ウル ナナム

  • 50

    クシオスの三隊目は闘気を見せず、三騎ずつ四列で俺たちに向ってくる。並足だ。矢を番えようともしていない。閲兵の場に進み入るようにも両者を隔てる川を渉ろうとしているようにも思われた。
    前触れなしに視界が変わった。砕いた骨片が白く撥ねる訓練場全体が、十二人の騎兵の顔が、そして俺の隣にいるアシュの目までがつぶさに現れている。俺の眼窩に別な生き物の目が嵌め込まれたのか。ガゼルの、川魚の、岩燕の目。何もかもが一度に見えてしまうぞ。眸なきもの、あの一所から動かぬ香柏に俺たちに見えない眸があるとすれば、周りはこのように見えているのかもしれない。根と幹、そして一つひとつの葉に眸を潜めているのであれば。
    俺は手綱を振って戦車の馬を跳躍させた。光の筒となって中空を穿つ十二本の矢。車輪が地に触れる前にアシュが一矢放ち、残り矢は双方十一本ずつとなった。
    クシオスが発した二音の短い号令で、馬群が縦横に行き交いはじめた。それぞれが勝手に馬慣らしをしているような動きだ。矢合わせの只中とは思えない。鳴き交わす鳥のようであり、石切り場の谺のようであり、嵐の先駆けのようでもあるメディア人たちの符牒の声。弓師たちはいっせいに矢を射掛ける時を待っているのか、つくっているのか。回転の向きや速度を小刻みに変えながら伸び縮みする騎兵の広がりに呑まれぬよう、俺は戦車を高架台の下に寄せた。それだけのことで視界が揺れ、額が沸騰している。掌には軋む手綱。戦車の台座を踏みしめる両足。しかし俺の目は唸りを発して回る石投げの袋だ。肩上から俺たちを見下ろすカドネツァル王子たちも俺の視野にある。アシュは微笑んでいる、微笑んでいる。俺の目はどこに付いている。これで御するのは無理だ。地割れの縁で爪立っているような今の俺は腐れた車軸より始末が悪い。会戦の最中にこの目を嵌め込まれたら、尾を噛もうとする狂い犬となって潰走のきっかけをつくるだろう。
    ほぼ同時に十頭が歩みを止めた。動かぬ騎兵は騎兵ではない。騎兵として馬を走らせているのはクシオス一人だ。クシオスは囮であり、こちらの出方で最後の射手となるのだろう。前後二頭ずつとなったメディア騎兵をつなぐ線はちぐはぐだ。なんの形になぞらえよう。暢気な思いがよぎった。麦刈り鎌だな。麦刈り鎌が二本並べ置かれている。今放てば、アシュの矢は前の五人とも楽に仕留めるはずだ。アシュは若い弓師たちの策を見ているのだ。メディア人たちにも、アシュが待つという確信があるのだ。策の行方を楽しんでいるアシュは俺の異変に勘付いているのだろうか。
    異変のはじまりは神殿の讃だ。いかように張り上げても、俺の声がドゥッガの窯まで届くはずがない。大風の背に乗ってあまねき渡った俺の讃。そして宮殿では耳だった。万匹の蜜蜂を使者として音を集め言葉をつくり、耳の裡に運び入れ積み上げた。タシュメートゥー神が俺の夢を飲んでいったように、あずかり知らぬ力が俺の喉に耳に目にひととき宿りする。俺は力を使う者ではない。はじめて駱駝の背に乗った幼子のように翻弄されるだけだ。
    天碧を背に中空で旋回する鷹の目をもつ俺は、若い弓師たちの策に気づいた。思いもかけないことだが、馬を止めている処から推せばそれしかない。五頭の脚の下にはいずれも落ちた矢がある。前に置かれた麦刈り鎌は盾だ。後列の五騎が体勢を崩して落ちている矢を拾い、二矢を持つ時をつくるための盾。「二本しかないと考えるな」というアシュの言を弓兵たちは策としたのだ。馬上の者たちが典礼に則っているかのように、ゆっくりと矢を番えた。
    俺は自分の動きを空の高みから見ている。クシオスが後列の鎌の刃先に馬首を向けた。戦車を斜行させ、俺は一気に前列の鎌との距離を縮め、鎌の柄から反転して二列の間に割り入った。五頭の鼻先を薙ぐように走り抜ける間に、アシュは十本の矢を悉く手投げして弓師たちの胸と背に赤を印し、残った一矢を番えた。その間に息継ぎひとつなかった。メディア騎兵たちの短い呻き、馬たちの歯噛み、アシュの矢音の中で、俺はこの場の讃を刻みたいと胸弾ませている。我知らず謳っていたか。
    撃たれる自分を見るのは奇妙なものだ。避けられないと気づいたのは、痛みで息を詰まらせた後だったように思えた。それが一本だけ放たれた矢だった。クシオスの左胸も赤く染まっている。
    「相撃ちではないぞ。お前たちの勝ちだ。見事な一矢だったぞ
    俺はアシュの言葉をすぐに大声で伝えた。俺が矢を受けたとき、アシュの矢はまだクシオスを捉えていなかったのだ。三十六人の騎兵たちが駆け寄り、戦車上の俺たちを左右から供奉するように包んで片膝をついた。赤く印された胸と背を眺め渡すと、アシュの弓の技量に息を呑んだ。神軍の一翼に並ぶこともできるだろう。
    痛みのせいか、俺はいつもの視界を取り戻していたが、高架台からの眼差しは赤く染まった俺の胸を刳り抜くほどに感じられる。弓師たちが伏しているのは女神と見紛う射手に対してだが、かの人はそう見ないのだ。
    「心強い味方を得たものだな、我らが邦は。お前たちを鍛えた長にお目にかかりたいものだ」
    「ディリム様はすでに。アスティヤデス王子なれば」
    「何だと、王子が直々に調練されるのか」
    「殿は戦車を御されませんが。戦車も騎馬隊も指揮されるのはサーム将軍だけです」
    「ご覧いただければよかったな、お前たちの戦ぶりを」姉の目を見せてアシュが言い顎を上げたとき、まなじりが翳った。
    「アスティヤデス王子、サーム将軍のお目に間違えはございませんでした。我が王子にこそ、お二人の姿を」
    若輩どころではない。年回りこそ青衣たちと変わりないが、クシオスはメディア王子の副官の一人だろう。王子の意を体している。
    「今日明日、痛みは残る。井戸釣瓶が辛いぞ。水汲み役は気の毒だな」と告げ、騎兵を解散させた。振り向くと、高架台に残っているのはベルヌス一人だった。言っておきたいことがあるような気がしたが、ベルヌスは俺の目をはぐらかすように背を向けた。木の実の匂いが咽るようだ。アシュと二人して全身を赤く染めていたころには気にならなかった染料の匂いだ。水場に向う弓師たちの馬音が遠ざかっていく。馬柵に繋いだ俺の戦車と二頭の馬が逝きて還らぬ乗り手を待っているかのようだ。