ナボポラッサル王の動きは必中の矢のごとくだった。意表を衝かれた三人の護衛は面目を喪った。王はアスティヤデスの護衛たちを薄刃で剥がすように身を入れて、メディア長子の肩を抱いたのだ。黒鋼と見えていた三人の男たちは煤だったわけだ。アスティヤデスはしかし、自若としている。小心ゆえの護りではないということを、むろんナボポラッサル王は承知なのだろう。
「いと限りなきメディア王国からの献上品の数々は神々もご照覧。そして何よりも両国の勝ち鬨とともに頂戴できるという函を一刻も早くご披露頂きたいもの。さあれば、無朽の同盟を今ひとたび寿ぎ、狂愚の王門を共に打ち砕きましょうぞ」
ナボポラッサル王の大音声に広間は漸くにして歓呼で応えた。どよめきの最中、カドネツァル王子が右腕を差し伸ばした。俺たちの方にだ。隊伍を動かすような鋭さに幻惑されたのだろう、護衛たちは失態の後のせいか、目を剝いて身構えた。
「随いてきてくれ」カハターンが囁き声で命じた。カハターン、シャギル、リシャ、アッドゥ、ウッビブ、ワラド、ハンム、ベルヌス。俺たち青衣の九人が切り裂いていく人群れは、この世のすべての色糸を刺し込んだ絨毯のように見えた。湧き出た真水の流れとなって行き澱むことなく、俺たちは両国の王族の前に居並んだ。
「この者たち、ご覧の通りの若輩。なれど、遠からず王太子カドネツァルの耳となり、盾となる者共。よろしくお導きくだされ」王がメディアの言葉で言った。ナボポラッサル王の手はまだアスティヤデスの肩にある。
正対するアスティヤデスは遠目よりはるかに精悍だった。メディア長子の頬から顎を包む髭は雲間隠れの残照を浴びているような赤。第一日目の月を思わせる薄い唇は不遜で、もの皆冷笑してかかっているように見えた。両の目は涼やかで少女を思わせる。メディア王子はどこに潜んでいるのだろう。酷薄でも無垢でもない、まったく別の男がいるはずだ。
「カドネツァル王子の目に止った美丈夫たちか、さすがに良い好みでおられる」
アスティヤデスは変わらずメディアの言葉で言った。濁りを掻き立てる口調も同じだ。青衣の皆は同盟国の言葉をすでに学んでいるのだろう、弓弦がしごかれたように体のこわばりが感じられた。
「皆、名乗りをあげよ」王の命はアッカド語だった。リシャとワラドの二人以外は覚束ないメディア語を使った。一人ひとりに頷き返すアスティヤデスは無表情だった。最後に俺が名乗ろうとすると、先にアスティヤデスが口を開いた。
「柱の奥にいるときからお主のことはわかったぞ。サームの語りは簡にして要ばかりではない。姿形、見目まで引き出される」
騎馬の民はそれほどの目をもっているものなのか。俺はメディア王子の目も口も捕まえられなかったのだ。アスティヤデスの言に気圧されてしまい、下問に応えるような畏まった口ぶりになってしまった。
「思いもよらぬ仰せで言葉もございません。私がこうして御前に立っていられますのも、サーム殿の鞭の一閃ゆえ。授かりましたこの身をもって貴国と邦国バビロニアの聖道の魁となることこそわが願いにございます」
俺がメディアの言葉で言上する間、先ほど聞こえていた、覚えのない四つほどの語が風笛のように耳を旋った。アスティヤデスの唇は俺を嘲い、双眸は俺を慈しんでいる。今日まで聞き覚えのなかったメディアの言葉が俺の耳の裡を叩き続ける。メディアの言葉に挟まっていても、メディア語とはかぎらないが。他の音は一切聞こえなかった。同盟国の名代に向かって、俺の口は我にもあらず、どんな意味を負っているのか思い及ばぬ、広言をはばかる呪詛かもしれない言葉を吐き出していた。メディア王子の口元が陰り眸が消え、眼窩だけになったように見えた。アスティヤデスが溜息ほどの小声で言った。小声だけれど俺を縛り、両の目を虜にした。
「明日、裏切るだろう、白鷲は白鷲を」
三人の護衛に動きはなかった。アスティヤデスだけが知る歌なのだろうか。のっぴきならない険路へ自分を引き込んだと感じながら、俺はもう一度知らない言葉を継いでいた。自分を抑えられないのではない。俺はただ、俺の口にする言葉を聞いている。ナボポラッサル王さえ口を挟まないのは、メディア王子と俺が何を言い交わしているのか掴みきれないからだ。両国の誰もがわかっていないのだ。
「天の友なる鷲よ、天の友なる鷲よ、我が弓手を怖れよ」アスティヤデスが発した言葉は、聞こえていた歌にはないものだ。俺もまた、アスティヤデスの言葉を小声で繰り返した。そして、間をおかずに水輪が広がるように耳に寄せてきた言葉を口に乗せていた。
「汝が手、矢をつがえんとするそのとき、汝は矢の行方を知らず。矢、放たれしそのとき、汝は知る。すでにことは決せりと」どこの国の言葉を俺は使っているのか。まったく知らない言葉だったが、意味はわかる。ラズリ様の許で、はじめて聞いた赤い砂の国の言葉の意をたちどころにして知ったように。
アスティヤデスのちぐはぐだった唇と目は、落日を浮かべる西の空と青鋼色の智慧を宿す東の空が大天をつくるように、二つながら一つになっていた。それは、思いがけないことのようにも、かつて辿り読んだ粘土板をもう一度手にしているふうにも思えた。瞬き三つほどのあいだのことで、アスティヤデスは元の王子の顔に戻った。
「実に見事な網さばきで漁されたものだ、バビロニア王太子殿は。さても両刃の鉞と畏怖される大王の御曹司なればこそ。青き衣のこの者たち、美しいだけの侍人でないことは、しかと胸に抉りこまれましたぞ」長じてから学んだものとは思えないアッカド語でメディア王子は言った。アスティヤデスは肩におかれているナボポラッサル王の手を左手でゆるやかに払い、大きな仕草で右手を伸ばして盃を取った。それを見て素早く膝を折ったカハターンに倣い、俺たちも卓の前で膝をつき頭を垂れた。盃が卓を叩く音に続いたメディア王子の声は広間を揺るがせた。伝令を使わずとも乱戦の最中にある兵を動かせる声だ。俺の耳に余所者が宿るように、メディア王子の喉にバビロニア人の神託祭司が住まって奏上を引き受けているかのようだ。
「若き兵の力こそ貴国バビロニアの礎。及ばぬところ多々ある中、わがメディアに足らぬものは若き力。羨ましくはあれど、嘆いても詮なきこと。猛き血を誇る方々に侮られぬよう、我が精兵一万六千騎、さらに鍛え上げて神軍の御前に参ずるでありましょう。栄えあれマルドゥーク神、共に栄えあれ大天の光輪アフラ・マズダ
雫を受けた干天のように、広間から「栄えあれ」の気焔が上がり、鼓が打ち鳴らされた。泥を撥ね散らせてバビロニア人の顔をしかめさせていたメディア王子は、一転、神にその名を呼ばれた者となって衆目を浴びている。
ウル ナナム
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