ウル ナナム

  • 28

    あの人がさらに体を小さく折って咳き込んだ。私は取って返し、おとなしく待っている驢馬を井戸に近い幹に繋ぎ、棕櫚縄の袋を下ろした。荷はひどく重く、半ば引きずるようにして運ばなければならなかった。井戸水で手を灌いでからあの人の傷口を拭き、油を塗り薬草を貼り布で巻いた。葦の莚を敷いてあの人を移し外套をかけ二つの皮袋に水を満たした。夕暮れの脚は早く、赤味を帯びていた葉群れが黒い塊となって私たちを覆う。冷気がまたたく間に這い流れて、あの人の熱をもった身体を包むだろう。
    私は袋の中身を取り出し、一つずつ並べ置いてみた。使い古しの小袋が四つ、それぞれに無花果、棗椰子、煎り麦、空豆が入っていた。松脂に似た匂いのする樹脂の塊。一番底に火打石らしい尖った石が二つあったが、引き摺ってしまったせいだろう、挽き割り小麦の袋に裂け目ができていた。
    しばらく驢馬の下肢の白毛だけが薄闇に滲んでいたけれど、それも見えなくなった。蝙蝠の掠め飛ぶ気配が感じられた。私は空を見なかった。昨日まであった父王の庇護も星々の助けも喪ったのだから、私は巣立ちした若鳥のように振る舞わねばならない。
    この数日はとりわけ夜の風が北と西から強く吹いたので、今宵の無風は有難かった。額を冷やし、口元で布を絞って水を含ませるのを三度繰り返した後、私は干棗を小さく噛んであの人の歯の間に差し入れてみた。あの人は呑み込もうとしなかった。しばらくしてからさらに三度水を垂らした後は口に入れてくれた。信用しきれなかったが、男の持ってきた油と薬草に効き目はあったのだ。
    傍らに坐って傷毒と闘うあの人の早い息遣いを耳にしていると、自分は愚かなことをしてしまったが間違った道に入ったわけではないと改めて言い切れるのだった。私は白昼の流星を見たのだ。私の為したことは王家の皆々に恥を塗ることだけれど、自ら愧じるところはない。捕らえられればひっそりと埋められ、兄たちの一人が仇討と称して獅子を一頭狩り、派手な葬儀を催すだろう。物心ついてから、いずれ王都を離れて一人神殿に入るという自覚があったせいだろう、私は父母兄姉たちに今一度会いたいとは思わなかった。どの顔もすでにしておぼろだった。そのことに私は驚かなかった。
    お前は一族の誰とも似ていない。三歳となり、眉目の行方が定まる頃には血族のどの枝を遡っても似姿を見いだせないのが明らかとなった。お前は神殿に捧げ甲斐のある美しさだった。すなわち、剛柔併せ持つ並外れた策士だったお前の父であれば、実益のない神官ではなく同盟籠絡の手蔓にと、考えを変えそうなところだったがそうはしなかった。
    私が身内の者たちの誰にも似ていなかったように、私が生した二人の子エピヌーと娘エリュシティはあの人とも私ともまったく見かけが異なっていました。滅ぼしはしないけれど、目を離すこともない星神の介入は私たち二人が三人になり、四人になっても止むことはありませんでした。翼を傷めた鳥のような流浪の日々は、時によって人から言葉を奪います。まして幼子にとっては。もとよりエリュシティはほとんど言葉を発することのない子でした。遺児キナムが今喋らないのは娘に似たかどうかは分かりません。エピヌーは、何故他の者たちのように一所に居続けることができないのか、納得がいっていませんでした。不満は火種をこしらえます。途方もない道のりを踏破する遊牧の民や商隊と同じように移動していたとはいっても、私たちのような追放されながら導かれている者とはまったく違うのです。飢えと渇き、熱砂と寒風に苛まれながら、私もあの人も数えきれない境界石を目にしてきました。甘受していたのではありません。抗ってもいません。嘆いてもいませんでした。親から子へと何がどのように伝わり途切れ隠されているのか、人はついに知ることがかなわないのです。
    似ていないと聞き、不満の火種と聞き、俺はすぐにハムリのことを考えた。エピヌーの妻とは面識がないから、ハムリとグラが二親から何を受け継いだのか、俺に見極めはできない。火種は孫の代で大きく弾け、たちまち元の枝を焼き落とした。ラズリ様から血の一滴でも享けているなら、ハムリのような男はできあがらないだろう。覚師は言われた、三代隔てれば元の姿は遥かに霞むと。グラの面差しはラズリ様までまっすぐ辿れそうな気がする。そしてキナム、言葉の代わりに種子を置いていったキナム。ラズリ様の三人の孫たちはそれぞれに俺と関わりがある。星と星を繋ぐように、ラズリ様の一族とは俺の気づいていない像を結ぶことになるのだろうか。
    耳を澄まし続けていたはずなのに、数十頭とも思える蹄の音が近づいていた。闇の城壁に潜んでいて、いきなり門を割って躍り出てきたかのようだった。あの人も目覚め、肘をつき身を起こそうとしていた。街道の方向に明かりは見えなかった。それまで周りの闇にばかり目を凝らしていたのでわからなかったが、夜空で篩にかけられているみたいに夥しい星粒が地上に降り注いでいる。硬い空に撥ねているせいなのか、私には足音の方向が聞き分けられなかった。天からも地からもやってくるようだ。私はあの人の前に膝立ちして槍を抱えた。もちろん争うことなどできはしない。私たちはすぐに引き離されてしまうのだろうか。それとも二人一緒に、何一つ言い立てる暇なく命を取られるのだろうか。
    馬が十一頭。松明は両端と真ん中の三本だった。槍の穂先も抜身の刀身も見えない。駆けるときに邪魔な葉を切り落としてきたのか、青い匂いが咽るようだ。よほど巧みな乗り手たちなのだろう、枝葉のうねる斜面で馬列に乱れはなかった。援けてくれる神のいないことはわかっていたけれど、私は両手で槍を持ち上げ天を衝いた。
    「勇ましいことだな、姫。少なくとも一度、お前は自分の命を救ったことになる。私の声に覚えはないか」と中央の者が言い、松明の前に手を差し出した。握っているのは私が先ほど、果樹園の男に与えた腕輪だった。声の主が腕輪を持った腕を横なぎにすると、右端から二頭目の騎手が私の前に馬を寄せ、腰のあたりから大きな袋を取り口を解いた。無造作に振られた袋から転がり出た首はいくつだったのだろう。あの男に従っていた犬の首が最初に見分けられた。多分あの男も、そして果樹園主たちも討たれたのだろう。
    「肝が据わっているのはよいが、自ら選んだものを簡単に手放すな。この国の運気はすでに朽ちているが、それはお前の馬鹿げた振る舞いゆえではない
    私は声の主がわかった。会ったのは二年ほど前、南のディルムンから来た商隊の女首領だ。大編成の商隊の長というより、王族のような立居だったのを覚えている。広間に敷かれた駱駝の毛布に並べられていた眩い装身具。母や姉にまじって私も気に入ったものを取るのを許されていたのだ。戦勝の直後だったので、兄たちは攫ってきた敵王の寵姫を飾る宝玉をあれこれ買い求めていた。連行されてきた中には女神官がいたかもしれない。