狭い掘割を二つ越えたあたりから人寄りが増え始めた。藁束を水に浸して振り回す子どもたちの声と舌打ち嬌声が混じり、駄獣の臭いが鼻をかすめる。何を商っているのか見当がつかない、風変わりな抑揚をつける物売りの声。寛頭衣代わりの葦の莚にとりどりの羽根を挿して父娘の羽根売りが歩き回る。数十枚とも見えるフェルトを担ぐ異邦の男。両手指に護符の粘土像を挟みもつ老女の嗄れ声。枝を放り込んだ柳籠を五つほど並べた少年は、枝の一本を噛んでせわしく目を泳がせている。
花冠をつけた二人の女がベルヌスと俺の間を擦るように通り抜けていった。俺たち二人とも古の歌に心を抜かれていたのだ。イシャルが唇の端を上げ、咎めるように俺たちを見た。青く縁取られた細工物のような目に真横を横切られるときでさえ、川面の船を眺めている気分だったのだから、姫君に同行する者として不覚きわまりないことだ。悪意に前触れなどない。慄えるまもなく地に這わされる。ドゥッガが見ていたら睨み倒されるだろう。
「夢は溶けないって、ディリムは言ったわ。私の夢も溶けないことがある。ディリム、今度聞いてくれる。忘れられない夢が二つあるの
不機嫌な翳りを残したままイシャルは声を潜めた。イシャルは俺たちの話についてきていたのだ。恥じ入る思いのまま、俺は身を寄せた。
「夢解きはしませんが、お聞かせください、王宮にいるあいだに」葦笛と手太鼓、歌女の金切り声が弾けるなか、俺は小さな耳に約束の粒を置いている気がした。イシャルの年で夢に掴まれるのか、いやイシャルのほうで夢の影を踏み押さえているのだろう。幼い夢は夢占い師の粗い笊では浚いきれはしない。むろん俺とて、夢の仄めかしを読み取れる耳があるわけではない。聞いてみたいだけだ、イシャルの夢を。それは好きだという飛ぶ夢ではないはずだ。
「王宮にいるあいだ、そして王宮に戻ってきたときね
ベルヌスは胸の奥へ釣針を泳がせる眼つきで驢馬に牽かれている。溶けた歌のひとかけらでも釣り上げようと。今、その思いは立ち枯れようと虚しいことではなかろう。ベルヌスは繰り返しその歌を聞いたのだから。三度繰り返されることには必ず理由がある。俺たちはこれからカドネツァル王子のもとで長い時を共にする。共にあればベルヌスの耳から漏れ聞こえる歌に遭えるかもしれない。かつて謳われた古の歌は哀歌ゆえに滅びないだろう。血塗られ火をかけられた壁の地肌に染み入った歌。古の歌に名指された男は城壁造りの一族なのだ。
時折聞こえる岩漠を走る烈風のような音の正体がわかった。屠られる犠牲獣の鳴き声だ。いまや城門の周りでは血の湯気が立ち込めているだろう。銀の大杯で受ける子羊の血が天と地の神饌となる。バビロン城壁を取り囲むほどの杭が組まれ、炙り肉の煙が昇り続け、犬どもさえ終夜の無礼講だ。
人群れを掻き分けるのが難しくなりかけたとき、影が濃くなった。そうではない。影に気づかされた。いつ道岐かれをしたのだろう。この道は踏み歩くものを受け止め跳ね返す力があるようで、影もまた踊るのだ。樹と砕石と瀝青で労を惜しまずにつくられた道だ。神殿や城壁だけではなく、ドゥッガは道造りの采配もするのだろうか。
「ベルヌス、驢馬にまかせたままでいいのか、道は」相変わらず遠い目のベルヌスに声をかけると、柔らかな額に戻って小さく頷いた。
「ディリム、驢馬はみんなが能無しで強情ではないのよ。この子は道がわかっている。そして、さっきの娘さんたちに魂胆があったら、この子が蹴倒していたはず」
馴れた少女の口調で厳しくやり込められるのは強面の怒声よりも堪える。ベルヌスも王子の側近に相応しい恭しさで首を垂れた。つき固められた道はゆるやかな弓弧を描いている。王宮へ直行する側道なのだろう、哨所を抜ける度にベルヌスは衛士に印章を見せた。哨所には必ず揚水機が据えてある。最初の哨所近くですれ違った戻りの空車を御す男は会釈を返すこともしなかったが、後ろからの騎乗の兵は「ご無礼を」と発して追い越していった。
行く手の左には棘のある潅木、右側は俺の膝の高さまで石が組まれている。目に入るのは次第に大きくなってくる王宮の壁面と棕櫚の樹冠だけだが、いや増す喧騒で城市の中心に近づいていることがわかる。水路を跨ぎ越える橋のような道なのかもしれない。
「ここを造らせたのはメロドクバラダンだそうだ。アッシリア占領時の置き土産さ、見事なものだろう」足元に目を奪われている俺にベルヌスが明かした。
都督になった男は分捕り品や貢物で己の居館の飾り立てに腐心せず、道を造らせたわけだ。ドゥッガの言の通りアッシリアを侮ってはならない。かの地の者たちの苛烈な気性や無慈な振る舞いは伝聞だが、俺の足裏が今感じ取ったのは四方世界の覇者の足音だ。奴らは滅ぼすだけではない。この道を造らせた者たちは、四方世界から粘土板を集めている。刻まれた言葉は不滅、だろうか。ニネベの文書館に連なる知者やハシース・シンでも読み解けない文字は数多あるという。刻み手、読み手、話し手が一切滅び消えた言葉の板は土でしかないのだろうか。四方世界の涯からの強大な力が俺たちを飲み込み、あるいは大洪水が、あるいはかつてない干天がバビロニアもアッシリアも磨り潰してしまえば、あらゆる言葉は喪われる。哀歌が歌われなくなるように、哀歌が聞かれなくなるように。
辿り着いた城門は小さかった。長槍を立てて通れるかどうかの高さ、荷車二台分の横幅で、細工一つない真鍮の鋲が二十ほど打ち付けてある。王族の許へ直に向かう商人や鑑札を預けられた者だけが使う門だ。危急の伝令使が走る道でもあるのだろう。城門が開けられるとすぐ二人の小姓がイシャルを驢馬から降ろし、手綱を引いていった。
「ベルヌス、ディリムの部屋、私も知っておきたい」とイシャルは俺たちの手を掴み、刳り貫き門を先に潜った。石床に抜き身を立てて門の左右を護る衛士も、その両脇に居並ぶ弓兵も身動きせずに三人を通した。あらかじめ矢を持って立つ衛兵を目にするのは初めてだ。
「われらが寝起きするのは女性一人では入ってはならない域になります。私たちは北寄りの域の一層目、東南三層目の姫様とは真反対です
「ベルヌスの居場所は知っているわ。カドゥリ兄様の隣の隣」
「何という真似を。誰にも見咎められなかったのですか」ベルヌスの声が今までになく尖った。
「私は決まりごとの外にいるの。子どもだから」イシャルは足首を振って鈴を響かせた。二つの鈴が次々と数を増やして王宮の石畳を転がっていくような音だった。そして響きは柱を巻くように立ち昇っていく。遠く乳白色に霞む露台まで赤砂色と碧緑の石柱が数十本互い違いに配されているのが見通された。
「確かに私たちの三層とはとても離れているわね。私だってこれから髪を結いなおしてもらうし、香油も塗る。お追従のへたれ石榴に口実をくれてやるなんて真っ平。だから急ぎましょう
「そうです、急がねばなりません。私の背に」
「ディリム、あなたが背負って。私たちの域にも二人は入れないのだから、帰りは自分の足だし」
ウル ナナム
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