどんな力も宿っていなかった」
    「この者の縛を解き、わが傍らに立たせよ」
    神官の額飾りと杓枝の威光を頼りに私は言い放ち、奴隷役人たちが葡萄蔓を切り離し足鎖を解く間、槍の穂先をあの人の胸に突き付けていました。無知の恐れ知らずというに尽きますけれど、私は獅子の口を脱出口にと決め込んでおりました。
    「その方ら、四方の風にかけて誓え。獅子が七度吠え立てるまでは街道に下りてはならぬ、よいか」常軌を逸していたゆえ、誰一人私の真意を見抜けなかったのでしょう。私は手足の自由になったあの人に槍を持たせ、供物、捧げ物を一番積んでいそうな驢馬の手綱をとって街道へと降りてゆきました。その後何年も続くことになる放浪の第一歩だった。その場から離れ、王宮からも神殿からも遠ざかり、赤い砂の国から出るための道などどこにあるはずもなく、請願する神々も持たぬ身と成り果てたお前の味方は獅子の吠え声だけ。獅子が立ち去るか退治されて、街道に人目が戻ってくる前に身を隠し、夜まで身を潜めていなければならなかった。飾り立てた神官と血塗れの片耳のままでは、言葉の出ぬ幼子であろうと、すぐに行く手を指差すは必定。
    あの人も理由は掴めなくとも、この私が自分を連れて逃げようとしていることだけはわかったでしょう。私たちは無言で獅子の声とは逆方向に進みました。2ゲシュほど歩いた後、あの人は無花果がまばらに植わる西側の斜面に目をやると、驢馬の手綱を取り登り出そうとしました。しかし驢馬の瞳には意志のかけらもなく、四本の脚は石柱に化したかのよう。驢馬を諦め、運べるだけの荷物をもとうと荷駄籠の蓋を開けた私は膝が抜けそうになりました。荷はすべて奉納の粘土板。水の皮袋一つ入っていませんでした。あの人は表情を変えずに荷に被さっていた織り布を剥ぎ取って肩にかつぎ、何を思ったか粘土板を一枚だけ抜いて私に手渡しました。
    その粘土板にはどんな文字が刻まれていたのだろう。徴が立ち現れるのはそういう時だ。俺たちは時を自ら選んでいるのではない、知らずに選ばされているのだ。
    二人が斜面を上がりはじめるとすぐに、驢馬の飾り具が鳴る音がした。われらの宿命を弄ぶ神が気まぐれに足枷を外したのか、もとより行き先を心得ているからか、驢馬は速足でそれまで向かっていた方に走り出していたのだ。思わず天を見上げたお前は、蹄のような小さな雲が街道を映すように連なっているのを見た。驢馬がその場にいつまでも居残って足跡を曝してしまうよりはましだが、異変を最初に告げるのは一途なこの驢馬ということになるのかもしれなかった。
    斜面の灰赤色の砂泥は乾ききっていて、私が足を滑らせるだけで大きな砂煙となりました。遅れがちの私を待つ間、あの人は槍を寝かせ、街道に目を凝らしていました。陽に炙られた銀細工の腕輪が融け出すのではないかと感じられ、渇きのために喉はひび割れて、気になるのは水のことばかり。貧弱な枝ぶりとはいえ、数百本の果樹が育っているのだから、水場は遠くないと私は自分を励ましていました。無花果の根方で息を整えていると、新たな獲物に飛びかかろうとしているような暴れ獅子の吼え声が聞こえてきた。輿が入り込んだ枝道からかなりの距離を歩いてきたのに、獅子は先ほどよりずっと近くまで来ている。その場しのぎに等しい自らの言葉が呼び寄せたのだ。吼え声が六度続いたのか、七度だったのか。咆哮はそのまま途絶え、風鳴りさえもなくなった。照り返しに目を細めながら、息をこらしていると、鳥の影が次々と斜面を滑っていった。冥府の鳥たちは八つの方位すべてから石切り場に通じる方角に集まっていく。お前の宣を守ったがゆえに獅子の爪に掛けられた者が出たのかもしれなかったが、そのことに気を巡らす余裕はもちろんなかっただろう。

  • 23

    「お疲れでしょう」と笑いを含んだ声でラズリ様が言った。やはりラズリ様も館の女たちも俺がつむじ風の群れに巻かれて来るのを知っていたわけだ。ラズリ様なら風を操ることもしてのけようが、俺がここに来るのを隠す謂われはない。そもそも誰の目を欺こうというのか。
    「思いのほか長い道のりでした」誘われて俺の口調も我知らず緩んでいた。俺は膝行し、仔羊のなめし皮に包んだ粘土板をラズリ様に捧げた。ラズリ様は目尻の深い皺が線刻文字に変わるのではないかと思われるくらい長い間粘土板を見つめていた。アッカド語だけではなく、十二の文字を読めるはずなので、読みあぐねているのではない。ラズリ様は俺の刻んだ文字をゆっくりと指でなぞった。何故だろう、その仕草は懐かしかった。そして耳奥に、あなたの名前を私が辿る、という言葉が降りてきた。
    「ディリム、名付ける者にして書き残す者であるお前様に相応しい、お前様にしかできぬ贈り物です。この私には感謝の思いを伝える術がありません」俺の捧げ物に目を落としたまま、ラズリ様が口を開いた。
    「ナブーの守護者ラズリ様にそのようなお言葉を賜るとは身に余ることです」
    「ナブー神の守り手であることはその通りですが、私はお前様がひれ伏すような者ではありません。むしろ、天の斬戟を生涯浴び続けねばならぬ咎人なのです。ハシース・シン殿、お父上ビルドゥ殿がお示しくださるお心遣いこそ身に余ること。悔いたり愧じたりはしているのではありませんよ」
    ラズリ様に咎という言葉はまったく結びつかないが、天の怒りには我ら一人ひとりの理解を超えたものがある。神々と対座する貴人であればこそ、神の吐息を避ける術はないのだろう。
    粘土板に指を乗せたまま、ラズリ様は自分の左側に控える娘に向かって小さく顎を引いた。他の女たちは姿の見えないことがあったけれど、この娘だけは必ずラズリ様の近くにいた。娘の名を耳にしたことはない。
    「ディリムのお父上からの蜂蜜ですよ。六日前にハシース・シン殿が届けてくれました。どの地に咲く花蜜なのでしょうね。蜂蜜さえあれば長い旅に耐えることができます。二人して三日に一匙ずつ口に入れるだけの旅でも生き永らえたのですから。お前様が名付けてくれた通り、私は荒野の娘でした。ディリム、近くへおいでなさい。砂など、何を厭うことがありましょう。私どもはいつも砂とともにあるのですから」
    臥所の足許に控えていた俺は、もう一度膝行してラズリ様の横に座った。娘から差し出された小鉢はとても薄手につくられていて、壁の刳り抜きに灯された炎が透りそうだった。女は錫の細口から蜜を垂らした。蜜は固く重く凝っていて、小鉢に落ちきるまでに時がかかった。ラズリ様と臥所の右側にいる五弦の竪琴の巧みな娘、そして俺の後に控えていた三人の女たちも同じように小鉢に蜜を受けた。グラはいなかった。
    これもまた父が併せて届けてきたものだろうか、中指ほどの白亜の棒が配られた。先端に幾筋か切込みが入っている。石棒で蜂蜜を巻き取るラズリ様の指先を真似て、俺も蜜を口に入れた。僻遠の地に咲く花蜜なのだろう。初めての香りはやわらかで、味は荒々しかった。
    目を上げると、ラズリ様の髪を大きく覆っていた巻き布は髪留めに変わっていた。翼を象った黒曜石の浅浮き彫りだ。真中に瑠璃が嵌め込まれた髪留めの下の額は蜂蜜の色だった。荒野の娘は両の頬と頤にそれぞれ三つの赤いほくろを付けている。俺は小鉢を脇によせ、思わず平伏していた。
    「私には捨てた名があります。ラズリはあの人のくれた名。正しくはあの人の母上の名です」
    二つの声がかぶさって聞こえた。右の耳が捉えた言葉をわずかの間をおいて左の耳が捉えているような、いや、そうではない。荒野の娘の声をラズリ様がなぞっているようだ。
    「あの人の二親、あの人の国は私の父と兄が率いる軍に滅ぼされ、そして私を名付けた国、赤い砂の国はその後アッシリアの戦車軍団に一蹴され跡形もありません。父王には二人の息子と三人の娘、次女の私は生まれたときから神殿に召されることに決められていました。鷲と冠を旅するもの、そう呼ばれる神殿の神官になるためです。荒野の娘リリトゥたる私は赤い砂の国に生まれながら、城壁の監視塔に登って城外を見たこともなく十三歳までを過ごしてきたのです」荒野の娘リリトゥの声は遠くから届く花の香のようにひそやかだった。
    覚師の傍らに侍しての十一度のおとないで、俺は異国の神々の相貌から軍の布陣、刀傷の縫合、染料の採り方まで聞いていた。とりわけ船旅、造船、操船についての二人の語らいは熱を帯び、その一日は夜を徹していた。俺の話も聞きたがった。一番大きな構造の船に乗ったことがあるのが俺だったからだ。六歳くらいの時だから、船も大きく見えたのだろうが、三段櫂船となればファラオの軍船よりも巨大らしい。しかし、ラズリ様の来し方を聞くのは初めてだ。
    「私の行く末を決めたのは、私自身が目にしたわけではない獅子の親子。私を乗せた輿が通るはずの街道に三頭の獅子が現れて二人の商人が襲われたという急報を繰り返す侍女たちの声はうろたえきっていました。男は輿の担ぎ手八人のほかには形ばかりの槍もちが五名いるだけ。獅子が襲い掛かってきたら、私を護るには心もとなかったのでしょう。輿は大揺れしながら枝道に入りました。
    遠い咆哮が聞こえてきたとき、私は思わず御簾を開いていました。私はそれまで砂の道を見たことがありませんでした。小さいながら、宮殿と呼ばれる建物は焼煉瓦と黒光りする木の梁で組まれていて、中庭では七種の果樹が涼やかな影をつくり、溢れる実をもたらせてくれました。獅子が吠えなければ、私はついに砂の道を目にすることなく、宮殿から神殿へと担ぎ運ばれ、最期はアッシリアの軍勢の業火に呑まれていたことでしょう。
    砂というより、跳ねまわる白い光に目が眩んだ私がようやく目を開くと、輿を囲む全員があまりにも自信なげな様子で街道の方に目をやっていました。私は震え上がりました。この者たちは一人残らず私を抛って逃げてしまうだろう。神殿の扉が閉じられるまで顔を曝してはならないはずの私に気づいて止める者がいなかったのですから」

  • 22

    天道に踏み外しや気まぐれは起こらないとカルデア人は言う。三百五十七年に一度だけ巡ってくるという流星の洪水もあの者たちは言い当てる。予言ではない。すべて天の過去帳に記されているらしい。星読みのカルデア人たちには受け継がれてきた天の暦を独占する驕りはなく、何一つ隠さないので、これはかつてない天の歪みなのかもしれない。
    天空からの重みはいや増して、俺は劫罰の責具を負わされた罪人みたいによろめき歩いた。薄い空気に目が眩む。水の中でのように肺腑が悲鳴を絞る。冥府を統べる御神が宿命の大鎌を研いでいる場に、はからずも駆り立てられてしまったみたいな気分だが、恐ろしくはなかった。姿は天の刑場に引かれていくようでも、俺は風の瞳に守られている。つむじ風は俺の行く手を遮るわけではないからだ。むしろニサバの丘の西はずれのラズリ様の住まいに向かう俺を導くかのようだ。
    ボルシッパの城壁に立つ守備兵たちに、この俺を包み運んでいる砂柱はどんなふうに見えているのだろう。そして壁の光採りから外を覗き見ている者がいたら、砂煙の奥に俺の姿が透かし見えるのだろうか。
    音のない風に囲まれて、地を擦る俺の足音も荒い息も砂柱の外へは洩れていないのかもしれない。狂鳥の塗り籠と呼ばれる家からいつもの奇声が聞こえてこない。この家壁の前を通り過ぎる者がいると、必ず中から凄まじい叫び声が発せられるのだ。覚師とラズリ様の許へ向かうときも同じだった。外壁はすべて塗り込められていて小窓ひとつないのに、中の者は人の気配を感じ取るのだろう。囚われ人がこの丘に押し込められることはないはずなので、霊鬼に蝕まれた者にちがいない。声の調子は呪詛のようだ。どこの国の言葉かはわからない。覚師は知っているのかもしれないが、表情を動かすことはなかった。
    俺は狂鳥の塗り籠を抜け、八十歩ほどの距離にいつもの何倍もの時をかけラズリ様の家に辿りついた。外囲いを入ると、つむじ風は布が解けるように溶けていった。引きちぎられ中空に巻き上げられたらしいオリーブと石榴の枝が足許に転がっている。俺は空を見上げた。灰褐色の砂の雲が垂れ込める暗い空の底で、途方もない力で俺を射すくめる白い月。俺には月に呼びかける言葉が一つも浮かんでこなかった。上の海のさらに向こう、下の海の果て、ファラオの邦地のまた奥まで遍く見そなわす天空の神々が、この俺にだけ狙いをつけて火箭を投げ落とすことなどあり得ない。あり得ないはずだが、月の瞳はこの俺にだけ注がれる閃光のようだ。あわれな額を穿たれ、俺の栖は狂鳥の塗り籠となる。狂える者が吐き出すのは月の言葉か。俺は目を逸らすことができず、昼の月の光を嚥み込んだ。
    名づけなければならない。呼びかけなければならない。
    「リリトゥ」と俺は胸の裡で呼んでいた。俺がラズリ様のために聖刻したラズリ様に捧げるための名だ。「荒野の娘、リリトゥ、あなたのお知恵に縋らなければ私はあなたのお館をくぐることがかないません」
    ふいに肩が軽くなった。天の重しが外され、身体が大地から浮き上がる気がした。瞬きの間さえなく、俺はラズリ様の扉の前にいた。神の手指が俺をつまみ上げ、向きを変えさせたかのようだ。俺は目を閉じ耳を澄ませた。何も聞こえなかった。俺はタシュメートゥー神殿の夢見の勤行のあと、耳だけになってしまった朝のことを思い出した。背に射込まれる眼差しは感じられなかったけれど、もう一度振り仰ぐ勇気はなかった。
    「ディリムがまいりました」
    おとなう自分の声が聞こえなかった。音がないのではなく、耳を奪われているのだ。あてなく立っているうちに、長衣が砂まみれになっているのに気づいた。出がけに濯いだ顔も頭も、城門の浮き彫りみたいに砂色に変わっているだろう。ここに住むのは女たちだけだ。ラズリ様とグラのほかに五人の女が一緒にいる。しばらく待ってもう一度呼んでみた。入るように言われていても、今の俺にはわからないのだと思いなし、俺は叩頭してから扉を押し足を踏み入れた。すぐに背後の扉が元に戻り外光が遮られた。瞳孔の開ききっていた俺には室内がまったく見えず、二の腕を取って促されるまで、傍らに立つ女に気づかなかった。俺の目のせいではなく、砂留めの内壁の潜りには厚い織布が垂らされていたのだ。竃の熾火と揺らめく灯心を目にして、俺は深い息を吐いた。壁際に置かれた床机に俺を腰掛けさせると、女は水盤に布を浸して俺の両目を洗った。水盤を脇に除け、女は細長い青銅作りの杓を取って俺の右耳にもってきた。いくつもの音が同時に聞こえた。俺自身の驚きの声、炎、湯のたぎり、衣擦れ、爪先立ちの素足、外壁に吹き付ける砂、這い回る地虫。遠い月の息遣いも俺と共にある。
    女は同じように左耳に金具を当てた。俺の耳穴を塞いでいたとは信じがたい大きさの小石が二つ、女の掌にあった。
    「お待ちですよ」と女は立ち上がりながら言った。声を聞いてようやく、女の名がミリアだったことを思い出した。ここにいる女たちの出自を俺は知らない。学び舎の者たちの賄いを担うとともに、巫女であると聞いたことがある。ミリアは俺をラズリ様の居室へ連れていくのではなく、自分の手仕事に戻るようで、会釈ひとつして脇へそれ、豆枡を手に取った。
    天空の異変に立ち向かう、あるいは操る何ごとかが館の中でなされていると、俺は頭のどこかで考えていた。しかし、嗅ぎ慣れない香も炎も結界も呪の発せられた後の空気の震えも感じられない。俺の耳に石が嵌まっているのをあらかじめ知っていたこと以外は、いつものことのように菜が刻まれ、湯気がたち、手足は無駄なく動いている。
    俺はこれまでに十一度、覚師に随いてこの館を訪れている。ラズリ様の居室への往き返りとも、俺はハシース・シンの背と足許を見つめていただけで、通り抜ける館の中の様子に目をやったことはなかった。今日はすべての明かり取りの壁穴に木蓋が差し込まれているので、いつもより影が深い。それでも、目に入るすべてがはっきりと見えた。機織の糸の色、並べ置かれた大小の瓶の線刻、柱に懸かる面の口から突き出る牙。
    俺はラズリ様の寝所の手前に跪き声をかけた。長衣から土埃の匂いがした。ラズリ様の胸に障るかもしれない。砂を払ってこなかったことが悔やまれた。女だけの館でなければ着替えを所望したところだ。
    「そのまま、お入りなさい」と女の声がした。俺のためらいを察したかのようだった。
    灯油の胡麻と乾いた葉、芥子の塗り薬が入り混じった匂いはいつもながらだが、鍛冶場のような金臭さが微かに漂っていた。今のラズリ様に陽光は禁物なので、日没までは窓が塞がれている。「ひととき日の光を浴びすぎましたからね。小屋のない水路の番人みたいに来る日も来る日も」と言われたことがあった。仄暗い臥所には二人の女が控えていた。グラの姿は見えない。

  • 21

    俺は水汲み車の音を聞いていたようだった。まるで十数本の井戸に囲まれているように途切れなく車が軋り、水が撥ねていた。車の鳴る音といっしょに聞こえていた女の声が俺の名を呼んでいるのに気づくまでずいぶん間があったらしい。表に出て行くと、ヘガルゥとキナムの二人が引き返そうとしているところだった。
    「すまない。お待たせしてしまったようだ」
    振り向いたヘガルゥがキナムの両肩を押し出して言った。「この子があなたに差し上げたいものがあるそうです」
    ヘガルゥに促されたキナムははにかんでいる様子ではなかった。キナムとは顔見知りというだけで、グラの従弟とはいえ餉の座を囲んだこともない。キナムは俺の前に跪き、右の掌に砕けたまま固まったという左の掌をのせて差し出した。俺も膝をつき、象牙の透かし彫りのような小さな掌に手を添えた。キナムの掌にあるのは種子だった。穀物のものではなさそうだが、俺には何の種子か分からない。
    「俺にくれるのか。種のようだが、どうすれば良いのだ」
    ヘガルゥが口添えするかと思ったが、二人は同時に拝礼し黙って踵を返した。去って行く二人のほかに人影はなく、風も絶えている。井戸車は俺の耳の中で回っていたわけだ。
    俺は部屋に戻り、乾きかけている粘土板の端にキナムから受取った種子を並べ置いた。種子は十二あって、俺の目にはそれぞれ異なった花を結ぶもののように見えた。耳を領していた水音に召し寄せられるようにもたらされた十二の種子。種子から目を移すと、粘土板には浅い尖筆の跡があった。俺がいつの間にか刻み付けていたもの、それは文字ではなかった。絵と云えるのかどうか、伐り出された木の幹にも、細長い指のようにも見える。この木の幹らしきものに読めない文字は書かれていたのだろうか。井戸車や水の音が呼んだ線刻とは見えない。
    俺は日々夢を刻んで行くが、その一つ一つを解き明かそうと試みたことなどなかったのに、何を拘っているのか。特別な夢などはないと俺は思っている。女神タシュメートゥーが嘉納されたものも、不遜だが、俺にとっては特別な夢と言えるわけではない。特別な夢はないが、こんなふうにいつまでも気にかかる夢があるということだ。うっとりする夢、昼の時間と一続きになったような夢、追われ追い詰められる夢、繰り返し立ち現れる夢、そのどれとも違うのだ。
    俺はキナムのくれた種子を置いた粘土板を地下の棚には運ばず、切り窓の一つに入れ置いた。俺の行く末の長さによって夢の棚は増え続け、夢の部屋になり、やがては夢の倉となろう。夢の井戸。俺の井戸は俺だけが掘ることができる。俺が息絶えた時、引き継ぐ者はおらず、ただ捨て置かれるのだ。覗いてみたり、微かに滲みだしている水を舐めてみたりする者はいるかもしれない。一度生まれたものは決してなくなることはない。覚師の言われる通り、無尽蔵なのだ。人の心も、この天と地も。確かに種子だ。一度あったことは、これからの日々の種子だ。
    グラ、ハムリ、キナム、今日のはじまりから、ラズリ様の血を享けた者たちが俺の前に連なり現れている。そんなことが気になるのは、符合の魔に誘い込まれているからだ。考えが行き詰ると、俺たちはすぐ徴に飛びつくのだ。それでも、今日という日は特別な日になるという気がする。あなたの本当の名は、とグラは言った。あの娘はどうしてそんな訊き方をしたのだろう。そして俺はなぜ直ぐに、それがラズリ様に尋ねたいことだと言ったのだろう。俺はただラズリ様の傍に座り、自分のことではなくラズリ様の話を伺いたいと、長い間思ってきたのだ。覚師がラズリ様に対してはらう並々ならぬ敬意を目にしていたからではあるけれど、ラズリ様の眼差しを感じると遠雷のような予感が奔り、知らぬ間に頭を垂れているのだ。
    ラズリ様に一人で会うときに携えていくもののことを俺は決めかねていた。覚師が持っていくものはいつも変わることがない。果実と薬草だ。果実はその都度、種類がちがっていたけれど、薬草はハシース・シン自ら葉をすり潰し、火に焙り、湯と酒精を混ぜ合わせ、捧げわたすのだ。考えあぐねていたのは、おれも覚師のように二つのものをと思いなしていたからだが、つまるところ今の俺は書記見習いなのだ。
    俺はラズリ様に捧げる名を刻んだ小さな粘土板一つをもって表に出た。太陽は三枚の薄布を被されたような白い円盤となって中天に浮いている。生暖かい風がいくつもつむじを巻いて横走りし、御柳の匂いを運んできた。つむじ風は天から降りてきた紡錘竿が回っているようだった。数歩踏み出しただけで、肩が重く胸苦しくなった。人の姿は目に入らない。当然だろう、立っているだけでも奥歯を噛み締めていなければ膝が抜けてしまいしそうなのだ。一たび表に出ようとしても直ぐに屋根の下へ逃げ戻ったにちがいない。神の御使いの手指のようにつむじ風が俺の周りで渦を撚り合わせている。
    重いのは月だ。昼の月が天上の酒宴に供される酒瓶のようにニサバの丘を押しつぶしている。月は人を惑わし、血族を引き裂き、思いもよらぬ言葉を走らせるというが、それは真夜中の月だ。天候はいつでも気まぐれだが、この季節の昼間に月が大地を苛むことなどないはずだ。いっさいの物音が途絶えている。狂いまわるつむじ風にも音がない。
    今朝の夜明けは美しかった。そしてあの日も、イナンナの星は穏やかな道行を約するかのように澄んでいたのだ。前触れはなかった。馬たちがいっせいに耳を立て、父が下馬を命じ二重の円陣を組ませはじめたとき、空は色をなくし、男たちの声は唸る風に唇の先からもぎ取られていった。途切れず飛んでくる砂粒が針となって空気を掘り刻んだ。風音は金具が軋るようだった。さして長い間ではなかったが、被っていた砂塵の重さに俺は起き上がりかけたままへたりこんでしまった。「これより大きな砂嵐に遭ったのは俺も一度だけだ」と父は言った。「雨嵐とちがって砂漠の風の襲来を察知するのは無理なのだ。身を縮めてやり過ごすにしくはない」
    その日は放胆な牡牛のような一気に通り過ぎる砂嵐だったが、数千頭のガゼル群の移動のごとき地響きをたてる嵐のあとは、小さな村落を墓に変えてしまうほど砂塵を積もらせるという。

  • 20

    そして俺が我に帰ったのは着衣を取った場所だった。目覚めは陽の移りのように淀みがないので、怪しげな秘薬を盛られたとは思えない。なにものかが取り憑いて我知らず奇態な振舞いをしたというふうでもなさそうだ。足下から天井まで薄明の中にあって刻限がわからないが、ここに運び戻されたのにも気付かず、俺は収穫六日前の果実のように満ち足りて寝入っていたわけだ。これでは勤行とは言えまい。役にたたない呆け者として、捨て置かれたということかもしれない。夢を記した粘土板を奉納するのだと覚師は言われたが、尖筆を手にした覚えはまったくない。俺は毎夜かならず夢を見る。思い出せるかぎりの日々を遡ってみても、夢無しの夜を過ごしたことはなかった。夢のない眠りは蝕のようなものだ。否応なく蔽いつくされ光を奪われる。俺は目覚めの直前までまったき闇の中にあった。では、女神タシュメートゥーは瓶の水を飲み干すように俺の夢を飲んでゆかれたのだと考えて良いのだろうか。
    俺は耳を澄ましながらゆっくりと下帯をつけ長衣をまとった。祈りも呼びかけもなく神殿を去ることになるのだと気付き、俺は小部屋につながる回廊の縁に跪き黙って頭を下げた。そのとき初めて、膝が抜け肩が上がらないくらい疲れきっているのが分かった。俺は向き直り、ついに一言も捧げることなく、わが身を引き摺って控えの間を後にした。
    次の間の中央には絨毯が敷かれ数個の長枕があった。覚師こそ夜を徹しての勤行の時を過ごしたのだろう、長枕の一つに頭をのせ横たわっている姿は見たこともないほど疲れが滲み出ていた。俺もまた搾り器を二度潜った果実のように自分の形をなくしてしまった気がするけれど、タシュメートゥー神の拝顔はおろか裳裾にも触れずに立ち戻ってきたのだ。俺が戻るのをどこかで見ていたのか、すぐに女祭司がやってきて卓上の杯に液体を注ぎ入れ、促すように首を傾げた。覚師は目を閉じていた。液体は父との旅で口にした山の水のように冷えていて、かすかに花の香がした。俺が神殿へと運んだ水瓶も冷たかったのを思い出した。女神に捧げた聖水をこの俺が無遠慮に飲んで良かったのだろうかと疑念が湧いたが、卓に戻した盃に祭司が液体を注ぎ足した。始めの一杯は渇きを鎮めずむしろ募らせたので、俺は少しずつ時をかけて二杯目を飲み干した。
    「ご苦労だった」と覚師が目を閉じたまま言った。声がくぐもっていて億劫そうだ。
    「私はただただ眠り込んでおりました。というより、気を失っていたと言うべきでしょうか。ですから、何も為さなかったと後悔することもできません」
    「お前は疲れておらんのか」
    「いえ、目覚めは爽やかでしたけれど、身体を動かしてからは、血の巡りが泥になってしまったようです」そう言っているうちに、立っていることはもちろん、卓を前に坐っているのも辛くなってきて、俺もまた長枕を頼りに身を横たえた。乾し上がった涸れ谷に一筋残っていた水が砂地に消えるように俺の力は抜け出ていった。横たわり目を閉じていれば不快ではなかった。
    「お前が大働きをしてきたということだ。その身が搾り滓になるまで夢を紡ぎ続けたのだ」
    人の夢を渉猟するのがタシュメートゥー神。新たな夢のため、井戸を掘るように自分の深みへ降りていったのならば、この尋常でない疲れももっともなことだ。キッギアの井戸は掘り当てるのに十一年を要したと見張塔の文書にあったと聞いた。この俺は夢を掘り当てたのだろうか。
    「何も為さぬ者はこちらには戻ってこられない。思い出せないことはなかったことではない。我らが思い出せる夜の時はいつでもほんの僅かだ。人の耳も心の臓も麦を量る枡とは異なる。覗き込んでも決して底は見えない。いや、底というものがなく、その容量は無尽蔵なのだ。夢はお前の中にあってお前が思い出したことがないものが現れ出るための道なのだ」
    夢に乗って俺の目覚めまで漕ぎ上ってくるものが、俺に連なる遥かなる古の御方の囁きだと考えるのは愉快だ。愉快だが、そのどれかが俺の記憶の外に住まう母のものだったとしても、俺は見分けることができないのだ。
    「夢は道ですか」と俺は覚師の言葉を繰り返した。
    「夢は道だ。洪水であり、穀物倉であり香油壷だ。上弦のそして下弦の五日月でもあろう」覚師は目を瞑ったままだったので、覚師の言葉は高熱にとりつかれた人のうわ言のようにも聞こえた。
    「私にとって夢はいつでも謎です。謎であるならば、終身の牢獄だということになるのでしょうか」
    「タシュメートゥーを謎の女神と言った者がいたな。すべての神が我らにとって謎であるのは自明のこと。それをあえて事上げしたのだから、もちろん理由はあろう」
    俺は今しがた膝を立てることもできないほどの疲れを感じていたが、起き上がれないのは身体が重いからではなかった。わが身がないのだ。握り合わせる指がなく、長枕に乗せた頭の所在もない。物が見えないのではなく、また眩んでいるわけでもなく、見るための眼が消えている。俺にあるのは耳だけだ。耳だけが残っているとも、耳だけが身を離れて飛んでいるとも感じられた。死の間際、すべての力が去った後でも、最後まで留まっているのは耳だけだと聞いたことがある。覚師ハシース・シンも同じなのだろうか。指も背も目も融け流れて耳だけが立っている。
    それは覚師の寝息だろうと俺は感じていたが、寝息ではない、蜂の唸りだ、蜂ではない、扉の向こうに厚く降り積もっていく砂の軋みだ、砂ではない、砂を踏んで遠ざかる足音だ、軽い軽い足音だ、足音ではない、裳裾が地を擦っているのだ、擦っているのは裳裾ではない、尖筆だ、夢を追う尖筆だ。
    俺は尖筆を握ったまま深く息を吐き続けていた。夢は筆先に降りてくることがある。眠りのあわいに浮き沈みしていると、それとは気づかぬ間に、いくつかの文字を刻んでいたことがあったのだ。刻んだ文字が夢を辿る標とはならず、謎の上にさらに砂を被せてしまうことも少なくない。日々の夢を書くことは、煙の形を残そうとしているみたいにもどかしいことがあるかと思えば、夢が目の内側に鑿で刻まれたように貼り付いているときもある。時を経てから前触れもなく不意に隠れていた夢がみつかることもある。
    俺は目を閉じ、今朝の夢と目覚めの境目に潜りこんだ。これまで文字を読み書きしている夢はほとんど見たことがない。この文字は読めない、なぜそう思ったのだろう。読めない文字を前にするまで俺はどこにいたのか。思い出せる夜の時は僅かだ、と覚師は言われた。すべてのことには訳がある。思い出せないことにもかならず訳がある。
    覚師の学び舎にいるのだから、読めない文字を目にするのは珍しいことではない。文書館に積まれている半分以上の粘土板、羊皮、木片、布には読み方の分からない文字が溢れている。俺は読めない文字に囲まれているのが好きだ。中には憑鬼者の呪の匂いがするものもあるが、どんなものでも見飽きない。だから、読めない文字を前にもどかしさを感じたことも焦りを覚えたこともなかった。

  • 19

    俺は水路に架かる小橋を渡り、ニサバの丘の斜面を豆蔓のように巻いて上る、覚師が女神ニンリルの腰帯と呼ぶ道に入り、はじめの大曲を回ったところで歩を緩めた。まだ見えないが、坂を下りてくる驢馬と二人の足音がする。右岸にも朝の市が立つ。市と呼ぶには貧弱極まりないけれど、乾し果物や豆類、酪乳など並ぶものの質は悪くないのだと聞いた。市に出かける一人はグラの従弟のキナムだろう。少年はニサバの丘には俺より一年ほど早く来ている。キナムは五歳になったばかりの新年祭直前、鍛冶場の事故で左手甲が砕かれたという。そうなっては後に鍛冶職人として生きていくことはできないし、キナムはその日以来声を喪っていた。少年に文字を学ばせるつもりでラズリが呼び寄せたたかどうかは知らない。学び舎に来たことはまだないはずだ。もう一人は、ラズリを手伝っているヘガルゥという婚家から帰された女だろう。とりわけヘガルゥになついているのでもないけれど、キナムは市への買出しには必ず同行する。喋れないが、賑やかな場所、商いの様子が好きなのかもしれない。ニサバの丘では人の声より山羊や驢馬の鳴き声のほうがはるかに多い。粘土の書板を相手にする者たちは食事のとき以外ほとんど話しをしないのだ。俺たちが城市の学び舎に泊まっている間はなおいっそうひっそりとしているだろう。すれ違う時、俺に嬉しそうな顔を見せたのは驢馬だけで、キナムとヘガルゥは小さな会釈をして下っていった。
    文書倉へ連れ立って歩く二人の書記生の背が見えたが、建物の周りに人の気配はなかった。俺の寝所に人が入った跡はなかった。俺は念のため汲み置きの瓶の水を表に捨て、井戸端で中を二度濯いでから新しい水を満たした。
    「あいつらはここまで上がってこられない。ここには入っていないから大丈夫」と後ろからグラが声をかけてきた。俺が戻ってくるのを窺っていて、水を捨てるのを見ていたのだ。俺は瓶を持ち上げ「グラ、顔と手を洗え」と言った。グラの手にも顔にも麦粉が付いているのは夢中で臼を挽いていたのだろう。待ち伏せていたハムリはどんな言葉でグラを脅したのか。父エピヌーを差し置いて、奴が勝手に妹の婚礼をまとめることはできない。
    「良い場所を教えてもらったよ。連れていってもらってありがたかった」
    顎を突き出し滴をしたたらせているグラに俺は言った。水に光るグラの顔。濁り一つないこの娘とあの痩せ牛がどうして兄と妹なのだろう。
    「私はどうしてディリムが新年祭の神像を運ぶ船に乗るのか不思議だったけれど、さっきよくわかった。もの言わぬ瞳のために。生命の木のために。不朽の館のために。豊饒のシンバルのために。第二の月の祝祭のために。新年祭に奉納する新しい讃歌をつくるお役目なんだ。あんたは五十の新しい名を捧げるお役目を賜るのだわ」
    俺はグラがボルシッパの夜明けに捧げた言葉をしっかり覚えていたことに胸を衝かれた。一気に水位が上がるように悲しみが俺を沈めた。
    「今度、私は一人で行く。ディリムがバビロンに入る新年祭の日の出を見る」
    俺は水瓶を地面に置き、「グラ、俺も顔を洗う、支えてくれ」と頼んだ。グラの足指や寛衣のあちこちにも粉が散っていた。グラは三度に分けてゆっくりと水を零した。俺は瓶を受取り井戸桶の水を足した。グラの手はひどく冷たかった。
    「今日、午睡から覚める頃合にラズリ様をお訪ねしようと思う」
    「婆様はずっと起きている。いつでも来て」
    小走りのグラは住まいの方に向かわず、外囲いの胸壁から出て行くようだった。性悪共が居座っていることはないだろうがグラの足取りに怯えたところはなかった。
    俺は部屋に戻り尖筆を選び、粘土と小桶を整えた。死者を床下に埋葬するように俺は日々の夢を刻んだ書板を地下の壁に積んでゆく。城市の教場で書き記したものもこの丘へ持ち帰って保管する。俺以外の学徒たちも夢を書き記すように言われているのか、また覚師自身が夢書きをしているのかどうかは知らない。
    タシュメートゥー神の夢見の勤行を言いわたされたとき、俺は日々の夢書きゆえに召喚されたのだろうと考えた。しかし俺がどんな夢を奉納したのか、それは女神に嘉納されたのか、何も覚えていないし知らされていない。俺がはっきり覚えているのは拝殿に至り神像の気配を感じるまでのことだ。
    神殿の回廊は左回りの渦で七つの円形の小部屋を通った。俺の両脇には羽虫の薄羽のような透き通った布を頭から垂らし、広口の大瓶を抱えた女祭司が付き添った。俺は一つ目の部屋に入る前に長衣も下帯も取るように命じられた。七つの部屋の様子はどれも同じだった。異なるのは床に敷かれた焼成煉瓦の色と模様で、天の星々を写しているように思われた。各部屋の中央で俺は跪かされ、右手に付き添う女祭司が水瓶の水を頭から注いだ。中央左手には漉し布を被せた水瓶があり、俺の左を行く女祭司は抱えてきた水瓶の水を漉し布に透した。水と勤行者の浄めの儀式なのだろう。小部屋の出口にあたる壁にがんが掘られ小さな神像が安置されていた。円形の部屋にも部屋をつなぐ回廊にも灯がいっさいなかったが、巧みに外光を引き入れているのだろう、どの場所にも夜明け前くらいの明るさがあった。拝殿に導かれ扉が閉ざされると何も見えなくなったが、闇は柔らかく窮屈な場所ではないようだった。新たな導き手が現れる気配はなかった。俺の手には七枚の漉し布で浄められた水の瓶が残されているので手探りも叶わない。聖別された水を託されたのだから、どこかにタシュメートゥーの神像がおわすはずだ。七つの部屋は皆中央まで女祭司の小さな歩幅で九歩だったので、俺は同じ歩数だけ進んでみた。足裏の感触はこれまでと同じだ。俺は水瓶を抱えたまま跪き叩頭して待った。覚師とナディンの三人で盗み食いした女神に捧げる菓子のことを思い出した。
    それはすでに夢の中でのことだったろうか。水の撥ねる音が聞こえたのだ。俺の持つ水瓶の水が強い風を受けているように揺れ出していた。女神が顕現されていると感じ、俺は身を固くした。やがて水音が遠ざかるにつれ、瓶は軽くなっていった。腕から少しずつ重みが消えていく感触を俺は忘れることができない。蒸散しているのは瓶の水ではなく、俺自身の魂のような気がした。夢かそれとも本当に起こったことかという区別の仕方が俺には承服しがたい。夢もまたこの身に現れていることだ。