ウル ナナム

  • 20

    そして俺が我に帰ったのは着衣を取った場所だった。目覚めは陽の移りのように淀みがないので、怪しげな秘薬を盛られたとは思えない。なにものかが取り憑いて我知らず奇態な振舞いをしたというふうでもなさそうだ。足下から天井まで薄明の中にあって刻限がわからないが、ここに運び戻されたのにも気付かず、俺は収穫六日前の果実のように満ち足りて寝入っていたわけだ。これでは勤行とは言えまい。役にたたない呆け者として、捨て置かれたということかもしれない。夢を記した粘土板を奉納するのだと覚師は言われたが、尖筆を手にした覚えはまったくない。俺は毎夜かならず夢を見る。思い出せるかぎりの日々を遡ってみても、夢無しの夜を過ごしたことはなかった。夢のない眠りは蝕のようなものだ。否応なく蔽いつくされ光を奪われる。俺は目覚めの直前までまったき闇の中にあった。では、女神タシュメートゥーは瓶の水を飲み干すように俺の夢を飲んでゆかれたのだと考えて良いのだろうか。
    俺は耳を澄ましながらゆっくりと下帯をつけ長衣をまとった。祈りも呼びかけもなく神殿を去ることになるのだと気付き、俺は小部屋につながる回廊の縁に跪き黙って頭を下げた。そのとき初めて、膝が抜け肩が上がらないくらい疲れきっているのが分かった。俺は向き直り、ついに一言も捧げることなく、わが身を引き摺って控えの間を後にした。
    次の間の中央には絨毯が敷かれ数個の長枕があった。覚師こそ夜を徹しての勤行の時を過ごしたのだろう、長枕の一つに頭をのせ横たわっている姿は見たこともないほど疲れが滲み出ていた。俺もまた搾り器を二度潜った果実のように自分の形をなくしてしまった気がするけれど、タシュメートゥー神の拝顔はおろか裳裾にも触れずに立ち戻ってきたのだ。俺が戻るのをどこかで見ていたのか、すぐに女祭司がやってきて卓上の杯に液体を注ぎ入れ、促すように首を傾げた。覚師は目を閉じていた。液体は父との旅で口にした山の水のように冷えていて、かすかに花の香がした。俺が神殿へと運んだ水瓶も冷たかったのを思い出した。女神に捧げた聖水をこの俺が無遠慮に飲んで良かったのだろうかと疑念が湧いたが、卓に戻した盃に祭司が液体を注ぎ足した。始めの一杯は渇きを鎮めずむしろ募らせたので、俺は少しずつ時をかけて二杯目を飲み干した。
    「ご苦労だった」と覚師が目を閉じたまま言った。声がくぐもっていて億劫そうだ。
    「私はただただ眠り込んでおりました。というより、気を失っていたと言うべきでしょうか。ですから、何も為さなかったと後悔することもできません」
    「お前は疲れておらんのか」
    「いえ、目覚めは爽やかでしたけれど、身体を動かしてからは、血の巡りが泥になってしまったようです」そう言っているうちに、立っていることはもちろん、卓を前に坐っているのも辛くなってきて、俺もまた長枕を頼りに身を横たえた。乾し上がった涸れ谷に一筋残っていた水が砂地に消えるように俺の力は抜け出ていった。横たわり目を閉じていれば不快ではなかった。
    「お前が大働きをしてきたということだ。その身が搾り滓になるまで夢を紡ぎ続けたのだ」
    人の夢を渉猟するのがタシュメートゥー神。新たな夢のため、井戸を掘るように自分の深みへ降りていったのならば、この尋常でない疲れももっともなことだ。キッギアの井戸は掘り当てるのに十一年を要したと見張塔の文書にあったと聞いた。この俺は夢を掘り当てたのだろうか。
    「何も為さぬ者はこちらには戻ってこられない。思い出せないことはなかったことではない。我らが思い出せる夜の時はいつでもほんの僅かだ。人の耳も心の臓も麦を量る枡とは異なる。覗き込んでも決して底は見えない。いや、底というものがなく、その容量は無尽蔵なのだ。夢はお前の中にあってお前が思い出したことがないものが現れ出るための道なのだ」
    夢に乗って俺の目覚めまで漕ぎ上ってくるものが、俺に連なる遥かなる古の御方の囁きだと考えるのは愉快だ。愉快だが、そのどれかが俺の記憶の外に住まう母のものだったとしても、俺は見分けることができないのだ。
    「夢は道ですか」と俺は覚師の言葉を繰り返した。
    「夢は道だ。洪水であり、穀物倉であり香油壷だ。上弦のそして下弦の五日月でもあろう」覚師は目を瞑ったままだったので、覚師の言葉は高熱にとりつかれた人のうわ言のようにも聞こえた。
    「私にとって夢はいつでも謎です。謎であるならば、終身の牢獄だということになるのでしょうか」
    「タシュメートゥーを謎の女神と言った者がいたな。すべての神が我らにとって謎であるのは自明のこと。それをあえて事上げしたのだから、もちろん理由はあろう」
    俺は今しがた膝を立てることもできないほどの疲れを感じていたが、起き上がれないのは身体が重いからではなかった。わが身がないのだ。握り合わせる指がなく、長枕に乗せた頭の所在もない。物が見えないのではなく、また眩んでいるわけでもなく、見るための眼が消えている。俺にあるのは耳だけだ。耳だけが残っているとも、耳だけが身を離れて飛んでいるとも感じられた。死の間際、すべての力が去った後でも、最後まで留まっているのは耳だけだと聞いたことがある。覚師ハシース・シンも同じなのだろうか。指も背も目も融け流れて耳だけが立っている。
    それは覚師の寝息だろうと俺は感じていたが、寝息ではない、蜂の唸りだ、蜂ではない、扉の向こうに厚く降り積もっていく砂の軋みだ、砂ではない、砂を踏んで遠ざかる足音だ、軽い軽い足音だ、足音ではない、裳裾が地を擦っているのだ、擦っているのは裳裾ではない、尖筆だ、夢を追う尖筆だ。
    俺は尖筆を握ったまま深く息を吐き続けていた。夢は筆先に降りてくることがある。眠りのあわいに浮き沈みしていると、それとは気づかぬ間に、いくつかの文字を刻んでいたことがあったのだ。刻んだ文字が夢を辿る標とはならず、謎の上にさらに砂を被せてしまうことも少なくない。日々の夢を書くことは、煙の形を残そうとしているみたいにもどかしいことがあるかと思えば、夢が目の内側に鑿で刻まれたように貼り付いているときもある。時を経てから前触れもなく不意に隠れていた夢がみつかることもある。
    俺は目を閉じ、今朝の夢と目覚めの境目に潜りこんだ。これまで文字を読み書きしている夢はほとんど見たことがない。この文字は読めない、なぜそう思ったのだろう。読めない文字を前にするまで俺はどこにいたのか。思い出せる夜の時は僅かだ、と覚師は言われた。すべてのことには訳がある。思い出せないことにもかならず訳がある。
    覚師の学び舎にいるのだから、読めない文字を目にするのは珍しいことではない。文書館に積まれている半分以上の粘土板、羊皮、木片、布には読み方の分からない文字が溢れている。俺は読めない文字に囲まれているのが好きだ。中には憑鬼者の呪の匂いがするものもあるが、どんなものでも見飽きない。だから、読めない文字を前にもどかしさを感じたことも焦りを覚えたこともなかった。