「この水は」俺は驚いて尋ねた。
「美味いだろう、実に」
「同じ味です。キッギア将軍の荘園の井戸と」
ドゥッガとイシャルが顔を見合わせ、同時に碗を干した。左手首のない男はただ一つの関心ごとだという顔つきで丁寧に水を継ぎ足す。
「それはまた光栄な繋がり。キッギア将軍なくして、王もこの城市もなしだからな。ボルシッパの荘園とはずいぶん離れているが水脈は同じということもあろう。この住まいには贅沢なことに井戸が二本だ。俺の短い歩幅で三十歩もないのだが、まったく別な水なのさ。飲めんことはないが、大事なお客人には
「もう一つの井戸水だって王宮よりずっとまし
イシャルは盆に載った三つの小皿の一つから茶褐色の粒を摘み、俺に差し出した。
「何もかも気に入らんと思っているからですよ」
「ドゥッガさんは王宮へ行ったらお酒しか呑まないものだから知らないのよ」
「王宮では酒も水も一滴たりとも口にしていませんぞ。なにしろ物乞いに出かけて行くのですから目当ての物以外には手を出さんのです」
「だって、お父様は気前が良いのでしょ」
「ポラッサル王は遠征で王宮にいらっしゃらないことの方が多い。そのとき私は石材や食い物を引き出すのにえらい気苦労を強いられてきた。国の金庫番が吝いのは構わんが、小胆、小狡さ、底意地の悪さは度し難い。ディリム、心せよ。いや増した名声はお前様の心映えなど忖度せずに毒蜘蛛を降らせることになる。成功は妬みの親だ。そして妬みこそ、邦を覆す梃子なのさ。王と王宮は似ても似つかぬ。ベルヌスとて王宮に留まれる性質ではないが、あいつが神官王族の恨み嫉妬をかってしまうことはない」
右手と左手で別の干し果を取りイシャルは右指のものを俺の口元に近づけて言った。「私に任せなさいな。一目でわかるもの、その人が秘密を守れるのか嘘つきなのか」
「そういえば、この私に従者がつくと云われました」
「まずその人からよ。私はカドリ兄様よりずっと目利きなの。母様への父王からの下され物が消えるのなんかしょっちゅう。王宮はろくでもない人ばかりよ」
「ろくでもないなどと言ってはなりません。そういう奴は山羊の目やにと呼ぶのです」ドゥッガは王宮の役人とやり取りしているかのようにかしこまった口ぶりをつくった。
「あと二つ、教えてちょうだい」イシャルは飛び上がらんばかりに喜んだ。
「こういうのはどうです。へたれ石榴の三つ落ち、壁穴塞ぎの尻の穴」
「ぴったり。これからあいつらをそう呼んでやる」
「それはようございます。どんなに嫌な奴、気味悪いことでも自分で名前を付けてやればよいのです。そして声に出して呼ぶのです
「親父殿、それはようございますではありませんよ。何がへたれ石榴ですか
「おお、ベルヌス、久しいな。立ち聞きなどしおって」
おそらく切り戸の間に立って、ベルヌスは三人の話を面白がっていたのだろう。
「ベルヌス、こちらの水、キッギア将軍の井戸と同じですってよ」
どの男にも自分を妹と感じさせてしまう屈託のなさでイシャルが声をかけた。
「それはよい。新年祭が明けたら王子とわれわれはキッギア将軍の許に伺う。ディリム、もちろん君も一緒だ」
ベルヌスはドゥッガと俺の間に膝を折り「ハジル、俺にも碗を」と言った。
見慣れぬ化外の風貌の男がアッカドのありふれた名で呼ばれると妙な気がするが、己の手首を切るほどの者は本来の名を誰にも明かしはしないだろう。
「お前こそ、何がそれはよいだ。若い奴等が連なって水汲みにでも行くのか
「訓練ですよ。ニネベ征途の前に戦車の手ほどきを受けるのです。その前に獅子狩りをします」
「それはよい。俺に獅子を一頭くれ。生きたままだぞ。俺はまだこの年までくたばった獅子しか見たことがないのだ。吠えるところが見たい」
「失礼ながら、ボルシッパのエジダ神殿もドゥッガ殿の采配によるものでしょうか」基壇の四隅に張られた彩釉板の獅子を思い出して、俺は尋ねてみた。
「あれは古い。礎のことだがね。建て直したのは俺の伯父貴ラージーだ。ラージーはボルシッパが陥れられたときアッシリアに曳かれていった。だからニネベ城壁の大補強には伯父貴の技が入っているだろう。破城を見越しての抜け穴づくりも終えているとしたら、すでに命はない
ドゥッガは厚板の卓に積まれているパピルスの下から取り出したものを俺たちの間に置いた。青味がかった彩釉煉瓦の欠片が二つだった。
「伯父貴の焼いたものだ。この青を真似び取るまえにボルシッパの閂は外されたのさ」
「ニネベ包囲は長くなるでしょう。根比べの準備も着々と進んでいます
ベルヌスが目を落として言った。
「根比べ、備えの周到さではアッシリアの方が長けていると肝に銘じておけよ。伯父貴のことを考えてみろ。味方でもその煉瓦積み城壁づくりの才を知っていた者はそう多くはない。アッシリア軍は伯父貴を含めて何人かを選んで連れ出したそうだ。ボルシッパにはラージーを指差せる者が以前から住みついていたはずだ。奴らは闇雲に殺してかかるわけではない。俺は戦のことは一切知らんが、アッシリア軍が仮借ない軍団長に統率されているのは明らかだ。血に狂わない軍ほど恐ろしいものはなかろう。野戦の行方次第では、こちらが城壁に縋る破目になるぞ。その野戦だ。ディリムにも話したが、今のお前の腕では王子をお守りするのは心許ない。この間の様は何だ。四本目を放つ前にもう射程に入られていたわ。それもガキの足にな
父と子の対し方は家々の違いがあらわれ、実にさまざまなものだ。わが父ベルドゥは随いてこられるかをいつも黙って見ていた。叱責も軽口もなかった。あの人はエピヌーに何を語ったのだろう。言葉ひとつなかったのだろうか。そして美貌の鍛冶師エピヌーはハムリに冷笑のみを鋳込んだ。歪んだ下顎がハムリの印章なのだ。
ウル ナナム
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