「手短に言う。陰謀の首魁は姫の叔父と三番目の兄。後ろ盾は当然のごとくアッシリアだ。つまりは時を経ずしてこの地はアッシリアに併呑されることになる。鷲と冠の神殿にも叛乱の一隊が待ち構えているだろう。姫は兄に売られることになっていたぞ。自分の命を救ったと言ったのはそれ故だ。アッシリアの東方総督が王族の処女を所望したのだ」
「あなた様はサバガシュラといわれましたね。どうしてそのようなことを何もかにもご存知なのでしょう」私は槍を伏せ、馬上を見上げた。松明に照り映える女首領の顔は革鎧のように夜を跳ね返している。
「宝物庫の中味と王族たちの腹の中を知らねば確実に利を取れはしない」独語のような小声で女首領が言った。
自分の浅慮を手厳しく咎められた気がして、私は身を縮めるばかりだった。そして、サバガシュラが父と話していたことを思い出した。同盟の約定締結を担って引き出物と共に入城した使節のように見える女首領は実に鷹揚に構えていた。
「しかし商いから外れたことも一つくらいはする」と言ってサバガシュラは私の方へ馬を近寄らせた。逞しい馬の頸胸が闇を押しのけるようだった。
「この腕輪にはいささか謂れがあって、人を選ぶと伝えられてきた。誰にも見えるわけではないらしい。もちろん、目につかないということだが。先代先々代もこの品を持ち運び並べ置いてきたそうだ。初めに手に取った者を拒まない。値はその者が支払える額にする。買い手の行く末を見届けろとは言われていなかったな。叛乱がおき、姫はいずこで果てても当然といえる今、この腕輪は禍の素だったのかもしれぬ。星神への冒涜など歯牙にもかけぬ振る舞いに導く惚れ薬でも塗りこめられていたか」
首を振るだけの合図で一人が馬から下り松明を取って、あの人の方へ向かった。揺れ流れる明かりで土塊のように転がっている首の一つが見えた。その時初めて私はあの人の言葉を聞いたのだ。隊の一人がいくつかの言葉で問いかけているうち、ふいにあの人が声を発した。呻きでも怒鳴り声でもない。松明の男が口早に話しかけ、あの人が言葉を返し、男がサバガシュラに何かを伝えた。話されている言葉は、さっき私の口から零れ出たものと同じなのだろうか。
「この若者の話す言葉を姫は聞いたことがあるまい。姫の国の軍団が征服した地方より遥かに北方に住まいしている者だ。遠い。姫の国の奴隷になっているのが信じがたいほどの遠さだ。これから荒療治をなす。耳を塞いでおれ」
サバガシュラの指示にさらに二人が下馬して私のわきを通っていった。はじめの男があの人に二言三言告げると、短い言葉が返った。背後で肉の焼ける匂いがした。傷口を焼いているのだろう。あの人が歯噛みして大きな苦痛に耐えているのがわかる。私は顔を上げた。二日月の底を擦っていく雲。私はどんな名も唱えずに祈った。まだ名も知らぬあの人に、生きて行こうとだけ呼びかけた。
「この者の命を救わねばならない。一晩動かさずに、ここで野営する」と女首領が下知して馬を下り、続いて全員が下馬すると三人で馬を引いていった。手早く数枚の莚が広げられ、サバガシュラは自分の斜向かいに私を坐らせた。商隊の者たちの動き回る気配は私を落ち着かせてくれた。あの人の手当ては続けられているようだった。
「この国はあっけなく崩れ塵と化し、幾多の国々同様忘れられる。一国の姫にとって生国が滅びることほど大きな禍はなかろうが、姫にとって生国よりも貴いものがあるようだな。人の気持ちなど国の盛衰同様長持ちはしないと私は思うが、二人の行く末は歌物語になるかもしれぬ。二人それぞれの国の言葉ではなく、二人の名前ではなく。商いはどんな入り組んだ駆け引きがあろうと、計数に尽きる。目を見張るほどの利が転がり込もうと、思いもかけぬ災厄で身一つさえ失う破目になろうとそこに不思議というものはない。あるのは読み違いだけだ。心映えや先の読めぬ者に会うのはもちろん姫が初めてではない。しかしそなたたち二人でいることがわれらの見知らぬ不思議を引き寄せるにちがいない」
大きな商隊の長となる者の考え方は皆どこか似ているのだろうか。ラズリ様の話す女首領のことを聞いていると、そのまま父に重なるように思えた。サバガシュラという隊長は不思議と言ったのだ。あの人と腕輪がラズリ様によってのみ見えたからだ。ナブー神像も同じだ。荒野の娘リリトゥは真昼の流星を見る人だ。
目の前の小さな火。あの人の傍ともう一か所でも香炉のような小さな火が焚かれている。土器杯に注がれた湯を口にしたとき、涙が溢れ出した。取り入れた分より倍するのではないかと思うくらい止まらなかった。サバガシュラは無言だった。気を喪ったのか深い眠りに落ちたのか、あの人の声は聞こえない。小さな火の燃え音と遠い一つの星の瞬きがつりあって地上天空すべての音が闇に溶けてしまったようだ。極まった静けさの向こうから滴りのように女首領の声が降りてきた。
「わが商隊の荷を検めようとする兵士は上の海から下の海までどこにもいない。二人にはこの国を出るまでの十日ほど、われらの荷となってもらう。その後五日もすればその若者の傷は塞がる。それからは二人でどうなりと生きてゆけばよい。姫は荒野の娘となるのだ」
私を荒野の娘と呼んだのは商隊のサバガシュラが初めでありました。赤い砂の国の言葉でそう呼んだのです。四方世界の夜のただ一点を穿ち、そこから射してくる熱い光のような声で。果樹園で聞いた今でも残る二つの声。青い美しい鳥の発した奇怪な啼き声。耳にしたのではなかった。解けない結び玉に封じ込められたかのように、目鼻四肢の力、肌の感覚、何もかもが奪われて、私が鳥の声とひとつになったのだ。
その鳥の声をお前は後に一度だけ耳にした。牛も羊も他所より三倍を超える数の仔を産し、日々決まった刻にたっぷり吹き上がる水のある楽土のような地。物生りがよく、亜麻の連作さえも可能な痩せることを知らない土地。追放と放浪の繰り返しの中でただ一度だけ自ら出て行こうとした砂光る囲い地。お前の長子エピヌーは嫌がったのだ。出て行きたくないと、この地には何もかにもがふんだんにあるではないかと。十歳に満たぬ子が家族と離れ一人になろうと構わぬと地団駄踏んだ。脱走を兵士に知られてはならなかったので、滅家の王子にして、片耳の父は長子エピヌーを縛り上げ口縄を入れた。砂と礫が壁を叩き、野百合が強く匂う砂嵐の夜、脱出する五人が監視櫓の下を抜けようとしたきにお前は聞いた。お前だけが風音を圧する鳥の声を聞いた。片耳にして類まれな聞耳の父も二人の子も、エリュシティがいつものように手をつないでいた少年も聞かなかった。櫓の高みで夜を睨む兵たちもまた聞きはしなかっただろう。
ウル ナナム
-
29