ウル ナナム

  • 37

    イシャルの言葉通りなので、その男がドゥッガだとすぐにわかった。瀝青と土と陽と炭と鉄の匂いが岩塊のごとき体躯を陽炎のように包んでいる。イシャルに連れてこられた煉瓦焼きの大窯はまだ冷めきっていないらしく、すぐに顔が火照った。
    「お前の声。ナブーの讃を詠った男だな」一言名乗っただけでドゥッガが返した。「俺は気に入ったな。このマルドゥク神殿に火入れする日には、ぜひお前さんに讃を奉じてもらいたい。ポラッサル王が城壁を拡大せよとのたまうから、神殿の捗がいかなくて閉口しているところだ
    「その日は私、お妃としてディリムの後ろに控えているわ」
    「して姫様。今度はどなたのお妃に」首にかけている黄銅の測量儀をイシャルに向けてドゥッガは声を低めた。
    イシャルは俺の手を取り「決めたの。ナブー神様の御前で」と胸を反らせた。
    「姫はお目が高いですな。この新年祭にお二人して煉瓦積みの仕事場へ喜んでお運びくださるとは、見上げた心がけというもの」
    「煉瓦積みが好きなわけじゃないの。私はドゥッガさんが気に入っているのよ」
    ドゥッガが虚を突かれたように目を落とした。顔半分を覆う強い髭が一本残らず溶け落ちて七歳の少年の顔が現われた。水に映った鳥の影のように一瞬のことだったが、イシャルにはいつも見えているのだろう。
    「人誑しですな、姫は」
    眼の端で俺に笑いかけながら、ドゥッガは生真面目な声で言った。
    「ひとたらし、ってなに」
    「その人のためにすべてを捧げようとさせてしまうことですよ。それにしても姫の心移りには、兄上様がさぞお気を落とされているでしょう
    「仕方ないわ。ドゥッガさんだって、ディリムの声が気に入ったと
    「我が息ベルヌスが姫様に見捨てられたときなど、わしゃ可哀そうで見ておれなかった」
    「ベルヌスはお兄様と同じくらいきれいなお顔。でも喋らないの」
    「あいつは手振りで話すのが向いておる。私ら煉瓦積みはあの高みに立つ者と地面にいる者が話したいときは、こうして大きく腕を振って伝え合います。ベルヌスはまだ言葉も出ないころから、煉瓦積みを見上げて真似をしていたものです
    「ドゥッガさんは大声じゃないの」
    「私は見ての通り手足が短い。地声でないと伝わらんのですよ
    「先ほど、カドネツァル王子の前でベルヌス殿にお会いしました。長弓に優れていると」
    「大地に立っていればな。確かにベルヌスは手足が長く五人張りと称される強弓を引く。だが、王子のお側にいるのなら船端に立っても射られるようでなければならん
    ドゥッガのしてみせた足踏みは大槌が振るわれたように地面を揺すった。共振れのように鈴が鳴り、イシャルは手綱を捌くように俺の腕を突き出させて言った。
    「ディリムはキッギア将軍の戦車を御したのですってよ」
    「あの讃の詠い手がキッギア将軍の左に立った者なのか」
    ドゥッガがいきなり俺の両手を支え持つと、血の流れを聴く医術師のように息を詰めた。俺の腱や掌を押さえるドゥッガの指は柔らかい。途切れ途切れに渡ってくる新年祭のどよめきに俺は耳を傾けていた。
    「無遠慮なことをして済まなかった。見習いとして入ってきた者でも回されてきた奴隷でも先ずは腕を抱えてみるのでね。儀式みたいなもので、特別なことが見えてくるわけじゃない。戦車乗りの腕に触るのは初めてだが、もっと瘤立っているかと思ったよ
    「戦車の訓練は受けましたが、私は書記見習いですから、いつも車乗しているのではありません。キッギア様の下にいる人たちは皆同じ力瘤をしていますね。あと二年もすれば私の腕にも筋は付いてくると言われました。未熟なままニネベの地に赴くわけです」
    「書記か。俺も二つだけ文字を刻せるぞ。戦場では巧者が大功に値する働きを得るとは限らんし、勇者が生還できるとも決まっていない。お前さんにマルドゥク神殿の讃を捧げてもらうまで、あと五年。ニネベで転がってしまうなど許せんぞ
    ドゥッガは窯の縁に膝をつき、口中で湿らせた指先を窯に這わせ始めた。こうしたことにも惹かれるのか、イシャルもドゥッガの傍らにしゃがみこみ顔を寄せている。
    「新年祭とて休んでいたくはないのだが、手の者たちはそうもいかん。奴隷共にも骨休めがいる。俺は鞭を使わない。食い物もたっぷりだ。まともな仕事をさせるにはそれが何よりも効くからな。甘い顔を見せているわけではない。逃げられては困るから両手の甲に焼き鏝は押す。片手を切り落として逃げた奴がいたのだ
    鏝跡が一つなら俺もたぶん、片手を残して逃げることを選ぶ。その備えでもなかろうが、父も覚師も俺に両手を使わせた。二人の意図するところは違っていたのだと思う。覚師は尖筆をただ両手で使いこなすだけではなく、左右見分けがたい文字を刻ませようとしている。左手で刻むように命じたのは夢の記だった。
    あの人もきっと、ラズリ様に出会わなくても逃亡奴隷となっていただろう。しかし、片耳落とされてすぐにラズリ様と出会った。選ぶ前に選ばれたということなのか。
    ドゥッガが立ち上がり、手庇をつくって日輪を見上げた。
    「俺ら神殿づくりは天を崇めているのではない。挑んでいるのさ。そのために一つ一つの煉瓦を焼き締める。一つでもやわなものが入ってはならない。果実も煉瓦も同じだ。こんなことはお二人さん以外には聞かせられませんがね。新年祭らしい特別な食い物の用意などないが、よろしければ一休みしていってもらいましょう」
    「行こう」イシャルはドゥッガの腕に飛びつき、鈴を鳴らせて歩き出した。基壇を築いている神殿に近いからなのか住居は見当たらず人影もない。どこからでも城壁が見えるボルシッパとは街の大きさがまったく違うので、俺たちがバビロンのどのあたりにいるのかまったく見当がつかなかった。南東の中空に灰白の靄が澱んでいる。香の煙だとすれば、夥しい数の香炉台が用意されているわけだ。いつの間にかざわめきが遠ざかっていて、聞こえてくるのは石壁を叩くような鳥の声と怯えた犬どもの吠え交わしだけだ。イシャルがねだったのだろう、ドゥッガは姫を放り上げるようにして左肩に乗せた。きっといつもそうしているのだ。資材が積まれた掛け小屋も、四十本ほどの若木が育つオリーブ園も無人だった。