ウル ナナム

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    「圭角露わな息子を密かに恐れる父親も多々あると聞くが、言うまでもなく父王は大きく、私は力足らぬ者だ。しかし、数多い父の男子の中で父と共に、そして父を継いでバビロニアを動かせるのは私のみだと断言できる。私の知らぬ処で優れた弟が己に磨きをかけているかもしれぬし、今もって盛んな父王ゆえ、猛き賢き男子が誕生ということもあろう。だが今ここには私しかいない。父王もそう考えて私を遇し隊を率いさせ臣従国に名代として遣わされる。私が父にまったく敵わないのはあの辛抱強さだ。見ての通り、私は性急だ。果断であるのと思慮のなさは同じ顔をしている。私の許には諌める気概胆力をもつ者が父王以上にいてもらわねばならない。私に親衛隊や取り巻きは不要だ。皆にも臣下としての献身を求めないのは常々話していることだ。父王にはハシース・シンがあり、ディリムの父ビルドゥはハシース・シンの翼。キッギアに並ぶ軍団の束ねにはハジルとツァルムという二人の将軍。このベルヌスの父はハシース・シンにも増して父王に注文をつける御仁で、石積みのドゥッガと何故か女名で呼ばれているが、土木築城にかけては敵地にまで盛名が届いている。ドゥッガの自慢の息子ベルヌスは測量術と長弓が得意だ。私とともに歩む友はなによりもまず戦士であり、かてて加えて手業において旗頭になるほどの技量優れた者であって欲しい。ところで父王にはもう一人知恵者がいて、それがあのイシン王ヤシュジュブ。イシン王はかつて父王と並び立つほどの勢力で、このバビロン開城もヤシュジュブの手になっていたかもしれない。係争を経て父王が王権を握った時、父王は政敵を殺めもせず追放もしなかったのは己にない才を見込んでのことで、法治に関る諸々はすべてイシン王の采配に委ねたのだ。傾きかけた国であろうと、成り上がっていく国であろうと中傷陰謀は暇なく飛びくる。イシン王も気の毒なことだ。すべての訴え密訴に目を通すがゆえに眠る暇さえない。確かにイシン王ヤシュジュブは治者には不向きなのだ。積りくる訴えの細目を悉く覚えているという尋常ならざる記名術。イシン王に粘土板は不要と言われるが、ヤシュジュブ自身が粘土板のごときものなのだ。その男が櫂を取れ、と和したのだからディリムの声の威力たるや
    鈴の音がした。血相を変えて男たちが王子を囲みこんだ。武器になるものは何一つ身につけていないので、俺は拳を固めて音の方へ飛んだ。
    「櫂を取れ」両腕を神像に差し上げて幼い声が言った。
    「イシャル姫」と皆が呼んだ。
    「ねえ、あなた、クルギリンナって何」と七、八歳くらいに見える娘が俺に問いかけた。
    「イシャル、お前、何をしているのだ」カドネツァル王子が少女の前にかがみこんだ。
    「私、この人のお妃になる、素敵な声だったもの」
    「兄の妃になると云っていたのは誰だったかな」王子が少女の唇に指先を当てた。
    「昨日まではそう。でもこの人は声もお顔もきれい。カドリ兄様、お顔はきれいだけれど、声が威張っているもの」
    「私はそんなに威張っているのか
    王子は若者たちに顔を巡らせ悲しげな声を出してみせた。
    「威張っているとは云ってないわ。カドリ兄様は声が威張っているけど、威張ってないの。二番目のシュムリ・シル兄様の声は威張っていないけれど、威張っているのよ」
    「イシャルは賢いな」
    「賢いってどういうこと」
    「よく見ているということさ。ディリム、何番目の妹かよく分からないがイシャル姫だ」
    この姫は廷室のあちこち人々の間を生まれて間もない仔馬のように屈託なく走り回っているのだろう。鈴はイシャル姫の踝飾りの音だった。
    「イシャル姫様、クルギリンナは今咲いているクロッカスのことです。大昔の言葉ですよ。文字をつくった人たちの」
    「ほら、やっぱりきれいな声」イシャルは香炉台に額をつけ、神像を見上げた。
    「おお、クルギリンナ、クルギリンナ、御身なる知恵の花、青き知恵の花クルギリンナ。クロッカスは知恵の花なのね」
    「よく覚えておいでだ」
    「ディリムこそ、この歌を全部覚えたの」
    「妹はヤシュジュブより追及が厳しいぞ、ディリム」王子の笑い声に男たちが和した。「それよりも皆、我々誰一人として姫が隠れているのに気付かなかったのは由々しきことだ。私も含めて鞭打ちに値する
    階に向かうカドネツァルに頭を垂れた八人がついていく。
    「イシャル姫様は秘密を守れますか」俺は声をひそめた。イシャルが動いたようには思えなかったが鈴の音が聞こえた。「私の声を誉めてくださった御礼に姫様にだけ内証でお教えしましょう。その前にお尋ねしたいのですが、姫は私がここに上がってくるところをご覧になっていましたか」
    「本当を言うと、近くを通るまで見えなかった。周りの人たちがディリムのことをあれこれ言っているのを聞いていただけ」
    「私の歩き方、様子は変ではなかったですか」
    「どうしてそんなこと訊くの。いい匂いのするナブー神像と同じくらいディリムはきれいだったのよ」
    「夜明け前、ボルシッパの船留りで御座船の神像を見上げていて、次に気づいたら、この場で詠いはじめていたのです
    「ディリムは船の中で夢の中であの長い詩をつくったのかしら」
    「眠っているうちにナブー神かタシュメートゥー神が詩を注ぎいれてくださったらしいのです
    「でもあれはディリムの歌よ。ほかの人には詠えない。ディリムにしか詠えないのだからディリムの歌よ。夢の中でも夢は自分のものでしょ
    「夢がすべて自分のものなのかどうか。この身は夢の渡し船なのかもしれません」
    「ディリムは夢を積んで運ぶ渡し船」と呟き、遠ざかっていくものを見つめているような不安げな表情のままイシャルは黙りこんだ。幼い者を相手に俺は自分にさえ掴みきれないことを話してしまった。大人びて怯んだような顔のイシャル。夢の渡し船などという不分明な言葉が幼い者に貼りついたからだ。
    「姫は夢をよく見ますか」我にもあらず気の抜けた口調になった。鈴の音がした。
    「空飛ぶ夢が好き」鈴が大きく二度鳴った。「ディリムは知っているかしら。ここはバビロンで一番高い場所。私たち二人とナブー神様が今誰よりも高い所にいるのよ」
    イシャルに促されて俺は空を見上げた。陽はかつてないほど間近にある。甲板に立っているように爽快なのは陽と風を真っ向から受ける場所にいるからなのだ。
    「ドゥッガさんがつくろうとしているマルドゥク神殿が今に一番になるけれど、まだまだ先。ドゥッガさんは顔も体も横に広がっていて蟹みたい。いつも怒鳴りまわっているけれど、私はドゥッガさんの声も好きだわ」