ウル ナナム

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    「来歴はみかけに宿るものではありません。勘違いしがちなのです。選ばれたものは特別なみかけをしていると。ディリム・ディピのようにこの腕輪に触った者がありました。幼い指でした」
    あの地に着いた翌朝エリュシティはその少年を連れてきたのだ。いつから一人になっていたのだろう。エリュシティが「この子はスハー」と言ったので、あの人も私も少年が迷子になったのだと思いこんでしまったけれど、少年が自ら迷う者と名乗ったようだ。その夜から私たちは同じ皿で食べ始めた。
    あの人と私と子供だけで使う言葉は十種ほどの豆でつくった煮込みのよう、赤い砂の国と銀の山の国の言葉を主として、アッシリア、ウガリト、ヘブル、ファラオの国など、住まいした地の言葉がとりどりこき混ざっている。ひとたび囲いから出ればその地の言葉だけを使う。幼い者たちにはそのような弁えがあろうはずもないが、十日ほどでその地の言葉をたちまち覚えこむ。口数が少なくとも耳は別な生き物なのだ。スハーは最初の日から私たち四人だけの煮込み言葉を使いこなした。長い間私たちの傍らにいたのに誰も気づかず、エリュシティが空を刳り抜くようにして封印を切り、スハーを迎え入れたかのようだった。
    スハーが巻いてくれたのだろう、エリュシティは髪に青の飾り布をつけていた。美しい髪のエリュシティ。私の髪は荒野の娘の名の通り、いつの間にか強い毛の束となって梳るのが難しかったけれど、娘に櫛を当てるのは心地よかった。櫛の歯は麦畑を渡る風のように香しさの中を走った。エリュシティの髪はあの人ゆずりだった。出会ってから一年を過ぎて片耳の痕がすっかり隠れるほどに髪が伸びたとき、あの人が言った。「俺はアステレー・コメーテスとあだ名されていた」
    髪のある星、彗星のことだそうだけれど、その時はまだ私は彗星を見たことがなかった。
    「小さいころは肩より長かった。思い切り走ると馬の鬣みたいに靡く。もっと速く走りたくて、長い丘を駆け下りたり高みから飛び降りてよく怪我をした。この髪、二度と切らせはしない」
    アステレー・コメーテスが髪のある星という意味なら、俺はその国の言葉を少しだけ学んだ。女首領が遠いと言ったわけだ。上の海よりもっと北の国だ。父は船団を組んで都市のいくつかを訪れたと思う。
    エリュシティは幼い時の想いを全うし、スハーとの間に一人息子キナムを儲け、静かに逝ってしまった。二人ともあらかじめ決まっていたことに途惑いひとつなく身を預けていったようだった。二人を出会わせるために、私たちはあの名のない場所に導かれたのかもしれない。
    見え隠れする隊伍に行く手を阻まれ追い立てられてからの夜空には月も星も見えなかった。土塁を巡らすように砂塵を捲き上げる兵団のせいかと思えた。奴らが現われる前夜までそうだったように、その季に星が埋もれる夜は滅多にないからだ。
    「星が読めぬ」。
    名のない土地に囲い落とされて三日後にようやく広がった星空を見てあの人が呟いた。星の在処が狂っていた。一つ二つの月の巡りの違いではない。天の河の洪水に見舞われた星々が元の場所を忘れ去ったかのようだ。不安不吉を言い立てる声は聞こえなかった。着いた場所が刑場でも奴隷市場でもなかったことで、緊張の解けた面々は牧者のいない群れとなり空を見上げることも忘れたのだろう。間遠の軍団に向かって豪胆そうに悪態を突き通しだった男も膝の間に頭を垂れていた。
    「星が読めぬ」とお前の夫は言った。
    行く先々で、お前たちから栖を剥ぎ取ってきたのは星神の邪眼だった。この度は発する声もなく顔貌さえも定かならぬ兵団だ。理由なき人狩りがあろうはずはない。囲い込まれ、たらふく食わされるとなれば、山羊か羊に見立てられていることになる。切り落とされ手首の山に歓喜するという女神二人。お前の夫、かつてアステレー・コメーテスと呼ばれた男が、自分たちは妖神を崇める部族の犠牲に供されるのかと疑ったのも故あるところ。しかし、櫓の組み方、水路や溝の切石は神々の家造りを担う大工の手業かと思えるほどだった。だとすれば、四方世界の大王が版図とした帝国よりもさらに遠方からの軍勢であろう。
    「星が読めぬ」あの人は呪文のように繰り返した。あの人が初めて見せる不安げな様子だった。星神の非道をすべてはねのけてきた戦士が雲の影のような兵に肝引き裂かれることはない。しかし、ひび割れてつなぎ損ねた天空の有様は凶事の予感ではない、凶事そのものなのだ。
    星々が処を違える、そんなことはあろうはずがない。変わらぬ星宿こそわれらの拠り所ではないか。俺には、そのような天空を思い描くことができない。カルデア人なれば、天を支える柱が歪んでしまったかのような変事も読み解くのだろうか。
    生贄でも奴隷でもないのだとすれば、どのような企みのもとに、いかなる神慮に拠って私たちは狩り立てられたのか。私たちは以前から住んでいる者たちに尋ねまわったのだ。いつからここにいるのかと。耳馴染みがない異邦の言葉を話す者はいなかった。住人は雑多な寄せ集めで、偵察行軍中、偶々捕捉されたかのようだ。私たちもその大雑把な網に絡め取られたわけだ。一人として、連行されたときのことを覚えていなかった。それを訝っている様子もない。夢から覚めたかのように、見えない縄目を受ける以前のことを囲い地の誰もが忘れている、消されている。私たちはといえば、星神の執拗な追跡に脅かされているので、来し方のすべてを忘れることができないのだ。星神の全き憎しみが私たちを忘却から救う。
    糧と水の欠けることがないためか、病んでいる者は見当たらなかったけれど、人々の動きは大儀そうで、日がな寝そべっている後宮の女たちを思い出させた。囚われ人でありながら夜空を見上げぬ者たちは、充ち足りた物乞いとなってゆっくりと立ち枯れていくのだろう。