ウル ナナム

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    「輿の先に延びる枝道は目の前の小高い台地で見えなくなっていたので、砂埃を巻き上げ血の匂いを振りまいていきなり現れた者たちは、獣でこそありませんが、臆病きわまりない宮廷人をさらに慄かせる風体でした。足首を細鎖、頸を葡萄蔓で繋がれて近づいてくる下帯だけの男たちが二十人ほど。全員頭を剃られ、亜麻布で縛った頭の片側に血を滲ませておりました。赤い砂の国で片耳といえば戦争奴隷。その枝道は石切り場へ上がる隘路で、敗軍の奴隷が働らかされているのだと後で知りました。そこから切り出される石は赤い砂の国にとって最大の交易品で、筏に積み込めるくらいの大きさにするには若い男の力をいくらでも必要としたのです。打ち破られた国の男たちはできるだけ四肢を損なわれずに連行され、石切り場に入る前に片方の耳を切り落とされていたそうです。若者たちを駆り立ててきた奴隷役人と兵は六人で、そのうちの二人が切り落とした耳に紐を通し首に下げていました。戦に破れるとはそういうことゆえ、砂嵐の国に住まう我らは男も女も戦士でなければなりません。その場には、たった一人を除いて戦士はおりませんでした。あの人だけが顔をあげ、訝しげに私を見つめておりました。弓弦の唸りさえ聞いたことのない小娘が、この若者だけが戦士たりうると一目で信じたのです。そして、信じたことに生命を吹き込む言葉は思いめぐらす間もなく、口をついて出てきました」
    ラズリ様の指は文字をなぞり続ける。俺の刻んだ名はリリトゥの通路だ。
    「皆の者、よく聞け。われは鷲と冠を旅する大神殿の最高神官を拝命する身である。たった今、天の大神より遣わされた獅子が犠牲の勇者を求めてこの地に降り立ってきた。われはその者とともに獅子の口許に赴かん」
    雷鳴のごとき獅子のひと吠えが私の声にちょうど重なったせいで、袖と裳裾に付けられた青や紅玉髄や金の薄片を鳴らし、諸手を天に差し上げての宣を疑う者はいなかったのです。私は自分の声の大きさに驚き勢いづき酔っていました。あの人は何が企まれているのかまったくわからなかったでしょう。私とあの人の国は境を接していたのではなく、間に二つの国を挟んでいましたし、父祖の故地は天に接する銀の山の麓だと話してくれましたから、私たちの言葉にはまったく似たところがありませんでした」
    白昼の月を見上げているのであろう荒野の娘の目は、不安と決意が煮えたぎる戦士の目のようだ。ラズリ様の声が一段と深まった。
    「輿の担ぎ棒を跨ぎ越え、槍持ちの一人に手を差し出すと、兵は決め事に従っているかのようにお前に槍を預けた。お前は槍を横抱きにして繋がれた男たちの前に立ったのだ。若者たちの血はまだ止まっておらず、頬を伝い肩から腕に這う黒い血の痕を見ると、お前の腕の力も声も萎え衰えてしまいそうだった。お前は気を取り直し右手の槍で白い中天の月を指し示した。六代に渡っているだけの新興の小国とはいえ、近隣から怖れられること少なからぬ王家を一気に貶める愚行。誕生の星々への背信。しかし天は幼い暴挙に呆れ果てたのか、神罰は猶予された。そうではなく、過酷な雷撃はこの娘を産み育てた赤い砂の国の方に降り注いだというべきか。ともあれ、天は皇女の掲げた槍をその場で折りひしがず、試みの時を預けた。それゆえお前は船も流れも知らぬままとも綱を斬り、運命の流れに櫂を入れたのだ。この時はまだ、お前にはどんな力も宿っていなかった」
    「この者の縛を解き、わが傍らに立たせよ」
    神官の額飾りと杓枝の威光を頼りに私は言い放ち、奴隷役人たちが葡萄蔓を切り離し足鎖を解く間、槍の穂先をあの人の胸に突き付けていました。無知の恐れ知らずというに尽きますけれど、私は獅子の口を脱出口にと決め込んでおりました。
    「その方ら、四方の風にかけて誓え。獅子が七度吠え立てるまでは街道に下りてはならぬ、よいか」常軌を逸していたゆえ、誰一人私の真意を見抜けなかったのでしょう。私は手足の自由になったあの人に槍を持たせ、供物、捧げ物を一番積んでいそうな驢馬の手綱をとって街道へと降りてゆきました。その後何年も続くことになる放浪の第一歩だった。その場から離れ、王宮からも神殿からも遠ざかり、赤い砂の国から出るための道などどこにあるはずもなく、請願する神々も持たぬ身と成り果てたお前の味方は獅子の吠え声だけ。獅子が立ち去るか退治されて、街道に人目が戻ってくる前に身を隠し、夜まで身を潜めていなければならなかった。飾り立てた神官と血塗れの片耳のままでは、言葉の出ぬ幼子であろうと、すぐに行く手を指差すは必定。
    あの人も理由は掴めなくとも、この私が自分を連れて逃げようとしていることだけはわかったでしょう。私たちは無言で獅子の声とは逆方向に進みました。2ゲシュほど歩いた後、あの人は無花果がまばらに植わる西側の斜面に目をやると、驢馬の手綱を取り登り出そうとしました。しかし驢馬の瞳には意志のかけらもなく、四本の脚は石柱に化したかのよう。驢馬を諦め、運べるだけの荷物をもとうと荷駄籠の蓋を開けた私は膝が抜けそうになりました。荷はすべて奉納の粘土板。水の皮袋一つ入っていませんでした。あの人は表情を変えずに荷に被さっていた織り布を剥ぎ取って肩にかつぎ、何を思ったか粘土板を一枚だけ抜いて私に手渡しました。
    その粘土板にはどんな文字が刻まれていたのだろう。徴が立ち現れるのはそういう時だ。俺たちは時を自ら選んでいるのではない、知らずに選ばされているのだ。
    二人が斜面を上がりはじめるとすぐに、驢馬の飾り具が鳴る音がした。われらの宿命を弄ぶ神が気まぐれに足枷を外したのか、もとより行き先を心得ているからか、驢馬は速足でそれまで向かっていた方に走り出していたのだ。思わず天を見上げたお前は、蹄のような小さな雲が街道を映すように連なっているのを見た。驢馬がその場にいつまでも居残って足跡を曝してしまうよりはましだが、異変を最初に告げるのは一途なこの驢馬ということになるのかもしれなかった。
    斜面の灰赤色の砂泥は乾ききっていて、私が足を滑らせるだけで大きな砂煙となりました。遅れがちの私を待つ間、あの人は槍を寝かせ、街道に目を凝らしていました。陽に炙られた銀細工の腕輪が融け出すのではないかと感じられ、渇きのために喉はひび割れて、気になるのは水のことばかり。貧弱な枝ぶりとはいえ、数百本の果樹が育っているのだから、水場は遠くないと私は自分を励ましていました。無花果の根方で息を整えていると、新たな獲物に飛びかかろうとしているような暴れ獅子の吼え声が聞こえてきた。輿が入り込んだ枝道からかなりの距離を歩いてきたのに、獅子は先ほどよりずっと近くまで来ている。その場しのぎに等しい自らの言葉が呼び寄せたのだ。吼え声が六度続いたのか、七度だったのか。咆哮はそのまま途絶え、風鳴りさえもなくなった。照り返しに目を細めながら、息をこらしていると、鳥の影が次々と斜面を滑っていった。冥府の鳥たちは八つの方位すべてから石切り場に通じる方角に集まっていく。お前の宣を守ったがゆえに獅子の爪に掛けられた者が出たのかもしれなかったが、そのことに気を巡らす余裕はもちろんなかっただろう。