ウル ナナム

  • 30

    あの人はそこで何を見てきたのだろう。洞窟の奥から戻るなり、住人たちに悟られぬように脱出の準備をすると囁いたのだ。天のつくりし陥穽をことごとく躱して窮地を切り抜けてきたあの人が白光に目を細めながら私の肩を抱いた。何を見つけたのだろう。あの人は最後まで語らず、私も尋ねなかった。尋ねることができなかった。制されたわけではない。たぶん、あの人は名のないもの、名づけられないものを目にしたのだろう。
    何もかもがある名のない土地。穀物倉はいつも溢れていて、日々の糧を思い煩うことなければ祈る神は無用になるのか、長はいても神像も供物台も見当たらなかった。地味の良さにもかかわらず、丈高い樹が一本もない土地。お前たちが住まいすることになった村はゆるやかに落ち込む盆地の底にあった。村のほぼ中央に鋼色の岩塊があり、岩山を背に日干し煉瓦の家が三百戸ほど半円をつくって建っていた。半日分離れたあたりに同じような岩塊があり、遠目には駱駝瘤のような小丘に見えた。夕暮れに蝙蝠どもが舞い出てくる岩の頂上の割れ目からお前の夫は潜り入り、洞窟を見つけたのだ。監視櫓まで木柵も土塁もない邑、広大な獄屋からそれまで出て行こうと考え実行し逃げおおせた者がいたのかどうか、お前たちには知りようがなかった。
    どういう者たちがあの地に放り込まれていたのか。見え隠れする兵団は大部隊ではないが、押し包まれてしまえば逃れようのない人数だった。行軍の砂煙によって行く手を遮り圧迫を加えてくるので、連行されるのではないが道を選べなかったのだ。そのようにして追い回されるうち、てんでに散らばっていた羊が一群れに包まれるように集団は二十人を超えるほどになっていた。誰も言葉を交わさなかった。元より私たちは星の懲罰に追われる身、天の書板に科を記された者だが、他の引かれ者たちはどこから集められてきたのだろうか。怯え俯いている若者、熱に潤んだ目をした女、山羊とだけ寝起きしていたような牧人、盲の老人と手引きする小娘。夜営となれば、独り者は一人で手枕し、家族は皮袋を回し、二人連れは聞き取れない小声で話をかわし眠りについた。
    監視櫓の間を通り過ぎる頃には、一行は私たち四人を含め五十人近かった。櫓は王都の聖塔を思わせる仰ぎ見るほどの高さだった。駆り集められた者の大半がそれぞれ武器になるものを身に付けていたはずだが、兵が近寄って接収していくことはなかった。武器を持つ囚われ人。叛乱も脱走もないと決めつけられていたのだろう。
    櫓から砂礫を踏みしめ丸一日歩くと草地がはじまり羊と牛が目に入ってきた。そしてさらにもう一日進むと、眼下の広大な湖と見えていた緑が密生する麦穂だとわかった。油のように光る麦畑はひとたび分け入ると身に絡みつくように感じられた。
    櫓から遠巻きに監視していた兵士たちが村まで入ってくることは一度としてなかった。囚われ人の倉を満たしている麦や家畜たちを手もなく奪い取れるのにそうしなかった。その地の支配者がどこの国だったかついに分からずじまいだ。アッシリアが著しく版図を膨らませていた時だったが、武装の様はかの国とはまったく違っていて、まとっていたのはハイエナを思わせる緑の斑点がある長衣。
    間近でハイエナを目にするのは初めてでした。群れをつくると小さな火くらいは恐れないのか、放り投げられた後一所にまとめられた果樹園の者たちの首を狙って緑の斑点が蠢いていたのです。奴らの放つ悪臭に、私はサバガシュラがはおらせてくれた外套の縁を噛んで吐き気を堪えようとしましたが、女首領も手の者たちもハイエナどもを逐いはらうそぶりもありません。商隊とハイエナの両者に黙契が交わされているかのようでした。
    「一度は自分から手放したのだから、あえてこの腕輪を受け取ることはない。とはいえ、この腕輪と交換されたものは正当ではなかった。あやつ等は犬を使えば、たやすく姫の跡を付けることができたはずだが、念入りにも小麦袋に細工した。陰謀の手先ではない。立ち回り次第では小商いになりそうだと踏んだわけだ。この果樹園の主は姫の義姉の一人だ。夫が陰謀家の兄かどうかまでは知らぬ」
    間違えなく反乱を企てた兄だろうし、女首領はそれも分かっていたのでしょう。
    「あの者たちの木ではなかったのですか」ハイエナどもが咥えていくのであろう首のことを思い浮かべまいとしながら私は訊きました。
    「この林からどれだけの実が採れると思われるか。おそらく収量は王国一、二であろう。姫が交渉した相手は代官の下で走り回る差配人の一家というところだ。こんな戯れ唄を姫は耳にしたことはないか。ご領地の無花果は喰ろうても奥方の無花果は喰らわんぞ。面白味のかけらもない唄だが、未通娘の姫にはわからんな」
    見知らぬ私を売ろうとした差配の一家と自分の国を覆し父兄弟を追い払い実の妹を捧げものとして差し出す血縁のどちらがより罪深いのでしょう。「あなた様は私どもの巷の陰唄まで聞くのですね。兄の側女は飛び切りの美女ばかりだと申します」
    女首領は眉を上げ口元をゆるめたものです。目の端をよぎるハイエナの喉声は下卑た人間の笑い声そっくりでした。
    サバガシュラが掌に腕輪を載せると、切り窓に月が現われたかのように光が染み出してきました。
    「その腕輪、いま一度、私が身に付けてもよろしいでしょうか。思い起こせば、私は呼ばれるように惹かれて所望しました。初めて手に取るべく定められた者であったなら、どれほどの苦境に立とうと、自ら外そうとはしないだろうとも考えました。とはいえ、こうして闇を剥がすように輝いているのを目にすると、手にしたのは私ではなく腕輪が私を名指したということかもしれません」
    「姫は腕輪が輝いていると言われたが、私には暗く沈んでいて掌に重みが感じられるばかりなのだ。われらもまた覚えずしてこの腕輪の僕とされていたのかもしれない」
    サバガシュラが両の指で支え持つ腕輪は光暈のように私には見えました。その時以来、私は一度としてこの腕輪を外したことはありません。
    俺は思わずラズリ様の両腕を見た。秘密とはそういうものなのだ。己を見せず語らず、封じ込めたものと一体となって影さえも晦ましてしまう。指し示されているのに目は素通りしてしまう。ラズリ様が左手を俺の方に差し出した。俺は夜の果樹園で女首領と対座するラズリ様を見ていたので、火鉢の炭火を受けて磨き銅のように光る小さな腕輪が、遠く隔たった時間を往来する小舟に思われた。
    「触れてもよろしいでしょうか」吹き荒ぶ砂嵐に埋もれた聖道を探るように俺は指を這わせた。細工の線がところどころ潰れていて元の模様はよくわからない。謂れある代物とは思えなかった。ラズリ様が小さな咳をした。咳は止まらず、間をおいて続いた。このように咳き込むのは珍しいことではない。腕は戻されなかったので、俺は指を添えたままでいた。咳の度に腕が微かに揺れる。腕輪の感触が変わったような気がして、俺はラズリ様を見上げた。