俺は水汲み車の音を聞いていたようだった。まるで十数本の井戸に囲まれているように途切れなく車が軋り、水が撥ねていた。車の鳴る音といっしょに聞こえていた女の声が俺の名を呼んでいるのに気づくまでずいぶん間があったらしい。表に出て行くと、ヘガルゥとキナムの二人が引き返そうとしているところだった。
「すまない。お待たせしてしまったようだ」
振り向いたヘガルゥがキナムの両肩を押し出して言った。「この子があなたに差し上げたいものがあるそうです」
ヘガルゥに促されたキナムははにかんでいる様子ではなかった。キナムとは顔見知りというだけで、グラの従弟とはいえ餉の座を囲んだこともない。キナムは俺の前に跪き、右の掌に砕けたまま固まったという左の掌をのせて差し出した。俺も膝をつき、象牙の透かし彫りのような小さな掌に手を添えた。キナムの掌にあるのは種子だった。穀物のものではなさそうだが、俺には何の種子か分からない。
「俺にくれるのか。種のようだが、どうすれば良いのだ」
ヘガルゥが口添えするかと思ったが、二人は同時に拝礼し黙って踵を返した。去って行く二人のほかに人影はなく、風も絶えている。井戸車は俺の耳の中で回っていたわけだ。
俺は部屋に戻り、乾きかけている粘土板の端にキナムから受取った種子を並べ置いた。種子は十二あって、俺の目にはそれぞれ異なった花を結ぶもののように見えた。耳を領していた水音に召し寄せられるようにもたらされた十二の種子。種子から目を移すと、粘土板には浅い尖筆の跡があった。俺がいつの間にか刻み付けていたもの、それは文字ではなかった。絵と云えるのかどうか、伐り出された木の幹にも、細長い指のようにも見える。この木の幹らしきものに読めない文字は書かれていたのだろうか。井戸車や水の音が呼んだ線刻とは見えない。
俺は日々夢を刻んで行くが、その一つ一つを解き明かそうと試みたことなどなかったのに、何を拘っているのか。特別な夢などはないと俺は思っている。女神タシュメートゥーが嘉納されたものも、不遜だが、俺にとっては特別な夢と言えるわけではない。特別な夢はないが、こんなふうにいつまでも気にかかる夢があるということだ。うっとりする夢、昼の時間と一続きになったような夢、追われ追い詰められる夢、繰り返し立ち現れる夢、そのどれとも違うのだ。
俺はキナムのくれた種子を置いた粘土板を地下の棚には運ばず、切り窓の一つに入れ置いた。俺の行く末の長さによって夢の棚は増え続け、夢の部屋になり、やがては夢の倉となろう。夢の井戸。俺の井戸は俺だけが掘ることができる。俺が息絶えた時、引き継ぐ者はおらず、ただ捨て置かれるのだ。覗いてみたり、微かに滲みだしている水を舐めてみたりする者はいるかもしれない。一度生まれたものは決してなくなることはない。覚師の言われる通り、無尽蔵なのだ。人の心も、この天と地も。確かに種子だ。一度あったことは、これからの日々の種子だ。
グラ、ハムリ、キナム、今日のはじまりから、ラズリ様の血を享けた者たちが俺の前に連なり現れている。そんなことが気になるのは、符合の魔に誘い込まれているからだ。考えが行き詰ると、俺たちはすぐ徴に飛びつくのだ。それでも、今日という日は特別な日になるという気がする。あなたの本当の名は、とグラは言った。あの娘はどうしてそんな訊き方をしたのだろう。そして俺はなぜ直ぐに、それがラズリ様に尋ねたいことだと言ったのだろう。俺はただラズリ様の傍に座り、自分のことではなくラズリ様の話を伺いたいと、長い間思ってきたのだ。覚師がラズリ様に対してはらう並々ならぬ敬意を目にしていたからではあるけれど、ラズリ様の眼差しを感じると遠雷のような予感が奔り、知らぬ間に頭を垂れているのだ。
ラズリ様に一人で会うときに携えていくもののことを俺は決めかねていた。覚師が持っていくものはいつも変わることがない。果実と薬草だ。果実はその都度、種類がちがっていたけれど、薬草はハシース・シン自ら葉をすり潰し、火に焙り、湯と酒精を混ぜ合わせ、捧げわたすのだ。考えあぐねていたのは、おれも覚師のように二つのものをと思いなしていたからだが、つまるところ今の俺は書記見習いなのだ。
俺はラズリ様に捧げる名を刻んだ小さな粘土板一つをもって表に出た。太陽は三枚の薄布を被されたような白い円盤となって中天に浮いている。生暖かい風がいくつもつむじを巻いて横走りし、御柳の匂いを運んできた。つむじ風は天から降りてきた紡錘竿が回っているようだった。数歩踏み出しただけで、肩が重く胸苦しくなった。人の姿は目に入らない。当然だろう、立っているだけでも奥歯を噛み締めていなければ膝が抜けてしまいしそうなのだ。一たび表に出ようとしても直ぐに屋根の下へ逃げ戻ったにちがいない。神の御使いの手指のようにつむじ風が俺の周りで渦を撚り合わせている。
重いのは月だ。昼の月が天上の酒宴に供される酒瓶のようにニサバの丘を押しつぶしている。月は人を惑わし、血族を引き裂き、思いもよらぬ言葉を走らせるというが、それは真夜中の月だ。天候はいつでも気まぐれだが、この季節の昼間に月が大地を苛むことなどないはずだ。いっさいの物音が途絶えている。狂いまわるつむじ風にも音がない。
今朝の夜明けは美しかった。そしてあの日も、イナンナの星は穏やかな道行を約するかのように澄んでいたのだ。前触れはなかった。馬たちがいっせいに耳を立て、父が下馬を命じ二重の円陣を組ませはじめたとき、空は色をなくし、男たちの声は唸る風に唇の先からもぎ取られていった。途切れず飛んでくる砂粒が針となって空気を掘り刻んだ。風音は金具が軋るようだった。さして長い間ではなかったが、被っていた砂塵の重さに俺は起き上がりかけたままへたりこんでしまった。「これより大きな砂嵐に遭ったのは俺も一度だけだ」と父は言った。「雨嵐とちがって砂漠の風の襲来を察知するのは無理なのだ。身を縮めてやり過ごすにしくはない」
その日は放胆な牡牛のような一気に通り過ぎる砂嵐だったが、数千頭のガゼル群の移動のごとき地響きをたてる嵐のあとは、小さな村落を墓に変えてしまうほど砂塵を積もらせるという。
ウル ナナム
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