ウル ナナム

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    「確かに納得はしないでしょう。代々伝え渡されてきた誓文を諳んじるのではない。また託されたものでもないとすれば、それは当然言葉を発した者に帰するはず。ここまでの理はイシン王にありましょう。升目正しきを誇るイシン殿の面目ここにありというべき」
    「王子、皮肉はそれくらいでよかろう」
    イシン王と呼ばれた男の声音には苛立ちの兆しもなかった。王子と返されたが、長子カドネツァル様なのだろうか。アシュの話していた通り髭は濃くない若者だ。
    「しかし呪われるべきは当面の敵ばかりではないでしょう。不実、猜疑、強奪、裏切り、すべてこのバビロンにても蔓延しております。それゆえにこそ、御方が目を光らせる意味もあろうというもの。現にこの新年祭に参集した王族高官とて半分は間者と変わりないはず
    「参集といえば、この者を推したハシース・シンは何ゆえこの場に来ておらんのだ。そもそもこの度の讃は、奴が酒の勢いで拵えたものではないのか」
    「我が父王の女好きもハシース・シンの酒好きも度はずれているのは、まったくもって仰せの通りだが、踏み外したことがあるとは聞いていませんよ。なにはともあれ、この者の声、少なくとも喉を潤させてやらねば答えも出てきますまい」
    「答など待っておらん。私はこの者ともまたハシース・シンとも違って言葉を信用していない」
    「何故でございましょう。あなた様のお考えを察するに言葉には表と裏がということでしょうか」覚師まで軽侮する物言いに俺は王子の前もわきまえずに食い下がった。
    「見くびるではない。見くびるではないぞ、ディリム」
    はじめて俺の名を言ったイシン王が怒ったように見せかけているのか、怒りを抑えかねているのか、やはり俺には見当がつかなかった。イシン王と呼ばれた男はゆっくりと立ち上がって王子に拝礼し、王子を囲む八人の若者たちの間を抜けていった。贅を競う礼装を目にした後では、イシン王のまとっている長衣は粗毛をつなぎ合わせただけに思えた。
    「軍鼓のごとき讃を詠った者にしては、いと拙き弁解だったな。私までイシン王のように信じそうになるではないか、ディリムがつくったものではないと。まずは熱を冷ますのだ、ディリム。杯がない、手で受けよ」王子は傍らの男から水差しを取って言い、膝を折った。
    「勿体なきことでございます」
    俺は遠慮を捨て、時間をかけて水を含んだ。喉のそこかしこがひび割れているようだった。水は強い薬草のようにひびに染み入った。血の匂いがした。王子が熱を冷ませと言ったのは喉のことだけではない。先ほど参集者から投げ与えられた布の一枚で口元を拭き、俺は石床に額をつけた。
    「このエジダ神殿の天壇でディリムに我が友たちを引き合わせることができる。それをナブーの御心に感謝しよう。ここであれば耳を気にせずに話ができる。ディリムは聞いているだけでよい。私はカドネツァル。皆、出自はさまざまだ。シャギルとリシヤ、アッドウは私と初陣を共にした」名を云われた三人が代わる代わる会釈した。
    王子の初陣の話はいくつも聞かされている。王子一人で密集軍団の堅陣に馬を乗り入れ切り結んで崩したなどという大げさな噂まである。臆することも逸ることもなく、父王を安心させる動きだったという覚師の言が真実に近いのだろう。
    「ディリムは初陣でキッギアの御を務めたそうだな。羨ましいことだ。軍団の頭自らが教導した者に己の御を抜擢したのだからディリムの技は格別なのだろう。総勢二千ほどの部隊で両翼五十騎ずつの騎馬隊の一つに私は付けられた。例のアッシリア中核の歩兵部隊から相手の騎馬隊を切り離す命を受けていたのだ。牽制し合って駆けまわっていたのはどれほどの時だったのか。直にぶつかることは一度もなかった。後で部隊長は言った。騎馬隊の技量は互角でした。しかし奴らがここに王子がいるのを知っていたら仕掛けてきました。ぶつかってこられたら、王子を守るために兵の三分の一を失ったでしょう、とな。キッギアはもちろんそうだが、父王は将軍に恵まれている。冷静で率直な物言いいは戦場を引き締める。矢合わせ一つなく終わったその初陣の日、下馬しようとしても手綱を離せなかったよ。アッドゥが気づいてこじあけてくれたのだ。そう、笑われても仕方ないが
    ナボポラッサル父子の見かけは似ていないが、二人とも尊大なところがなく付き従う者は気構えなく己の考えを上申できるのだろう。
    「王子を笑ったのではございません。この私もまったく同じでした。キッギア殿に解いていただいたのです」と言って俺は低頭した。
    「そうか。だがディリムの戦いは夜戦で容赦なき殲滅戦だったと聞く。死と血と叫喚の真っただ中でのこと、恐ろしさは尋常ではなかったろう
    王子はすでに俺のことをかなり詳しく聞き知っている。俺は言を継いだ。
    「騎兵隊長の言葉、肝心なのは技量互角な敵が王子たちに気づかなかったこと。五十騎が一体となって動いていたからこそ、際立つ緊張を見せなかったのでしょう
    「そして背を向けた時に、技量の差が露わになるというわけだ
    と王子は頷いた。
    「無難に働いたのだな、われわれ三人とも」とシャギルが言い、「シャギルはいつも無難さ」と五人の中の一人が笑った。
    「ディリムは思いがそのまま顔に出る。衝に当たるには向かないな。あれほどの言葉を操れるのに惜しいことだが、何もかもこなせたのではかえって処遇に困る。ゆっくりと知り合ってゆけばよいが、この者たちの名を言っておこう。カハターン、ウッビブ、ワラド、ハンム、ベルヌスだ。ディリムのここでの居室はボルシッパから来た従者が整えている」
    「この私に従者ですか」
    「ハシース・シンから何も聞かされていないのか」
    「ボルシッパに戻らないのは分かっていましたけれど、覚師がこの場に来られぬことも、イシン王の言ではじめて知りました」
    「ハシース・シンの居場所を知っているのは父王だけだ。あの二人がどのような手段で通信し合っているのかをぜひ伝授してもらおう」
    地上から歓声が上がってきて三度繰り返され、不意に静まった。陽は中点に近かったが、風はまだ冷たい。長く見上げ続けていたナブー神像から目を戻し王子が話しはじめた。