ウル ナナム

  • 26

    私は振り返った。乾ききった葉群は灰色に霞み、あの人が横たわっているはずの来し方は麦粥のように澱んでいる。私はまだあの人の名さえ知らない。あの人を呼ぶことができないのだと思うと、怒りと恐れに唇が震えた。私たちは名乗りあう時をつくらねばならない。清明な星夜、焔沸き立つ太陽に大釘を打ち込んででも、その時をつくるのだ。
    名は美しい。人々の名。都市の名。樹の、花の、星々の名。仇敵の王たちの名でさえ美しい。名は呼ばれねばならない。名は刻まれねばならない。
    風は絶えていた。無風なのに、灰緑色の葉が私のまわりで小刻みに揺すれている。私は王宮の果樹園にある無花果が日に二度、雀の群れで満開となるのを思い出した。今は一羽の鳥も近くにはいない。私の動悸が私の踵を危うくしているように、私の顔よりも大きな葉が自ら震えている。真水のような悲しみが私を浸した。神官となるべく産まれた姫たる私は何人からも拒まれたことがなかった。この木は私が傍にいるのを嫌がっているのだと、私は感じたのだ。牙突き立てる猪が寄ってきても、鉞を片手に無骨な手が幹をまさぐろうと、こんなふうに怖気をふるうことはないだろう。星神の腕にある稲妻がこの私に向けられていると怯えたにちがいない。この時はまだ、その土地にあるなべてのことからわが身が駆り立てられることがあろうとは思ってもいなかった。
    あの人との旅の先々で、私たちは入村入城を断られたことは一度としてない。唯一の井戸を守って猜疑の毒に目を血走らせているような貧しい民でさえ私たちを拒まなかった。しかし月が六巡りほどすると、私たちは必ず村を追われ都門を閉ざされた。前知らせはなく、追い立ての布告はいつもいきなりで、麦打ち場から、鎚を打っている最中の鍛冶場から、二人の寝藁から、刺草のように疫病のように蛇のように排された。住人たちから嘲罵や石礫があるわけではなかった。宣しているのではなく、口を取られているようだったから、日々の奉献をないがしろにされた星々の怒りと呪いに人々が操られていると私たちは考えた。神々の思惑は測りがたい。われらを一撃で滅ぼさなかったのは、嬲るためなのか、試練なのか、ナブーの導きだったのか。あろうことか臨月間近という日もあったけれど、あの人は驚かなかった。渋面一つつくらず、逆らわず争わず荷をまとめるのだった。
    しかし戦うときは容赦なかった。荒野では持たない者をも襲う輩がいるので、私もわが身を護る術を身につけ何人もの命を取った。私は教えられた通り、襲撃者の刃を受けず躱さず一跳びで相手の頸を狙った。私の刃は犠牲獣を屠る祭司のようにためらいなく奔り、汚れた血がわが身に散り注ぐ前に飛びのくのだ。あの人の鍛えた短刀だからこそできたことだ。あの人は誰よりも鍛冶の神に愛された人だったが、手業は長子にも、また孫にも伝わりはしなかった。エピヌーが剣をつくらないのは己の力を知っているからだ。水を見つける才はキナムにのみ受け継がれているようだ。
    美しからざる御姿と云われる鍛冶神だが、美しい男を妬まなかったわけだ。美しい若者は石切り場ではなく、貴顕の慰み者として宮廷奴隷になることくらいは私も知っていた。私ならずとも、あまたの女そして男の目も引くだろうあの人が、一つながりの奴隷の一行に混じっていた。己の為したことから身を翻すのではないけれど、なぜあの人はあそこにいたのだろう。今でも不思議に思う。
    お前は刻々の重苦しさに耐え切れず、男と犬が去った方へと走り出した。すると、無花果の枝を四、五本束ねたくらいの羽虫の渦が次々と立ち現われてはお前を遮り、偽りの道標となってお前を振り回したのだ。羽虫は雲が雲を誘い、水が水を呼ぶように増え続け、灰色の煙雨となって視界を塞いだ。追い払うこともままならず、お前は半ば目を閉じて両手を突き出し、渦に揉まれる小枝のように狂いまわった。
    果樹の林が不意に途切れて、目の前を岩塊が塞いだ。お前がこれまで住んでいた宮殿や部厚い城壁を支える赤褐色の石や神像がつくられる玄武岩とはちがい、岩の壁は乳白色に照り輝いていた。一木一草見当たらないのは、飛び来った種子をことごとく撥ね退けるほど表面が硬いのだろう。果樹園のはずれから一跨ぎほどの先が同じ地続きとは思えず、まるで天の指が丘の半分を移し替えたようだった。丘陵がだしぬけに消えたり、涸れ谷が瞬く間に濁流で溢れたりするのがありふれたことだと、私はまだ知らなかった。風変わりな丘、奇妙な大地などというものはなく、すべてはそのようにあるのであり、また変わらぬものは一つもないことは、その後の旅で存分に見てきたこと。
    その時、あの声を私は聞いたのだ。今に至るまで、あれほど奇怪で気味の悪い声を私は聞いたことがない。比べれば獅子の咆哮など、ただ恐ろしいだけだ。逃げること闘うことができる。
    深碧色の羽、目のまわりは黒く腹の白い美しい鳥が岩壁の縁に止まっていた。ゆるやかに弧を描く嘴の先に咥えられた灰黄色にぬめり光る蛇。悲鳴であり、威嚇でもあるような鳴き声は獲物に飛びかかったときのものだろうか。この小さな鳥から出たとは信じがたい声だった。空と岩に嵌めこまれたような鳥と蛇の不動の姿は私から動きを奪い、髪の根を締め、呼吸がふいごのように荒れ騒いだ。毀れかけた私の心が希の徴を読みたくて鳥をつくりだしたのかもしれなかった。
    「姫様」と呼ぶ声が聞こえた。私は長い間気を喪っていたのだろう。乾いた土の色はすでに青みを帯び、木々から熱が去りつつあった。私は一本の無花果の老木の根方に背をあずけていたのだった。羽虫の群れは幻ではなかったようだ。足元や着衣のあちこちに潰れた死骸が散っている。そして鳥は。私は声を探した。驢馬をひいた男が私から五、六歩離れて窺うような腰つきで立っていた。犬の姿はなかった。
    早くあの人の許へ戻ろうと気が急いたけれど、粘土板だけを積んだ驢馬を選んでしまった失態を今また繰り返してはならない。「お前が用意してくれたものすべてを教えておくれ」と私は腕輪に手を添えながら言った。
    「切り傷にはこの油を塗って干し葉を重ねて縛ってください。両方とも匂いはきついですが、効き目は十分です。敷物と言えるものは持ってこられませんでした。葦の莚と粗織ですが毛の外套がこいつの背に敷いてあります。皮袋も小さいものが一つだけです。棗椰子と無花果はたっぷり入れましたが、凝乳はひとかけらだけです」男は驢馬の傍らから動かずに言った。
    耳の後ろで気がかりの影が揺れているのは釣り合わぬ支払故ではないように感じられた。何が訝しいのかは分からなかった。私は片手で驢馬の背に括り付けられた袋の口をあけた。品物は揃っているようだった。愚かな取引の代価となる腕輪をはずし差し出すと、男は慌てて跪き、油と薬草の入った編み袋を掌にのせ捧げた。異国の職人の手になるという腕輪の浅浮彫りに指を這わせながら、私は尋ねた。「来てもらったのにこう言っては悪いが、ずいぶんと手間がかかったようだな。奴婢は一人もいないのか」
    「役に立つ者は父に同行していますので」
    「この驢馬ははじめて手綱を取る者にもしっかりと従うだろうな」
    気弱なのか狡いのか見当のつきかねる薄い唇を引き結んで男は斜めに頷いた。
    「もう一つ訊きたい。この辺りは獅子がひんぱんに出没するのか」
    「私はいっぺんも見たことがありません。小さい頃、代官様の館で毛皮に触らせてもらっただけです」