内臓占いのバルゥ神官による託宣は「西方は凶」と出たという。四方面に遣わされた狩場の探索隊で帰還し知らせをもたらしたのは、キッギアの荘園からは最も遠い西よりの地のものだった。「未だかつて見たことがない群れの大きさ」と告げられカドネツァル王子は宣した。「三方面の者共はあてにならん。遠地の西端の隊の目と足を称えよう。早出すれば、費やす旅程を取り戻せよう」
バルゥ神官は目を伏せて引き下がり、凶を示した牡牛の肝臓の皿を嗅ぎつけた犬に投げ与えようとしながらも怒りを抑えて詰め所に戻り、いつものように粘土をこね、占いの元となった臓を象った。そして凶兆の棚へ並べ置いた。
王子たちが囲む占いの場に立会い、その後は神官の影に入るほどの間近で探り続けた結果を天幕の外から言上した影の声は四人だった。一人は老女だろう。この者たちは自ら目にしたことを語っているのではない。音と音の間に溝があって聞きづらいのは、粘土板を指読みしているからだ。探索と報告は別の者が担っていることになる。長い時間をかけて王宮深く入り込んだ者たちが大勢いるに違いない。王宮には列柱や壁の中に人一人潜める穴があるなどと噂されるのはこのような連中が泳ぎまわっているからだ。王の許可なく探りの目を張り巡らすのは無理だから、周到に耳目を配したのは覚師なのだろう。王子を探っている理由はわからないが。
アシュもキッギア麾下の者たちも、寄せられた知らせの出所などまったく気にせず、目指すことになる西方の地形について話しはじめた。戦車長たちにとっては、王子を何事もなく迎え入れるのが最優先の任務だからか。外郭の掘割を過ぎて半日ほどで道はいきなり狭い古道と変わるらしい。そして二日目の行程で、青足鳥の尾羽と呼ばれるガレ谷に入る。
谷は徒歩でも四半日の短い距離だが、戦車や荷車の二輪には不向きの隘路となるのだ。通ったことがあるのは最古参の戦車長ツァルムだけだった。八年前、侵入してきた正体不明の小部隊を追捕しようとしていたときのことだ。
「敵は駱駝兵が中核で、ガレ場で引き離され補足できなかったのです。我々は馬を曳いていかねばなりませんでした。戦車となれば担ぐ破目になりかねません。輜重隊の荷も同じことになるでしょう。王子の偵察隊は戦車の行軍をまったく考慮に入れていないのでしょうかね。獅子狩りの前に掌が豆だらけになりますよ。八年で地形が動き岩塊が流れ去っているのを祈るほかありません
「荷はこれ以上増やしたくないところですが、石切用の荒縄と棕櫚莚を用意していきましょう
アシュは戦車長たちを見回した。
「空荷の駱駝も五、六頭連れていきます。凶など踏みしだいて行けという王子の気負いはともかく、凶兆よりも手強いのが尖り石の隘路ですからね
鷹揚に苦笑まじりにツァルム戦車長が答えた。
出立に関わる知らせが一つも戦車隊に伝えられないのは、この俺がここにいるという、ただそれだけのことからなのか。随いてくるなら勝手にせよと。傲慢にも足らない児戯ではないか。俺への疎ましさが昂じつめたとしても、バビロニア軍の要となる軍団長に対して、かくも敬意を欠いた仕儀は王子とはいえ、いや王子だからこそ慎むべきだろう。少なくとも今はまだ無官者の寄せ集めの小隊こそ随いていく者たちなのだ。
吹き寄せ積もる怒りの粒に息を奪われかけていた俺は、キナムに肘を捉まれ、そのまま曳かれるように天幕の外に出た。戦車の縁で砕ける散光をまともに受けて目がくらみ、姿より先に声が届いた。
「間に合った。ディリムに言いたかったの、カドリ兄様は間違っている。ドゥッガさんもベルヌスのことを酷く怒っているけれど、ベルヌスたちはしょうがないわ、臆病かもしれないけれど、家来なんですもの。耳打ちを真に受けた兄様よ、馬鹿なのは。焚きつけたのはあいつだわ」
埃と陽の匂いをまとったイシャル姫を驢馬に乗せてきたのは片腕のハジルだった。
「早耳のイシャル姫様、あいつなどと言ってはいけません。山羊の目やにどもでしょう
「それは手下の方。都合の悪い話を誰よりも早くご注進するのが覚えを確かにする術だと知っている官女たち。あの女たちは黄泉の使い魔より始末が悪いの。目やにまみれのご注進をたっぷり寄進された元締めがカドゥリ兄様を迷わせたんだわ。マルドゥク神の信任寵愛を享けるのは、長子たるあなたです。あの声ばかりが大きい粘土板使いを近づけてはなりません。己は王の落し胤とまで吹聴していると聞きましたよ」イシャルは声音まで変えてまくしたてた。
王妃を元締めとはイシャルらしい言い様だ。俺がまったく迂闊だった。関心事は我が子の即位のみとなった后であれば、ものみな疑心を軸に回っている。落し胤ときたわけだ。一粒の毒麦だ。一夜にして伸び立ち、食された。俺ははっきりと簒奪者と見做されている。始末の悪い使い魔を自在に操つる奴の狙いは目論み通りに運んだのだ。王が知れば、すでに知っているだろうが、呵呵大笑し、俺の落し胤など珍しくもないと言い放つだろう。しかしカドネツァル王子が示した動揺についてはどうなのだろう。買い被り見誤っていたか。俺こそ、ナボポラッサル王の長子という冠の眩さで判断を誤ったのだろう。衣冠に膝折るとき、我らは自ずと王国の臣下となる。我らは王国と王国を横切っていくものだ、と父ビルドゥは言った。
同盟軍を得てもなお、バビロニアは優位を取ったわけではない。内紛は時を捨てることだ。我らにそのような時はない。ない時を蝕む後宮のから騒ぎ。際どい衝や血反吐にまみれる調練の積み重ねが、凝り固まった后の一念で砂に還されてはならない。ナボポラッサル王が耳目を幾重にも張り巡らせたのは憂いよりも怒りであったろう。
メディア騎兵をキッギア将軍に目通りさせたら、俺は王宮から遠く離れようと思いなしていたが、落し胤と目されては無理となった。遠方の闇は濃い。遠くにあれば忘れられるわけではない。むしろ逆だ。何をしでかすかと疑いは際限なく溢れる。あらゆる方位が俺には凶だということだ。俺は真水だ。饐えた革袋を被せられるのは御免だ。