ウル ナナム

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    「ディリムがアスティヤデスに返したのはメディア語だったのかい」
    一番達者なメディア語を話したリシャの問い、どこの国ともつかぬ言葉を使ったのは俺の迷いではなかったのだ。
    「ディリムはこう言ったのさ」いきなりハンムが俺の発した呪文を一言も違えず繰り返した。俺の耳にあの言葉を注ぎ入れたのはハンムだったと考えたくなるほどだ。他の者の口から聞くと、呪文ではなく厳かな聖句のようにも思える。音の粒のいくつかは、アッカドにもメディアにも、そして俺が知る言葉のどれにもない柔らかく鼻に抜けていくものだった。戸惑う俺を宥めるようにハンムが言った。
    「俺は粘土板だよ。人の話がそのまま刻まれて消えない、忘れない。人にできないことをする者は異能と持ち上げられるが、俺の力は何の役にも立たん。婆様の話では、この妙な技は我が一族の女にだけ顕れてきたものらしい。俺が持ってしまったせいなのか、姉にも二人の妹にも出てこなかった。益になりはしないのに我が家の女たちは不満で、俺の咎みたいに言い続けていたな」
    「役に立たんとばかりは言えないぞ。代々とは怪しからんよ。益はなくとも意味があるかもしれない。ハンムは子をなして、その力を伝えるべきだな。五代か九代先に意味が開くこともある」ベルヌスは自分の耳に湧く哀歌のことを思っているのだろう。イシン王ヤシュジュブを「粘土板のごとき男」と王子は言ったけれど、人の言葉を丸ごと聞き写してしまうハンムこそ粘土板だ。
    「ちょうど花嫁候補がお出ましだ。あれなるおとめごにハンムはどんな飲み物を所望したのだ」
    「わからん。メディア王子と同じものだ」シャギルの軽口にハンムはぶっきらぼうに答えた。
    アスティヤデスは手振りを交えて巨漢に話しかけている。間に二人の男がいるので小声ではないはずだが、宴席は人声に充ちていて、離れた者の声に耳を寄せるのはとても無理だ。
    「聞き取れるのか、あんなに離れていて
    「耳を立てればな。しかし、これまた益のないことさ。メディア語だったのだろうか。俺についた娘はわかったようだったな」
    飲み物に合わせるのか、アスティヤデスとハンムの酒盃は同じ色形のようだ。俺たちは皆、自分に手渡されたものではなく、ハンムの盃の方に顔を寄せていた。酒精の香りではなく、薬草らしき青苦い匂いがした。煎じ薬か、と誰もが訝った。舌先を浸したハンムは「まさに」と顔をしかめた。「まったくもって分からぬお人だ。たぶらかされた気分だが、宴の前に乱れ止めを入れておくのがメディア王子の習いかもしれない。わが方も心得て用意してあったわけだからな

    当のアスティヤデスは、ひと啜りした後一気に盃を上げ、運び手の娘に戻している。
    味も香もない真水を半分ほど飲み、俺は薔薇色の大理石の碗を娘に差し出した。「私はディリムという者だ。お前のことは何と呼べば良いのかな」。
    「名づけてくださるままに」と目を伏せ、娘は受け取った盃を含んだ。
    「難しいことを言う。それでは、お前が口にしたいものを取ってきておくれ。戻るまでに名を考えておこう
    娘が幼子のように目を輝かせた。新しい名のためではなく、食ってみたい料理があるのだろう。見知らぬ男にかしずかせるために厳格な作法を埋め込まれているはずなのに、無防備な喜びようだ。娘の撥ねる髪を見て眉根の開く心地がした。呪の澱で、俺は肩を強張らせ渋面をこしらえていたにちがいない。
    「さて、仏頂面をさらしていても詮無いことだ」いちばん口の重そうなウッビブが切り出した。「気まぐれだとしても、アスティヤデス殿は我らを留め置いたのを忘れはしないだろう。構えを解いているとカドネツァル王子に恥をかかせてしまうぞ。かく云う俺が一番危ないがね。アスティヤデス王子のメディア語にアッカド語で応える勇気はないからな
    いや、九人のなかで誰よりもこの俺が危い。どちらに飛んでしまうのか定めがたい弓弦を俺は構えているのだ。
    「ディリム、俺の家は攻城部隊の束ねの四代目、ベルヌスの家とは真反対の役目ということになる。攻城兵は敵の言葉を覚えておくのさ。危険な反撃に気づくこともできるし、城兵を罵倒し続けていれば肝は縮まない。メディア語よりアッシリア語を知るに精一杯なのさ」
    四人の運び手が運んでいる料理を載せた長板をウッビブは樹上の実をもぐように易々と抱え取り、俺たちの間に置いた。
    「まずはしっかり喰っておこう。五十日もすれば俺たちの何人かは、いや下手をすれば皆もろとも冥府落ちかもしれぬ戦だ。喰えるとき、飲めるとき、眠れるときを手放さないのが生き残りの術のすべてだと云うぞ」
    顔を隠すほどの炙り肉の塊に歯を当て喰いちぎるウッビブの様は獅子もかくやだ。
    「お前の歯ならフンババと渡り合えるな。香柏の幹だろうと齧り倒せる」「ナボポラッサル王はこいつが八歳くらいの時の肉の喰いぶりをいたく喜ばれてな」青衣の連中もそれぞれ長板に手を伸ばしながら言い立てた。
    「頑丈な顎は大戦士の証さ」
    「ウッビブの歯は骨砕きだけじゃない。こいつはね、ディリム、このフンババ並みの歯で獣の骨を伐り削り穴を穿って笛にしちまうのさ。その骨笛の音色は、駄獣も鳥も砂嵐さえも黙らせる」
    「羊飼いの笛だって羊を眠らせる。砂嵐はともかく、耳傾けてくれる樹はあるな。いずれにしても俺が次に吹くのはニネベの城壁の上だ」
    ニネベを思い描いてだろう、皆が遠い目になった。ニネベが難攻というのは当たらない。アッシリアの二代に渡っての王は野戦で大敗し城壁を囲まれることはなかったからだ。
    アッシリア重装歩兵の盾は重い。表面の鉄板の厚みはバビロニアと変わりないのだが、その内に牛革を貼り青銅の薄板を合わせている。遠矢では貫けず、四方から囲い込まれても、全身を覆うほどの盾が城壁となる。覚師ハシース・シンは百六十人の百人隊長を一つに押し包めばと言ったが、それこそがアッシリア軍の本領ではないのか。
    青衣の九人はカドネツァル王子の旗下に入り、この俺は書記として傍らに侍することになりそうだ。俺は怖じているのだろうか。怖じては戦の行方を見失い、書記を全うできない。全軍怖気づき敗走がはじまっても、書記たるもの高丘の城砦に立つ如く構えているのだ、と覚師は言われた。書記の役割は生き延びて記すことに尽きるのだから、最後に退き先を駆ける者であれと。