退けられた凶に向かうカドネツァル王子の供揃えは多かった。騎兵はメディア弓師の三倍、荷車が十五台、大弓と長槍の歩兵もそれぞれ五十人が連なっている。王子の乗る戦車の両隣には矢防ぎを左腕に付け短槍を握る兵と弓兵、ベルヌスら青衣たちには弓兵が一人同乗し、手綱は自分たちで握っていた。王子と青衣以外の四台の随行戦車の御はとりわけ巧み兵とは見えない。獅子の探索隊の者がそのまま道案内となっているのだろう、先頭を行く三人の男は疲労が濃くそろって顔色がよくない。
声かけも会釈もなく通り過ぎていく王子の隊を、気がかりがあるのか、キナムは首を回らせて追っていた。最後尾の歩兵を恭しく見送ってしばらくの間、戦車長は我らの隊列を動かさなかった。矢の距離を五つほど空けてから我らが動きはじめたころ、一帯はすっかり明るみ、朝の湿り気を押し分けて先行軍の埃が匂った。王子の隊列は急いでいる。急がねば獅子の群れが遠ざかってしまうと顔色の悪い連中が煽り立てているかのように、荷車の車輪が激しく弾む音が届いてくる。
道は進みやすく、あまり使われない旧道とは思えないほどだ。右手には少しずつ起伏を変える段丘が続き、ヒラ豆ほどの小粒の黄色い花をつけた草が目路の先まで覆っている。左手のゆるやかな斜面の奥で光る水の帯。川柳の樹幹も見えるので、ユフラテの支流ではなく枝水路かもしれない。
「俺に伝えておきたいことがあるなら遠慮するな」キナムは俺を見上げ頷いたが、伝書板を取り出すことはなかった。俺は続けて言った。「お前は父上スハー殿のことをラズリ様かハシース・シンから聞いたことがあるか」前を見つめたままの顎は動かない。
「俺はラズリ様から少しだけ荒野の流浪のことを伺った。苛烈な光、凍てつく風のなかをよくぞ生きてこられたと驚くばかりだ。しかし、生き抜く意志だけでは天の勘気から逃れられはしない。人が人を見出す力、それこそがこの世の不思議の際たるものだ。ラズリ様とあの人のことはもちろんだが、俺が惹かれたのはお前の父上のことだ。迷子と名乗ったのか、名付けられたのか。迷子スハーの類稀なる導き手の一言ひとことを俺は聞きたい。思い出せることは何でも書いておいてもらいたいのだ。人は明日という日がいつまでも待っていると思い込んでしまうというな。今している頼みごともまた、明日がこの車輪のように止らずに回り続けてくれるのを疑いたくないからだろう」俺はひとり言を発しているようなものだった。半歩下がって俺の半歩先を読む従者キナムは俺の左横に立っていながら、今は異なる時の中にいるかのようだ。スハーの子は二つの時を一つに生きるのだろう。それでよい。ベルドゥの子、ディリムはどうする。長駆せよ、と己に命じたいところだ。
周囲はわずかずつ色合いが変わっていった。草を這わせていた土に岩塊が混ざりはじめ、水音が遠ざかり消え、土埃が増えた。老いていく人のようだ。日々会っていれば変わりように気づかない。そしていつの間にか変わり果てている。
王子の隊は時折動きを止めた。徒歩の兵のための休息とは見えない。早くも戦車に異変が出はじめているのだろうかと危ぶんだが、三箇所目で理由がわかった。反吐だ。速足といっても熱風の季とはちがい根を上げる行軍ではない。戦場にあっては負傷者を隊列から離さない。しかし軍旅の落伍者は捨て置くことになっているので、繰り返される休止は探索行で疲労の極みにある先頭の者たちのためかと思えた。水場に着き隊列が解ける様子が聞こえてくるまでの間、六度の短い停止があった。
旧道が通い路でないのは本当だ。陽が真上を過ぎ西に流れはじめるまで我らを追い越していく者、擦れ違う者はいなかった。行く手から最初に現れたのは、薬売りに姿を変えたキッギア戦車隊の兵だった。俺に乾し葉を譲ってくれた若い男だ。先行部隊は駆け続け青足鳥の尾羽の谷を抜けたという。兵の知らせは奇妙なものだった。尾羽の谷の出口から半分ほど手前まで渡河用の筏に似た丸太組が岩場に敷かれていて、その上を踏み通れば難儀は一切なかった。
「筏といっても一つが兵士二人で運べるほどの大きさです。最近つくられたものではありませんが、置かれたのはそれほど以前ではないように思えます」駆け続けてきたにちがいないが疲れは見えず、すぐにも馳せ戻ることができそうな声だった。疲れ知らずの乾し果か丸薬でも噛んできたのだろう。
「さて、どう考えたものか。この旧道を通るものはほんのわずかだ。軍の中隊規模の移動はあったかもしれないが、人手をかけてガレ場に橋をかける手間など取りはしない。おあつらえ向きに過ぎる
戦車長が険しい目で前方を見やった。
この旧道に入るのが決められたのは昨日で、罠を整える時間はない。いや罠は以前から仕掛けられていた。そして昨日、強引に旧道が選ばれたということか。
「青足鳥の尾羽の谷は道の両側に兵を伏せておけるのですか」薬売りの頭巾を取り、戦車兵の甲に被り直している男に俺は尋ねた。
「効きましたね」自分の頬を叩いて嬉しそうに笑ってから兵は口調を改めた。「岩の裂け目のような谷ですから駆け下りてくるのは無理でしょう。襲うつもりなら前後からの挟撃しかありません。こちら側から追い上げて、後退しかかったところを木道から攻め立てる」
「護衛の兵たちだが、人数はあっても王子をお守りするにはまったく心もとない。王が帰られた後なら、間違えなく別な部隊を付けただろう。陰謀方にとってはメディア騎兵の同行は予定外かもしれないが
無言だったアシュがツァルムの横に立って言った。
「王子の隊列と擦れ違うとき、毒消しを求められましたよ」首から提げた革袋の一つを振る兵に「フラシム、隊列の様子はどうだった。病人は一人か」とツァルム戦車長が訊いた。
「しゃがみこんでいたのは一人のようでした。水あたりや熱病ってことはないと思います」
「途中で反吐を見たが
「反吐といっても、しばらく何も喰っちゃいないでしょう、水気しか吐いていない。あの面では馬に乗せるのは酷だ。少々休ませたとしても行軍は適わないと思いますよ、私は
俺はクシオスを呼び、分かっていることを残らず伝え、メディア兵たちの意見を聞きたいと話した。クシオスは弓兵たちの輪からすぐに戻ってきて「罠でしょう」と平然と言った。判断や具申も一任されているのだろう。「カドネツァル王子の獅子狩りがいつ決まったにせよ、その時から動き出した陰謀小細工と見ます。御国の混乱を待望しているのはアッシリアだけではございますまい。唆しに折れる心には何が餌となるのか思いも寄らぬもの
「領内であろうと、思いもかけぬ厄介ごとが巡らされていることもある」俺はアスティヤデスの言葉を思い出して慄然とした。メディア弓兵が警護の助けになるとも言ったのだ。
クシオスの言葉を皆に伝えると、「獅子狩りはつい先だって、新年祭がはじまる二日前のお達しだった。十日前であっても我々は不審など覚えなかった」と呟いたきりツァルムは押し黙った。
わずか十日前だったのか。王座に懸かる獅子の毛皮を纏う夢見でもあったか。信じたいことのみを信じる王妃に夢を流し込むのはたやすいことだろう。
戦車長が飲み込んだ言葉を拾い出すようにアシュが続けた。「ディリムを連れていったことはないけれど、父の領地から馬で三、四日のあたりに獅子のふぐりとも呼ばれる場所がある。黄金なすエトロクの丘と謳われた所だ。ふぐりなどと云われるのだから以前は獅子の繁殖地だったのだろうよ。獅子狩りと聞いたとき我々は、そしておそらく王もエトロクの丘を思った。思い込んでしまった。王子が探索隊を手配したと聞き首を傾げはしたが、容易ならぬ事態とまでは見なかった」
「この道を取った探索隊だけが戻ってきたからだな」遠ざかっていく王子の部隊の先に俺は目を凝らした。新年祭の七日間を巧みに突いたのだ。王の眼が離れ、何もかもが手薄になる空白の七日を間に挟んだ。
「野に魔法をかけると私たちの歌にあります」と言ったクシオスの目も街道の奥に投げられている。俺がアッカドの言葉に直すのを待ってクシオスは続けた。「恋の罠を仕掛ける女の歌、悲しい歌です」
ウル ナナム
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