王子の部隊は露営の準備をはじめたようだ。ツァルム戦車長が隊列を止めて待機させた。青足鳥の尾羽の谷を抱える岩塊が黒々と行く手を覆っている。残照が岩ツツジの茂みにすっかり溶け込み影が濃くなってから、「ちぐはぐな行軍でしたが、一日分の距離はなんとか稼いだようですね」と戦車長は下馬を指示した。ついに一日中、王子からの伝令はこなかったことになる。俺たちは街道に蓋をする形で夜営することになりそうだ。
ツァルムは馬を外した五台の戦車を行く手に向けて弓形に並べると、王子の部隊近くにあるはずの水場まで同乗の弓兵、メディアの弓師二名を連れて水汲みに向った。二百五十人を超える王の部隊は人声や物音も大きい。正面に立ち塞がる岩塊に撥ねているのかもしれない。
後詰にあたる場所を定めに戻るメディア兵たちにアシュも同行した。城壁から一日の距離で夜襲は考えにくいが、あり得ない場所に仕掛けられるから罠となる。俺は火熾しの準備だ。父ビルドゥと過ごした日々の半分は商隊に従う旅で、その大半が野営だった。覚師に預けられる二年前からは、囲んで喰い眠るための大きな火と不寝番の小さな火をつくるのを任せられていた。土漠や岩場や枯れ野があった。皆が囲みやすいこと、眠りやすいこと、その二つだけが場所を定める決め手なのだが、それだけではないようだ。「いい火だ」と父に褒められたときほど嬉しいことはなかったけれど、「そこは相応しくない」と場所を移させる理由はいつもわからなかった。
場所を決めるのは今でも難しい。街道は緩やかな斜面の途中を縫っているので、皆で円く囲える焚き火の場所は見当たらなかった。地に手を触れ、空に顔を回らせ、風を嗅ぎながら俺はジャッカルのようにあたりをうろつく。あいつは時を跨ぎこえる。ジャッカルに倣うのだ。星が集まってくるころ、ようやく俺は古道からかなり離れた処に火をつくる平場をみつけた。すでに跡形もないが、古道の往来が盛んだったとき人寄りがあったに違いない。俺は四方に拝礼し、火を入れる場所に息を吹き込んだ。枯れ草と鉄粉と頬の薬草が匂う。気息を入れた処にキナムが火種の麦穂の籾殻を敷いた。香ばしい煙が立ち、縄を綯いあげるように炎が立ってゆく。
不意に茂みがざわめき立った。風が砂礫を巻き上げる。俺は火を庇って身を屈めた。風は俺を通り過ぎただけだ。外からくる事どもはすべて惑わし、警告などではない。今は耳の裡でふるえるものだけに気を凝らしていなければならない。
再び火が踊りだしたとき足音がした。「見つけましたな、申し分のない場所を」戦車長は静かに革袋を下ろした。王子の部隊のことは何も話さなかった。厳しい表情ではない。俺はメディア兵から借りた銅鍋に水を張り、ヒヨコマメを入れ、塩を削り落した。煮立ってしばらくしてから乾し肉を裂く。
火を見ながら考えた。尾羽の谷の木道は挟み撃ちではなく、我らを早く通させるために置かれたのではないか。ナボポラッサル王が王宮に戻って不審を抱き、増援の部隊を急行させる前に通過させ、王宮からできるだけ遠い地点まで導く。ツァルムが先発させた偵察部隊は青足鳥の尾羽の谷の口を出ても直ぐには止らず、半日目配りしながら進んだ。気配はなかった。何者にも行き会わなかった。フラシムはそこまで確かめて、薬売りとなって戻ってきたのだ。待ち伏せはさらに先の地点、不穏なのは次の夜営地あたりか。とはいえ何故途中からなのだろう。それではこの古街道をただ一本の幹とする大商人の一団、その者らが木道を企て、今その気長なもくろみの途中にあるならばどうか。いや商いは道を選ばない、難路を厭わない。時を縮めるために道をつくるのはやはり兵を動かすためだ。
木道が敷かれたのは、前方からの軍を進退させやすいためと考えるのが一番無理はない。そして我がバビロニア兵をガレ場に封じる挟撃ならば、後方からの部隊は今城壁の間近にいるはずだ。帰順の荘園が怪しからぬ構えを取っていたけれど、あの場所に大勢の兵を籠めておくのは無謀だ。急を告げに駆け戻る早馬は一頭か二頭、襲撃部隊に呼応して秘かに葬るくらいはやってのけられるが。後方から寡兵をもってするなら火を使うだろう。キッギア戦車隊は夜戦に火で勝利したのだ。
不遜にもイシャルに倣って后妃に悪態をつきながら思い巡らせてもみた。獅子狩りは后妃の思いつきで準備は破れ目ばかり、そのため兎穴が罠に見えてしまったのだとは考えられないか。罠に誘い込まれているわけではなく杜撰なため足元が危ういだけだと。なんのことはない、急造の大部隊がよってたかって不器用な矢を射たて貧相な獅子一頭を持ち帰ることになる。そして途中までの木道が謎のまま残る。堂々巡りだ。病み犬のように自分の尻尾を噛もうとしている。浅知恵を捏ねてもまともな推量とはならない。惑いは手足を縛る。「罠でしょう」と言下に断じ、焦れもせずに行軍するクシオスのようでありたいものだ。
馬に餌を与える弓兵たちの穏やかな声と馬の歯噛みが縒り合わさって聞えてくる。王子の部隊のざわめきは間遠になっていた。前方に二人、来し方に三人の警護を置いて、残りの兵たちが火を囲んだ。アシュははじめの衛士の一人として詰めたようだ。キッギア戦車隊は焼き物の底に皮を張って欠けにくくした碗を使う。碗が兵の数に足りないので、喰い終えた者は次の者へと回した。俺とキナムを除いて火を囲む全員が終わると、二人と三人が見張りの者との交代のために立った。手元を見つめ炎を眺め、皆静かに口を動かした。戦車兵と弓兵の言葉が通わないからではない。行軍での食事はそれぞれの祈りとともにあるからだ。空になった鍋を火から離すと、弓兵の一人が袋から酪のような塊を取り出し小刀で切り分けながら皆に配った。ナディアが選んだ菓子の味だった。
良い炎は人を結び合わせる。陽の下にて炎の前にて、と盟約の言葉にもあるではないか。楽の音もまた炎のように人を引き寄せる。フラシムの弦ははじめて聴く。父の隊でも七弦や縦笛を夜営で繁く耳にした。父が自ら奏することがないからか、俺は弦を手にしたことがないし、学び舎でも楽は無縁だった。
フラシムのはじめの爪弾きに俺は浚われていた。神に捧げる楽の音、俺の讃など何ほどのこともない。夜を震わせ、はじめの蕾が弾けたとき、それを感じたとき、俺は花盛りの大樹の下にいた。葉むらは風に気づかず静まりかえり、夜空が星々を従えて頭上間近に降りている。一つひとつの音を惜しむかのように弦が弾かれる。一音一音がかけがえのない供物だ。雫は連なり流れとなる。流れは伏流し倍して現れ出る。震えながら立ち昇り、水輪のように遠ざかる。かけがえのない供物を神々も我らも葡萄粒のように賞味する。
そしてフラシムは無造作に歌いだした。卑猥で滑稽な言葉がけたたましく野放図に捩れていく。惚れ薬を手に入れた宿屋女房の右往左往。フラシムは薬売りと女房、言い寄られる若者、女房の魂胆を盗み聞いた気弱な亭主の声を使い分け、二人の掛け合いを時には四つの声を捏ね合わせている。メディアの言葉に置き換えていくのはとても無理だ。無理だが弓兵たちの口元は緩んでいる。苛烈な軍神でさえ肩から鉞を下ろすにちがいない。
やがて女房ら三人は寝入り、薬売り一人が去っていく。「皆々様、この私嘘は売りませぬ。売るのは良き夢、いささかの逆夢。薬は嘘をつきませぬ」
フラシムが竪琴を置いたとき、焚火からも月光からも身を隠してしまったように見えた。
ウル ナナム
-
56