ウル ナナム

  • 22

    天道に踏み外しや気まぐれは起こらないとカルデア人は言う。三百五十七年に一度だけ巡ってくるという流星の洪水もあの者たちは言い当てる。予言ではない。すべて天の過去帳に記されているらしい。星読みのカルデア人たちには受け継がれてきた天の暦を独占する驕りはなく、何一つ隠さないので、これはかつてない天の歪みなのかもしれない。
    天空からの重みはいや増して、俺は劫罰の責具を負わされた罪人みたいによろめき歩いた。薄い空気に目が眩む。水の中でのように肺腑が悲鳴を絞る。冥府を統べる御神が宿命の大鎌を研いでいる場に、はからずも駆り立てられてしまったみたいな気分だが、恐ろしくはなかった。姿は天の刑場に引かれていくようでも、俺は風の瞳に守られている。つむじ風は俺の行く手を遮るわけではないからだ。むしろニサバの丘の西はずれのラズリ様の住まいに向かう俺を導くかのようだ。
    ボルシッパの城壁に立つ守備兵たちに、この俺を包み運んでいる砂柱はどんなふうに見えているのだろう。そして壁の光採りから外を覗き見ている者がいたら、砂煙の奥に俺の姿が透かし見えるのだろうか。
    音のない風に囲まれて、地を擦る俺の足音も荒い息も砂柱の外へは洩れていないのかもしれない。狂鳥の塗り籠と呼ばれる家からいつもの奇声が聞こえてこない。この家壁の前を通り過ぎる者がいると、必ず中から凄まじい叫び声が発せられるのだ。覚師とラズリ様の許へ向かうときも同じだった。外壁はすべて塗り込められていて小窓ひとつないのに、中の者は人の気配を感じ取るのだろう。囚われ人がこの丘に押し込められることはないはずなので、霊鬼に蝕まれた者にちがいない。声の調子は呪詛のようだ。どこの国の言葉かはわからない。覚師は知っているのかもしれないが、表情を動かすことはなかった。
    俺は狂鳥の塗り籠を抜け、八十歩ほどの距離にいつもの何倍もの時をかけラズリ様の家に辿りついた。外囲いを入ると、つむじ風は布が解けるように溶けていった。引きちぎられ中空に巻き上げられたらしいオリーブと石榴の枝が足許に転がっている。俺は空を見上げた。灰褐色の砂の雲が垂れ込める暗い空の底で、途方もない力で俺を射すくめる白い月。俺には月に呼びかける言葉が一つも浮かんでこなかった。上の海のさらに向こう、下の海の果て、ファラオの邦地のまた奥まで遍く見そなわす天空の神々が、この俺にだけ狙いをつけて火箭を投げ落とすことなどあり得ない。あり得ないはずだが、月の瞳はこの俺にだけ注がれる閃光のようだ。あわれな額を穿たれ、俺の栖は狂鳥の塗り籠となる。狂える者が吐き出すのは月の言葉か。俺は目を逸らすことができず、昼の月の光を嚥み込んだ。
    名づけなければならない。呼びかけなければならない。
    「リリトゥ」と俺は胸の裡で呼んでいた。俺がラズリ様のために聖刻したラズリ様に捧げるための名だ。「荒野の娘、リリトゥ、あなたのお知恵に縋らなければ私はあなたのお館をくぐることがかないません」
    ふいに肩が軽くなった。天の重しが外され、身体が大地から浮き上がる気がした。瞬きの間さえなく、俺はラズリ様の扉の前にいた。神の手指が俺をつまみ上げ、向きを変えさせたかのようだ。俺は目を閉じ耳を澄ませた。何も聞こえなかった。俺はタシュメートゥー神殿の夢見の勤行のあと、耳だけになってしまった朝のことを思い出した。背に射込まれる眼差しは感じられなかったけれど、もう一度振り仰ぐ勇気はなかった。
    「ディリムがまいりました」
    おとなう自分の声が聞こえなかった。音がないのではなく、耳を奪われているのだ。あてなく立っているうちに、長衣が砂まみれになっているのに気づいた。出がけに濯いだ顔も頭も、城門の浮き彫りみたいに砂色に変わっているだろう。ここに住むのは女たちだけだ。ラズリ様とグラのほかに五人の女が一緒にいる。しばらく待ってもう一度呼んでみた。入るように言われていても、今の俺にはわからないのだと思いなし、俺は叩頭してから扉を押し足を踏み入れた。すぐに背後の扉が元に戻り外光が遮られた。瞳孔の開ききっていた俺には室内がまったく見えず、二の腕を取って促されるまで、傍らに立つ女に気づかなかった。俺の目のせいではなく、砂留めの内壁の潜りには厚い織布が垂らされていたのだ。竃の熾火と揺らめく灯心を目にして、俺は深い息を吐いた。壁際に置かれた床机に俺を腰掛けさせると、女は水盤に布を浸して俺の両目を洗った。水盤を脇に除け、女は細長い青銅作りの杓を取って俺の右耳にもってきた。いくつもの音が同時に聞こえた。俺自身の驚きの声、炎、湯のたぎり、衣擦れ、爪先立ちの素足、外壁に吹き付ける砂、這い回る地虫。遠い月の息遣いも俺と共にある。
    女は同じように左耳に金具を当てた。俺の耳穴を塞いでいたとは信じがたい大きさの小石が二つ、女の掌にあった。
    「お待ちですよ」と女は立ち上がりながら言った。声を聞いてようやく、女の名がミリアだったことを思い出した。ここにいる女たちの出自を俺は知らない。学び舎の者たちの賄いを担うとともに、巫女であると聞いたことがある。ミリアは俺をラズリ様の居室へ連れていくのではなく、自分の手仕事に戻るようで、会釈ひとつして脇へそれ、豆枡を手に取った。
    天空の異変に立ち向かう、あるいは操る何ごとかが館の中でなされていると、俺は頭のどこかで考えていた。しかし、嗅ぎ慣れない香も炎も結界も呪の発せられた後の空気の震えも感じられない。俺の耳に石が嵌まっているのをあらかじめ知っていたこと以外は、いつものことのように菜が刻まれ、湯気がたち、手足は無駄なく動いている。
    俺はこれまでに十一度、覚師に随いてこの館を訪れている。ラズリ様の居室への往き返りとも、俺はハシース・シンの背と足許を見つめていただけで、通り抜ける館の中の様子に目をやったことはなかった。今日はすべての明かり取りの壁穴に木蓋が差し込まれているので、いつもより影が深い。それでも、目に入るすべてがはっきりと見えた。機織の糸の色、並べ置かれた大小の瓶の線刻、柱に懸かる面の口から突き出る牙。
    俺はラズリ様の寝所の手前に跪き声をかけた。長衣から土埃の匂いがした。ラズリ様の胸に障るかもしれない。砂を払ってこなかったことが悔やまれた。女だけの館でなければ着替えを所望したところだ。
    「そのまま、お入りなさい」と女の声がした。俺のためらいを察したかのようだった。
    灯油の胡麻と乾いた葉、芥子の塗り薬が入り混じった匂いはいつもながらだが、鍛冶場のような金臭さが微かに漂っていた。今のラズリ様に陽光は禁物なので、日没までは窓が塞がれている。「ひととき日の光を浴びすぎましたからね。小屋のない水路の番人みたいに来る日も来る日も」と言われたことがあった。仄暗い臥所には二人の女が控えていた。グラの姿は見えない。