イシャルは背中に負ぶさってすぐ、俺の二つのつむじに指を当てた。三人だけの秘密にしておきなさい、というドゥッガの声は有無を言わせぬものだったな。ベルヌスについて小走りで一層に向かう間、衛兵の姿を見かけることはなく、篝火台の傍らに立つ火守りの少年奴隷たちばかりが目に付いた。篝火の炎は時折柱を抱いて激しく揺らめく。途中に階は一つもなく、半円を描くように大きく斜面を回った後、急勾配の下りとなって平土間に着いた。水路があるのか、速い水音が聞こえ、鉄が匂う。ベルヌスは外明かりを背にする方へ進み、三度壁の間を折れた。外からの光は弱く、角壁ごとに片膝を立てて器を捧げる切り株のような石像があり、皿の中で細い油芯が燃えている。
「ここがディリムの居室になる。両隣は無人だ。私たちはもう一つ先のマルギッタという域に住まっている」
削り出しの板戸が内側に開かれていて、床煉瓦の模様がおぼろに見て取れた。
「マルギッタって、星のことよね」イシャルが背から降り、ベルヌスに尋ねた。
「そうです。マルギッタ・サンプ、北斗の大星です」
「この域の名前は」
「まだ名付けられていません」
「誰が名前を決めるの」
「北斗星と呼ぶようにしたのは、王子です」
「お前は」奥の間との仕切り壁の前に控えている少年を見て、俺は大声を出していた。「キナム、誰がお前を召し寄せたのか」唖然としてしまい、奴に返事が適わないことに気が回らなかったのだ。
ハシース・シンから聞いていないのかと王子は云われたが、声が出ず、片手も使えないキナムを覚師は差配したのか。もとより俺には従者など不要だが、キナムとて王子の供廻りとなる俺に仕えるのは難しかろう。
「私も詳しいことは知らないが、この者と一緒に来た女が顧問官宛の伝書板と印章を持っていたそうだ。私は今から早馬になって姫を離宮前まで送る。君が身に着けるものは整えてある。戻ったら一緒に王子の許だ。もちろん今はマルギッタにおいでにならない」
イシャルはベルヌスの長衣で身を隠すようにして、キナムを見やっている。険しいというより訝しげな面持ちだ。跪いていたキナムが目を上げた。イシャルが身じろぎするのがわかった。キナムは立ち上がり、畏まることもなくベルヌスとイシャルに目礼し奥へ入っていった。
俺はベルヌスに身を寄せ「君たちにも従者がついているのか」と訊いた。
「いや、マルギッタに住まう私たちは皆一人だ。王子も」
腰を屈めているベルヌスの肩に手をのせたまま「あの子、隠し事がある」とイシャルは呟いた。
隠し事とは思わないが、俺は何も知らされないまま運ばれている。とはいえ、知って行き先を選び直せるわけでもない。部屋に戻ると、キナムが柄杓の入った手桶を漱ぎ盥の横に置くところだった。奴は目顔で俺を促し、水を掬った柄杓を盥の上に捧げた。俺はつい先ほど左手のない男ハジルから手水を受けたのだ。符合は隠し事より厄介だ。一つに綯い合わされるはずのないことが遠くから呼び合って影の影となり、疑心を掻き立ててしまう。
「キナムは俺の世話をするためにだけ遣わされたのではなかろう。お前はどのようにして、自分の考えを俺に伝えるのだ」
キナムは膝を寄せて俺の手を取り、利き指の爪で線を引いた。奴の指は尖筆となっていた。
「書けるのだな、お前は。師はハシース・シン様か」と尋ねると、奴はわずかに首を振った。ボルシッパの学び舎へいわくありげに種子を捧げに来たときから、バビロンの王宮への道は決まっていたことなのか。キナムと俺を文字で繋ぐのは覚師とラズリ様の二人が浮かぶだけで、俺が知っているのは、キナムがラズリ様の物語ってくれたエリュシティとスハーの遺児ということだ。あやかしの地から皆を脱出させたスハーの血を享けた者。
「俺の前でそうやって跪くことはやめてくれ。それから、危急の知らせごとが生じたら、革か木片を使うのだ
どこの邦の礼法なのか、キナムは両手を胸の前で交差させ顎を引いた。神の御遣いを思わせる象牙細工のような左手。灰白の指が眼前で滑り動くとき、逆らいようのない託宣が降りてくるだろう。
忠実な侍者の顔に戻ったキナムについて、俺は次の間に入った。これまで人が住まっていた気配は感じられなかった。長い間使われず、しかし日々清められてきたようだ。左手の壁際に木組みの寝台が置かれ、寝茣蓙と敷き革の上に、これから身につけることになるらしい麻の短衣と青い光沢を放つ裾長の上衣が載せてある。焚き込めた香が匂った。キナムが指で示したところに黒緑色の大岩があった。岩を台座にした卓がつくられている。横手が寝台くらいの長さの木が嵌め込まれているのだ。大地の岩を生かし、その膨らみ凹みに合わせて木を削り平らにした卓だった。その上にヒッタイトの鋼と鞘、そして革紐が二組あった。
「荷が重いと異を唱える驢馬はいない。俺はイシャル姫の云う賢い驢馬になるつもりだ。お前は驢馬の耳に潜んで、遠慮なしに俺を戒め鎮めなければならない。俺が迷うことがないように。キナムはスハー殿の一子なのだからな
俺は両の脚にヒッタイトの鋼を括りつけ、寝台の上衣を手にした。胸のあたりの銀糸は北斗の星を刺しているようだった。この衣も短い日で仕立てられたものではない。上衣と同じ色の、裾に縫い付けられた飾り紐は踵を隠し、革サンダルは見えるような仕立てだ。俺の背丈までも伝えられていたことになる。