ベルヌスが干し果を掴みイシャルに差し出して言葉を継いだ。
「ここへ戻ると必ず試されるのですよ。親父が普請中に使う子供の伝令が十人ほどいるのですが、そいつらを一斉に走らせるんです。すばしこいですよ、皆。そいつらがアッシリアの矢が届く距離に入る前に何本遠矢を放てるか」
「私、ベルヌスがそんなふうに矢を射るのを見たことがない。椰子の実を落としてもらうくらいだもの」
「親父にこっぴどく叱られている様など姫に見られたくありませんよ。それよりドゥッガの早礫を見せてもらいなさい」
「あんなもの、子どもが喜ぶだけだ。しっかり者の姫はベルヌスのへたれぶりを笑ってやりなさい。も少し励むようになるでしょう」
「殿方が面目を失うのを笑うなど、淑女のよくするところではありませんことよ。それよりも万一全軍が面目を失ってしまったらドゥッガさんの城壁が頼りになるのね。あらあら私。ベルヌス、ディリム、不吉なことを言ってごめんなさいな。キッギア将軍とディリムの部隊は一兵も失わずに敵を全滅させたんですものね」
「でも姫様がお生まれになる前の衝突では、逆に御父上とキッギア将軍が全滅しかかったそうです。無敵の軍団などないと私は考えています
強い眼差しを感じて俺は眼を上げた。ハジルは薄い影を被っているようで、俺には手の先の水差しが見えるだけだった。
「ところが無敵の城壁はある」ドゥッガが野太い声を出した。「壁というものは、たっぷり時をかけて築きあげた邦の護りの城壁というものは、どこであっても容易に破砕できはしませんな。壁はいつでも内側から崩れる。崩されるのは壁ではないのですよ。ボルシッパに潜み住んでいた密偵たちがラージーを連れ去ったように、このバビロンにはすでにかなりの間者が住みついている。包囲のとき、そいつらが不安を煽り、人心を大いに惑わす。周到だとは、そういうことだ」
ポラッサル王もたぶん、ドゥッガと同じ考えだ。だからこそ壁をさらに厚くさせる。煉瓦十列分で、城内の動揺を百日先延ばしできるわけだ。
堰が突然破れたように、一斉に歓声が轟いた。塊となった声は烈風のように壁を押すものだと、はじめて知った。新年祭に参集した誰もが、あらんかぎりの声を張り上げている、翌年もここに立てるのだと信じようとして。声が途切れるのを恐れるかのように、この響きこそがアッシリア密集兵団を切り裂くのを乞うかのように、声の波が破城槌となり長駆ニネベの壁に罅いれることを願うかのように。この声がバビロンの恐れの大きさなのだ。
「豊作が宣されたな。今日の儀は終わりだ。ディリム、急ぎ王宮に戻ろう」ドゥッガに一礼して碗を置き、ベルヌスが言った。「われらも王子とともに、メディア王キアクサレスの名代に目通りする。賓の筆頭は長子アスティヤデスだそうだ。ニネベを抜くために、そしてその後のためにも能うかぎり良好な誼を結んでおきたいのはメディアも同じ
「山羊の目やにや密偵が一堂に会するわけだ」
「八王と五人の君侯も」
「八王の中で二人は伺候しておらんのだろう」
「当たらずともというところです、親父殿」
立ち話になっても親子のやり取りは、軽口と政談が入り交じっている。サームも同行して王宮に入っているのだろうか。目の裡にサームの勁烈な後姿が浮かび、足首にはあの日の猪の剛毛が甦った。俺は竦み上がっていたから、サームの矢と鞭は奇瑞天佑としかいいようがない。臆病風は足首に吹き溜まったまま、今でも半眼で俺を窺っているだろう。恐れはどんな病よりも素早くうつる。臆病は恥ではないが見せてはならないのだ。臆したゆえに、俺は武を身に付けたいと願った。ハシース・シンに預けられたとき、俺は商隊の長たる者の備えとして書記修行をするのだと考えていて、戦仕度など思いも寄らぬことだった。しかし、父と覚師の心づもりは王子の陪臣として、俺にしかるべき力を植え育てることだったようにも思われる。
繋いであった驢馬にイシャルを乗せ、ベルヌスが先を行く。疲れのせいか、王宮へ戻りたくないのか、イシャルは萎んだ花のように首を垂れている。
「親父の工房、私が育ったあの住まいのあたりは城内で一番静かな、有体に云えば陰気な街区でね」ベルヌスが俺に並びかけて話し始めた。ベルヌスは喋らないとイシャルは言っていたが、むしろ逆ではないか。
「衆議所と土牢、解放奴隷の仮住まいや武器庫、商都バビロンには相応しからざるものが集まっている。裁きの日を除けばいつもひっそりしていて、犬どもさえ吠えなかったな。バビロンの背中、肩の骨みたいなものだ。隠しているのでもないが、見に行く必要もない
「土牢といったが、あの方向は穢れの門ではないだろう」
「方位は穢れの向きではない。噂があるのさ、時たま死霊が騒ぎたてるという。親父は噂を放ってきた。というより、噂ゆえにあの場所を貰い受けたのだろうな。昔の力が宿っているとでも云えばよいか
イシャルの気をひきそうな話だが、口をはさむ様子はなかった。俺は振り返って工房の方を見やった。見つめていると、光が窄まって星の奥にもう一つ星が見えてくるように、二つの井戸がひと連なりになった。ドゥッガとキッギアの井戸。真水に霊力が潜んでいるのか、タシュメートゥー神が水瓶に顕現されたように。アシュと入った穴倉の一帯にも古人の濃い気配があったことが思い起こされる。
「君は騒ぎを耳にしたことがあるのか
「哀歌のように聞こえたな、私の知らない言葉だったが。死霊ではなく、土牢の囚われ人がわが身を嘆いているのだろうと、もちろん初めは考えていたよ。しかし、聞こえてくるのは、いつでも同じ歌だった。同じ歌だけれど、歌っている声は一つではなかった。年寄りも若者もいた。女もだ。私は幾夜も聞いてきたように思う。同じ歌だなとその都度分かるのに、そんなにも繰り返されているのに、ここで歌うことができない。夢が曙光とともに溶けてしまうように、歌も残らない」
「ドゥッガ殿はどうなのだ」
「親父は聞こえんというのさ。噂があったのだから聞いた者がいたはずだ。私の空耳だとは思えない」
「たとえ君にだけ聞こえるのだとしても、歌がないことにはならない。一人にだけ見えるもの、聞こえるものもある。一人にあるのならそれはある」
「そう考えられれば良いが。私にだけ見えるもの聞こえるものがあるとき、それは物狂いではないのか」ベルヌスは束の間、遠い目になった。「古のことどもは、姿も声も後ろにいるものなのだろうか。いつでも頭の後ろから聞こえてきたな」
今と古を隔てる扉のようなもの、その場所がたとえば東北の谷ではなく、南西の崖なのには訳があるはずだ。祭壇を築く場所が能うかぎり入念に選ばれるのは、天空への道、捧げの煙が立ち昇る道はあらかじめ刻まれているからだ。
「声が凝る場所があるのだと思うよ」と俺は言った。
「ディリムならではの言だな。君は声の射手だ。声で道を拓く」
「なによりも肝心なのは、ベルヌスが歌を聞いたということだ。彷徨っていた歌をベルヌスの耳が呼び寄せたことだ
ウル ナナム
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