「お疲れでしょう」と笑いを含んだ声でラズリ様が言った。やはりラズリ様も館の女たちも俺がつむじ風の群れに巻かれて来るのを知っていたわけだ。ラズリ様なら風を操ることもしてのけようが、俺がここに来るのを隠す謂われはない。そもそも誰の目を欺こうというのか。
「思いのほか長い道のりでした」誘われて俺の口調も我知らず緩んでいた。俺は膝行し、仔羊のなめし皮に包んだ粘土板をラズリ様に捧げた。ラズリ様は目尻の深い皺が線刻文字に変わるのではないかと思われるくらい長い間粘土板を見つめていた。アッカド語だけではなく、十二の文字を読めるはずなので、読みあぐねているのではない。ラズリ様は俺の刻んだ文字をゆっくりと指でなぞった。何故だろう、その仕草は懐かしかった。そして耳奥に、あなたの名前を私が辿る、という言葉が降りてきた。
「ディリム、名付ける者にして書き残す者であるお前様に相応しい、お前様にしかできぬ贈り物です。この私には感謝の思いを伝える術がありません」俺の捧げ物に目を落としたまま、ラズリ様が口を開いた。
「ナブーの守護者ラズリ様にそのようなお言葉を賜るとは身に余ることです」
「ナブー神の守り手であることはその通りですが、私はお前様がひれ伏すような者ではありません。むしろ、天の斬戟を生涯浴び続けねばならぬ咎人なのです。ハシース・シン殿、お父上ビルドゥ殿がお示しくださるお心遣いこそ身に余ること。悔いたり愧じたりはしているのではありませんよ」
ラズリ様に咎という言葉はまったく結びつかないが、天の怒りには我ら一人ひとりの理解を超えたものがある。神々と対座する貴人であればこそ、神の吐息を避ける術はないのだろう。
粘土板に指を乗せたまま、ラズリ様は自分の左側に控える娘に向かって小さく顎を引いた。他の女たちは姿の見えないことがあったけれど、この娘だけは必ずラズリ様の近くにいた。娘の名を耳にしたことはない。
「ディリムのお父上からの蜂蜜ですよ。六日前にハシース・シン殿が届けてくれました。どの地に咲く花蜜なのでしょうね。蜂蜜さえあれば長い旅に耐えることができます。二人して三日に一匙ずつ口に入れるだけの旅でも生き永らえたのですから。お前様が名付けてくれた通り、私は荒野の娘でした。ディリム、近くへおいでなさい。砂など、何を厭うことがありましょう。私どもはいつも砂とともにあるのですから」
臥所の足許に控えていた俺は、もう一度膝行してラズリ様の横に座った。娘から差し出された小鉢はとても薄手につくられていて、壁の刳り抜きに灯された炎が透りそうだった。女は錫の細口から蜜を垂らした。蜜は固く重く凝っていて、小鉢に落ちきるまでに時がかかった。ラズリ様と臥所の右側にいる五弦の竪琴の巧みな娘、そして俺の後に控えていた三人の女たちも同じように小鉢に蜜を受けた。グラはいなかった。
これもまた父が併せて届けてきたものだろうか、中指ほどの白亜の棒が配られた。先端に幾筋か切込みが入っている。石棒で蜂蜜を巻き取るラズリ様の指先を真似て、俺も蜜を口に入れた。僻遠の地に咲く花蜜なのだろう。初めての香りはやわらかで、味は荒々しかった。
目を上げると、ラズリ様の髪を大きく覆っていた巻き布は髪留めに変わっていた。翼を象った黒曜石の浅浮き彫りだ。真中に瑠璃が嵌め込まれた髪留めの下の額は蜂蜜の色だった。荒野の娘は両の頬と頤にそれぞれ三つの赤いほくろを付けている。俺は小鉢を脇によせ、思わず平伏していた。
「私には捨てた名があります。ラズリはあの人のくれた名。正しくはあの人の母上の名です」
二つの声がかぶさって聞こえた。右の耳が捉えた言葉をわずかの間をおいて左の耳が捉えているような、いや、そうではない。荒野の娘の声をラズリ様がなぞっているようだ。
「あの人の二親、あの人の国は私の父と兄が率いる軍に滅ぼされ、そして私を名付けた国、赤い砂の国はその後アッシリアの戦車軍団に一蹴され跡形もありません。父王には二人の息子と三人の娘、次女の私は生まれたときから神殿に召されることに決められていました。鷲と冠を旅するもの、そう呼ばれる神殿の神官になるためです。荒野の娘リリトゥたる私は赤い砂の国に生まれながら、城壁の監視塔に登って城外を見たこともなく十三歳までを過ごしてきたのです」荒野の娘リリトゥの声は遠くから届く花の香のようにひそやかだった。
覚師の傍らに侍しての十一度のおとないで、俺は異国の神々の相貌から軍の布陣、刀傷の縫合、染料の採り方まで聞いていた。とりわけ船旅、造船、操船についての二人の語らいは熱を帯び、その一日は夜を徹していた。俺の話も聞きたがった。一番大きな構造の船に乗ったことがあるのが俺だったからだ。六歳くらいの時だから、船も大きく見えたのだろうが、三段櫂船となればファラオの軍船よりも巨大らしい。しかし、ラズリ様の来し方を聞くのは初めてだ。
「私の行く末を決めたのは、私自身が目にしたわけではない獅子の親子。私を乗せた輿が通るはずの街道に三頭の獅子が現れて二人の商人が襲われたという急報を繰り返す侍女たちの声はうろたえきっていました。男は輿の担ぎ手八人のほかには形ばかりの槍もちが五名いるだけ。獅子が襲い掛かってきたら、私を護るには心もとなかったのでしょう。輿は大揺れしながら枝道に入りました。
遠い咆哮が聞こえてきたとき、私は思わず御簾を開いていました。私はそれまで砂の道を見たことがありませんでした。小さいながら、宮殿と呼ばれる建物は焼煉瓦と黒光りする木の梁で組まれていて、中庭では七種の果樹が涼やかな影をつくり、溢れる実をもたらせてくれました。獅子が吠えなければ、私はついに砂の道を目にすることなく、宮殿から神殿へと担ぎ運ばれ、最期はアッシリアの軍勢の業火に呑まれていたことでしょう。
砂というより、跳ねまわる白い光に目が眩んだ私がようやく目を開くと、輿を囲む全員があまりにも自信なげな様子で街道の方に目をやっていました。私は震え上がりました。この者たちは一人残らず私を抛って逃げてしまうだろう。神殿の扉が閉じられるまで顔を曝してはならないはずの私に気づいて止める者がいなかったのですから」
ウル ナナム
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