ウル ナナム

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    広間の賑わいが増していた。戦の帰趨を握る者の居場所は片時も見失ってはならないのに、アスティヤデスの姿が見えない。野放図な飲み食いが礼に適う新年際にありながら、アスティヤデスは寛ぎを妨げるのだ。あの男はメディア王宮の中にあっても異邦の王子のようであり続けているのかもしれない。構えを解くなと言ったはずのウッビブからして、今は武器など握れぬ脂にまみれた手をしている。酒盃を持っていないのはベルヌスだけだ。
    溜息がひとつ出た。この小さな息のたった一日の連なりのなかで、俺はナブー神の讃を謳い、メディア王子に揺さぶられている。昨日は陽炎の向こうだが、昨日が遠いのは募ってきた空腹のせいかもしれない。俺は今日の讃のために一昼夜の食絶ちをした。二日間で腹に入れたものはドゥッガの仕事場での一掴みの乾し果だけだ。娘が運んでくるものを待つつもりで、ウッビブが取り分けてくれた炙り肉を断ったものの、いったん気になると空腹が剥がれなくなった。「腹の中で顎が吼えるぜ」船乗りたちの言い草を思い出した。「喰えるときを手放すな」メディア語で呟いてみると、七日喰っていない者のように舌がもつれている。見苦しいことだな、ディリム、腹減らしが食い物に溺れているではないか。
    焼き菓子の匂いからだろう、「それでは簡単すぎる」と覚師に反論したナディンが思い出され、砂煙の向こうから寄せてくるアッシリア軍の鉄塊が額の内で脈打つ気がした。
    「ナディア、前にも口にしたことがあるのか、これを」両手で高い脚付きの銀器を運んできた娘を俺はナディンに寄せた名で呼んでいた。娘は俺の問いに答えず、「アスティヤデス王子があなた様をご召命になりました」とメディア語で言い、銀器を差し出した。菓子を載せた器は武具のように重かった。腹減らしのままアスティヤデスと相対したくはなかったが、娘は葦原に射す曙光のように、ためらうことなく人群れの間を歩いていく。俺は供物を捧げる儀礼神官の姿でメディア王子に拝謁することになるのか。
    水路のように連なる灯皿の炎を受けて、王族たちの袖口を飾る金糸銀糸、大皿に埋め込まれた玉が煌めく。肉汁と酒精、香料が満ち、俺たち自身が大鍋に投げ込まれているようだ。浮かべているわけではなかろうが、八本櫂船の横腹に水の揺らめきが映っていた。船板は宴のためにつくられた模造船とは思えない部厚い材だ。艫近くの潜りから板橋を渡り入ると、甲板への階があるだけの平間には毛羽立てた敷き皮が重ねられていた。あちこちに若い男や女の腰を抱えて蠢く貴顕たちの姿が見えた。その間を俺は焼き菓子を抱えて縫い進んだのだ。ナディアと名づけた娘の足取りは変わらなかった。夜の冷気が額に流れ、菓子の香りが強まった。望楼に出たらしい。娘は器を受け取って数歩動き、膝を折って銀器を捧げた。アスティヤデスの右眼と鼻梁だけが見えた。錐に積まれた焼き菓子が発光しているかのようだ。
    「宴のたける前にお主に頼んでおきたいことがあってな。カドネツァル殿にはもちろん許しを得てある。ここに控える者たち、この度率いてきた弓師部隊に属する年少の予備兵だが、お主に預けたい」
    「お家来集の気配をまったく感じませんでした」いきなり用向きを切り出したアスティヤデスに俺は驚きを隠さずに言った。カドネツァル王子を囲む俺たち九人より遥かに厳しい調練を潜ってきた連中がここにいる。若き力に恵まれていないだと。儀礼上の謙遜どころではない、わが方の未熟を嗤われているのだ。
    「新年祭後、王子とともに獅子狩りに出かけ、さらに将軍のもとで戦車の技を練ずると聞いた。こやつらに戦車の動きを見せておきたいがアッカド語を解せぬ。そこでお主との同道を乞うたのだ。皆大地を歩くより先に馬の背に乗ると云われる部族の出自、馬上の弓なればいずれ比類なき者共となろう。しかしな、ひとつことのみの練磨は片手を縛り片目を塞ぐともいう。命に従って駆けるとはいえ、騎兵は己の判断で進退せねばならん。何事も見知っておくに如くはない。差し出がましいが、領内であろうと思いもかけぬ厄介ごとが巡らされていることもある。多少とも警護の助けにはなろう

    メディア王子は小声で、ほとんど囁くように話していたのだと気づいた。ひととき遠ざかっていた空腹が立ち戻り、腹鳴りがしそうだったからだ。空腹だけが真だ。この腹減らしゆえに、俺は同じ時の連なりの中にあると辛うじて信じることができる。父に連れられた二度目の東への旅で出会った舞踏占い師のことを思い出す。彼奴は一回転する度に仮面を付け替えていた。狂鳥の、毒蛇の、馬鹿笑いの、爛れた目鼻の仮面。俺はあの旋回する占い師のように時をおかずに異なる仮面を被せられている。我らの命運は一夜にして一瞬にして変転する。王国の姫ラズリ様が荒野の娘となって光暈の下をさまよったごとく、俺の口が唱えた讃はオリーブを叩く竿のように新たな顔を一時に降りかからせた。我がバビロニア王子、イシャル姫、煉瓦積みのドゥッガ、アスティヤデス、すべては今日一日の中でのことだ。空腹だけが今の俺を正気に繋ぎとめてくれる。
    「御下命とあれば是非もございません。これほどの鋭気をもつ同輩にお供できるとあれば、私のほうこそ受けること大でありましょう。光栄なる仰せと存じます」本心から応えたが、戦車のことならメディアにはあのサームがいる。今夜耳にしたばかりの獅子狩りにかこつけて思い付きを装っているが、王子が仕掛けた罠はこの俺一人を待っていた。ナディアと名づけた娘もまたあらかじめ俺に配されていたと疑えるが、客人の身で人を宰領することは無理だろう。いや無理のあるところこそ、アスティヤデスの本領なのか。
    「訝しそうな顔をするな。お主は私の臣ではない。どう答えても咎めは受けぬ」
    アスティヤデスが身を起こす前に背後の者たちが立ち上がり横隊となっていた。革と草の匂いが流れた。アスティヤデスは俺の肩を抱き、立ち並ぶ若者に一人ずつ見えさせた。篝火は遠かったけれど、夜闇が一人ひとりの貌だけを絞り出すかのようだった。俺は名乗りを受ける度にその名を声に出した。二度ずつ繰り返される異国の名は讃の朗誦のように俺の気持ちを昂ぶらせた。若者たちは三十六人だった。メディアの騎馬弓兵は剣や斧を振るうことがないのか誰もが細身だった。
    アスティヤデスは腰を下ろし「指図はクシオス、そしてバルスに伝えてもらいたい。アーバは私の末弟だ」と付け加えた。アーバは最も年少に見える三人のうちの一人だ。弟と云われてもアスティヤデスに似たところはないように思える。メディアは王族太守の出であっても、兵に混じって兵として遇されるのだろうか。メディアを束ねるキュアクサレス王が弓師の部族の出とは聞いていないから、アーバは異母兄弟かもしれない。
    微かな風が水輪をつくるように円座が組まれ弓師たちは一様に膝を立てた。ナディアと名付けた娘が銀器を中におくと、俺の隣にいたクシオスが菓子を取り、左回りに順を追って菓子を取った。食事の作法も部隊の進退の決め事を思わせた。目前の仇敵アッシリアほどには新しく契りを結んだ邦のことを俺は知らない。騎兵の短弓と武勲歌くらいだ。最後に左隣のアスティヤデスが二つの菓子を取り、ナディアと名付けた娘に一つを渡した。残りを二つに割り、その半分を俺に取るように促した。メディア王子が手に残った菓子を口に入れても誰一人自分の分を食べようとしない。どうやら首領手ずから分け与えられたものが口に入れられるまで、他の者は食べ始めないらしい。この俺に対して礼を失することになるようだ。この円座は新年祭の無礼講を離れて軍旅の始まりを感じさせた。