組み上げ途中の櫓の下を通るとき、「見えるか」とドゥッガが怒鳴った。何人かの子どもがてんでにはしゃぎ声を上げた。その高さからなら、神殿基壇の盛土の向こうが眺められるのかもしれない。車止めの材が噛ませてある車輪が俺の腕尋ほどもある大きな櫓だ。
「王宮の近くへ行ってもちび共には人の足腰以外は見えない。見えずともあの場にいる方がずっと愉快だ。しかし、万一気づかれたら、あいつらはこっぴどく追い払われる」
すぐに歩き出したドゥッガは二度と櫓を見なかった。どんな小さな村にも疎まれ遠ざけられる子どもらがいる。ラズリ様の子たちも、行く先々で傷を負い汚物を浴びたはずだ。「安楽で充たされた幼少を過ごした私には自分の子の身をよじるような欲望をついに汲み取れなかったのですよ」とラズリ様は嘆息したのだ。俺もまた大きな商隊の長ビルドゥの子として遇され、今も導き手に彩られている。俺のようなものが人の心を汲み取ろうと考えるのは傲慢でしかない。
「ディリムもつむじが二つあるんだ」とイシャルの声が弾んだ。
肩に乗っているとはいえ、イシャルの目の高さは俺の頭よりほんの少しだけ上だ。一度そう言われたことがあった。こんなふうに嬉しそうにではなかったが。
「やっぱり私たち似ているのよ。お可哀そうになんて言われたけれど、私にはわかっていたの」
「つむじなんぞに意味はありゃしませんよ」不機嫌な声でドゥッガは肩のイシャルを一揺すりした。
「あるのよ。ドゥッガさんには一つ。皆にも一つ。二つある人を見たのはディリムがはじめて」
「お可哀そうにとは言いませんがね、他の人にないことなら、隠しておきなさい。二つあるのはお二人だけなんだと知っているのは、この私たち三人だけにしておきなさい」
「覚えておく。ドゥッガさんの言うことはいつも間違っていないから。それに、この三人だけの秘密なら悪くないわ」
カドネツァル王子が評した通りだ。イシャルは賢い。そして好悪の激しい俺は、隠し事もできず視野も濁りがちだ。そのことを俺も覚えておかねばならない。前を行く二人がそれぞれに小さく頷いているように見えた。
櫓がもう一つ据えられていたのは、前の場所から四百歩ほど離れたあたりだった。今度はドゥッガの呼びかけはなかった。近くに日干し煉瓦用の木枠が六つあり、その周りに十数個の水瓶が伏せられていた。緩やかな傾斜の先に水路の突端があり、船寄せがつくられている。水路の幅は荷運びの筏が漸く入れる程度の狭さだ。船寄せの側に哨所があった。三人の軽装兵が手にしている短槍で俺たちに小さな礼を示した。普段はたくさんの人足や驢馬が行き来するのだろう、道は踏み固められている上、随所に土止めの石が積まれている。
船寄せの水音が聞こえなくなるまで歩いたころ、二本の木が見えてきた。一本はあめんどうで、植えられて間もないもう一本は俺の知らない木だ。ドゥッガは若木の下にイシャルを降ろし、何も告げずに切り戸の奥へ入っていった。神殿造営の棟梁、煉瓦積みのドゥッガの住まいは二本の木を守護神像としているのか。
髪飾りが頭の半分を覆っているので、イシャルにつむじが二つあるのかどうかはわからない。しかしこの小さな頭を見つめていないと、時の感覚ばかりか所在さえ覚束なくなりそうだった。バビロンの街が砂嵐に運ばれて束の間現れた幻のように感じられる。ナブ神への讃を詠ってからすでに幾日も過ぎている気がした。人声もなく匂いも漂わず、土壁の前、影のない木の下で赤黒い虫穴に吸い込まれる。
「何か言った」
「ディリムのほうよ、何か言ったのは。私の知らない言葉、短くてよくわからなかったけれど」
「立ったまま夢を見ていたのかな、私は」
「どこでも夢見る人、でもニネベでは夢を見ないで」
その場で腰を屈めて、イシャルが貴顕の娘らしい辞儀をしたのは、右手に水差しをもった男に対してだった。男の左手首がなかった。ドゥッガの言った、自ら片腕を落とした男だろうか。イシャルが若木の根元に両手を差し出すと、男が三度に分けて水を注いだ。男の腕に掛けられている布で水気を拭い、イシャルは俺を促した。俺の手洗いが済むと、男の後にイシャルが従った。光を喪ったのは衝立となっている狭い仕切り壁を回り抜ける間だけだった。丸く刳り抜かれた天井からまっすぐ光の柱が落ちている。さすがというべきか、床の一部には焼成煉瓦が張られていた。高さの違う大きな卓が二つ、向かい合う壁に据えられていて、羊皮とパピルスが重ねられている。描きこまれているのは数と図絵だった。ドゥッガがこれらの数や図を刻み出した時のすべて、吐息と歯ぎしりと独り言のすべてが降り積もって、石壁が熱を放っているようだった。この住まいはドゥッガの頭の中、胸の裡、指先の血の流れそのものなのだ。
円い光の少し外に横座りしているイシャルは顔半分の陰のためか、皇女の面差しを滲ませている。
「このような胸躍る場所ははじめてです。イシャルが王宮を抜け出てきてしまうのもむべなるかなと」盆を抱えてきたドゥッガに俺は精一杯の礼をこめて頭を垂れた。
「俺は必要な物は遠慮なしに所望することにしている。そして王は物惜しみしない。頗るつきの気前の良さだ。この卓もそうだ。黒石には手前の瞳が映るし、そっちの厚板は赤子の肌触りだ。羊皮の使い放題が何より助かる。マルドゥク神殿は基壇だけで二百頭の羊が生贄になっているわけだ。
片手の男が先ほどとは違う小ぶりの水差しを持って現れた。男はドゥッガよりもずっと年上だろう。額の二本の深い皺には銀貨が挟めそうだ。喉から腕には老いたところがなかった。ドゥッガが粗織りの敷物に並べ置いた碗に男は腰を屈めることなく水を注ぎ入れた。
ウル ナナム
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