ウル ナナム

  • 51

    帰路の途中までメディア王子に同道しているナボポラッサル王が王宮に戻り次第、軍旅は発せられる。新年祭明けとはいえ、輜重隊の召集はすでにおこなわれ、北門のあたりは怒声駄獣の軋りで熱を帯びているだろう。調練場には底籠った城内からの音も間遠に聞こえてくるだけだ。アシュと戦車、それだけがある。白く光る空と地。空と地が反り返り、大波を映しあい、俺の足元を浚いはじめる。夢に橋が架かる。遠い思い出なのか、予感なのか。砂と光だ。砂と光の中から滲み出ようとしているものを俺は待つ。足指の間を流れる砂音が聞こえていた。聞こえていたか。戦車とアシュだけを見ていたことなどなかった。なかったのに覚えがあると感じるのはなぜだ。耳にはない砂音。砂は埋める。砂は忘れさせる。
    「掌なぞ見つめやがって、爺むさい仕草をするな」胸の矢痕に拳を当てアシュが言った。誰かに聞かれるのを避けるような小声だった。
    「木の鏃はこれほど痛かったかな
    「お前の胸が膨らんだせいだ」
    「そうか、アシュは痛かったのだな、俺より」俺もアシュの手首を掴んだ。アシュの軽口と手首のしなやかな肌触りが俺を砂音から救い出す。
    「それよりディリム、王子と取り巻きの戦車を見ているのは誰だ」
    「俺は知らない。今度の旅程ではキッギア様から遣わされた方が付くのではないのか」
    「私と一緒に来た五車の誰も命を受けていない。父の隊の者が見ていれば戦車を直させる。あの車輪に気づかぬようでは、率い手としては無論、御も許されない。全部を見たわけではないが、二台は駄目だ。獅子狩りを無事に終えるのは無理だろうな。もっと早いかもしれない。今のお前には難しいが、なんとか気づかせろ」
    「やっかいだな。寵など俺には無用だが、剥奪されたとなると誰一人近づいてこない。徴つきを遠ざけるみたいにな。讃を謳った直後引き入れられ、翌朝には蹴りだされたのだから寵とも云えないがね。アシュは俺が謳った讃を聞いたかい」
    「父の兵と一緒だった。皆すぐに分かったよ、降ってくるのがディリムの声だと。そうだな、あれもディリムであり、ディリムをはるかに超えていた。シャマシュ神に紛う声と身を震わせる街の者も大勢いた」
    「神殿の讃にせよ、先ほどの御のときでも、俺は我を忘れていたわけじゃない。大きな力が俺の裡に入ったのなら、俺はたちどころに、まったき光の中に鎖されていたはずだ。自分がどのようなものなのか、ますます心許なくなっている」
    「お前があやういのは持っているもの以上に大きく見られてしまうからだよ
    「その通りさ。先ほどのクシオスの言など、アシュはともかく俺には当たらん」
    「いや、今日の御には私も大いに昂ぶった。あの御にして私もいつにない力をもったのだ。そうでなければ、二人ともメディア騎兵たちに真っ赤にされていたさ。軍神の降臨だよ。なぜなら、矢合わせの前に二人で追い乗りをしたときの御、あれが牛使い並みのディリムの技だからな
    「そして間の悪いことに、俺のものではない力をたっぷりと見られてしまったわけだ。それにしてもだ、カドネツァル王子が世継ぎに相応しいのは邦中疑う者はいない。王子自身、脅かす者なしと豪語していた。三日のうちに四万を動員する王が父。それを同盟軍とはいえ、異邦の気まぐれ一つで大転びするのは、俺にはまったく合点がいかない」
    「その異邦からの名指しゆえなのさ。バビロニア内であれば、ディリムがどれほど声高く誉めそやされようと、並びなき武勇と一身に喝采を受けようとも、王子たる己と競いあうものではなかった。召し寄せれば、人もまた己を飾る宝玉の一個となる。しかし異邦の手が掴むのはより強く輝く者だ。メディア王子の思惑がどうだったにせよ、比べられたうえで、退けられたと感じたのだろう。権高な寵姫の嫉妬みたいなものさ。もがいても詮無い、気弱になるな。事あれば、私がこの胸で盾になってやるさ。早くその矢痕を流せ」
    水場の手桶の一つを俺に放り、自分は木樋からの流水を両手で受けて首筋を洗いはじめたとき、キナムが姿をあらわした。
    「貴顕に仕える侍人のごとくではないか」水差しと手拭を受け取ってアシュが笑った。
    俺にも手拭を渡してから、キナムは帯に挟んでいた小さな木片を差し出した。
    「知らせを受けたのか」と問う俺にキナムは首を振った。
    「出発は明朝だそうだ」と木片にある報せをアシュに伝え、赤く染まった手拭を丁寧に漱いだ
    「ハシース・シン様に見込まれているだけのことはあるな、キナム。ディリムよりよほど首尾がよいではないか。幼さ、頼りなさは見かけだけか
    覚師とてあらゆる事に合わせて網を広げておけるはずもなかろう。確かにキナムは正しい星の下に出る術を体得しているのだ。スハーの血、エリュシティの瞳。そうだ、幼さは見かけだけだろう。エリュシティの子なのだから、俺よりずっと年嵩のはずだ。
    「キナム、俺の横に乗れ。メディア兵たちに伝えよう。あいつらなら今すぐにでも発てるだろうが。アシュ、この街にも父上の穀倉はあるかい。糧食の手配は我らの領分だ
    「弓師の部隊はバビロニアの穀を頼りにしてはいないだろうが、整えておこう。お世継ぎはやたらと逸っているな。ディリム以上にあやうい。明日では戦車の修理が間に合わないし、我らが予備を牽いていく訳にもいかない。獅子を見つけたらお前の戦車に乗せてやれ」
    「その栄誉はアシュに譲ることにしよう。着替えておけよ。困ったもので、目が導かれる
    「導かれるままでよいではないか」
    「いや、俺が第一に見ていたいのはアシュの額だ」言葉通りアシュの額を見据えてから、手綱を取りキナムを促した。
    「変な奴だな、胸より額か。キナム、我らはいつもこんな気の抜けたやり取りをしている訳ではないぞ」
    「変ではない。アシュの額は美しい」
    「では、讃をつくれ。私の額の美しさとやらをバビロン中に喧伝するのだ」アシュは戦車を押し出すように車輪を蹴った。
    さっきのメディア兵との乱戦の中でも讃を想った。神殿で謳ううちに、俺の耳裡が耕されたのだ。昼夜を共にするこの旅程の間にアシュの額を謳いあげてみよう。