儀礼の手順を違えずにことが運んでいる。メディアの戯れ歌はどこに行ったのだ。俺はあらぬ方に無駄矢を放ったのではなく、そもそも矢をつがえてはいなかったということか。メディア王子を前にして、俺はメディア王子の夢を見ていたのかもしれない。こうして立ったまま。その証にアスティヤデスのいでたちが初め見た時と今ではすっかり変わっているではないか。
ベルヌスが強く袖を引いていた。何度もそうしていたのだろう、「どうした、行くぞ」と声を強めた。俺は目を伏せ、ベルヌスの背の青衣だけを見つめた。俺にだけ従者がつけられたのは、俺が我を失う者だからか。
「慌てて下がらずともよい」アスティヤデスの呼びかけはメディア語だった。「皆、私とさして変わらぬ年回り。王よ、共に宴を楽しませてくだされ。先ほど申し上げた通り、わが国には盃を交わすに足る若き戦士がとんとおりませぬ。この方々の率直な物言いは誠に愉快。ぜひお許しいただきたい」
率直な物言いだと。俺はメディア王子に翻弄され虚仮にされているぞ。
「戦勝の無礼講ならともかく、この晴れの日に膝下に加えていただけるとはまたとない誉。有難くお受けして若殿のお話を存分に聞かせていただくとよい」ナボポラッサル王の口調は鷹揚で満足げだ。カドネツァル王子も恭しく語を継いだ。
「アスティヤデス王子、私からも御礼申し上げます。お目通りだけと考えておりましたが、この者たちへのお声掛け、決戦を前にしての大いなる励みとなりましょう」
顔を上げたとき、王と王太子の奥にイシン王ヤシュジュブの姿が目に入った。この朝、神殿で執拗に俺を弄った葉叢に潜む鳥獣のような目は俺を咎めるどころか、目の前の俺に気づいてさえいないようだ。とはいえ、アスティヤデスに加えて、ヤシュジュブにこの身を曝すのは気重だった。
ナボポラッサル王とアスティヤデスが肩を並べ、カドネツァル王子はメディアの太守の一人かもしれない初老の男と連れ立った。身の置き場を掴めないメディア王子の護衛は無粋というより滑稽だった。アスティヤデスから推して、実の護衛は別にいるのだろう。青衣の九人も似たようなものだ。気後れて奥へは進めず囲い場の羊となった。
次の間に卓はなかった。敷き重ねられた毛皮と絨毯に肘掛台と長枕が置かれている。壁際には給仕人らしい娘たちが控えていた。小さく固まって腰を下ろした俺たちの許へも手洗いの盥をもつ娘がやってきた。行き惑う様子もなく、一人ひとりの前に進み盥を差し出した。手水には花が一輪、浮かべられている。クロッカスだ。花も一人ひとり違うのか、左右の水には別な花が浮いていた。クロッカスはありふれた花。そして、俺たちへの厚遇もたった今決められたことだ。何の不思議もないはずなのに、俺に向かってだけ仕掛けられた罠を予感してしまう。俺は魅入られている。魅入られているから罠なのだ。夢から出て、また新たな夢に踏み入り、俺は夢の峡谷で立ち尽くしている。娘の左腕に垂らされている手布で水を切るとき、「お飲み物は」と娘が訊いた。娘の面立ちは遠国のものだ。
「真水を」俺は手水から花を掴みあげて応えた。
「真水」聞き覚えのない語という顔で俺を見つめ、娘は繰り返した。眉を寄せたのは宴席で水を所望する者などいないからか、水と云わずに真水と頼んだからなのか。
いっせいに手水の盥を下げ戻る娘たちは皆白い寛衣をつけている。水面の花が異なっていたように、腰の帯と髪を束ねる布色がまちまちのようだ。大広間には大勢の飾り立てた婦人が集まっていたが、王族の宴は男たちだけだ。
奥の緞帳が二人の半裸の少女によって開かれると、八本の櫂が突き出た船が姿を現した。またしても櫂か。俺は耳を澄ませた。耳の奥処はひそやかで、聞こえてくるのは船の甲板に立つ楽人たちが奏でる竪琴の爪弾きだった。瀬音と紛う弦は異邦のものだろう。船上も皆少女たちだった。舳先と艫の灯は一抱えほどの石盤に据えられた銅造りの蛇で、炎は蛇の口から吹き出されるように燃えている。両舷でもそれぞれ五基の松明が火の粉を飛ばしていた。
「せいぜい百五十人ってところだ。新年祭の大宴にしてはこじんまりだな」というシャギルの呟きにアッドゥが返した。「だからこそ畏れ多いのだぞ。我ら全員がここに招き入れられたことで、目を剝いているお歴々は四人や五人ではなかろう。前の広間に立つだけでも、官も功もない我らには出すぎたことなのだ。我らはカドネツァル王子に名指されただけだ。そして、メディア王子の気まぐれに乗せられて、こんな場違いな宴席に呼ばれてしまった」
「今日は誰であろうと、城門も王宮も出入り御免だろう。とにかくアスティヤデス殿は上機嫌だったではないか
シャギルは畏まった様子もなく、膝立ちになって、両国の王族や友邦の太守たちを眺め渡している。
「上機嫌だったかな。ディリム、君はどう思う。メディア王子の具申を誘いだしたのはディリムの言葉だったのは確かだ」束ね役のカハターンがアスティヤデスを盗み見るようにしながら言った。
「俺たちのやり取りを覚えているか」
「やり取りと言っても、話していたのはもっぱらディリムだったろう。俺のメディア語は聞いての通りまったくの付け焼刃だ。君が何を話したのか、実のところさっぱりわからなかったよ」
俺にだけ聞こえていた声があり、俺一人が話していたとしても、俺がアスティヤデスに発した言葉は皆の耳にも入ったわけだ。
「いささか竦んでいたのだろうな。覚えていないのだ、何を言ったのか」
「声は堂々としていたぞ。神殿の讃と少しも変わっていなかった。それまで大儀そうだったメディア王子も身を乗り出してきたからな
俺の隣にいたベルヌスはアスティヤデスの表情を辿れただろう。
「そうだ。そして王子は上機嫌に笑ったのさ。あの船の上で十七弦琴を奏でている娘の唇には及ばないがな」シャギルはメディア王子ほどに遠目が利くのだろう。俺には口元はともかく弦の数までは見極められない。
「メディア王子の方は不敵な笑いというのさ」ワラドが口を挟んだ。
「だから上機嫌だろうが。気位の高いお方は不敵にしか笑わんものさ」
声を潜めているとはいえ、露骨に主賓の品定めは具合悪かろうと気になったが、若輩の一団に向けられる目はなさそうだ。俺の気がかりヤシュジュブも、あの者が気をかけ探るべきは、いまだに腹を括りきれていない君候の心根だろう。そしてその君候や大総督たちの関心はバビロニアとメディアの同盟に信をおけるかどうかなのだ。終いには歓呼を引き出したとはいえ、列席者たちがアスティヤデスをどのように見たのか、俺には見当がつかない。
ウル ナナム
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