ウル ナナム

  • 19

    俺は水路に架かる小橋を渡り、ニサバの丘の斜面を豆蔓のように巻いて上る、覚師が女神ニンリルの腰帯と呼ぶ道に入り、はじめの大曲を回ったところで歩を緩めた。まだ見えないが、坂を下りてくる驢馬と二人の足音がする。右岸にも朝の市が立つ。市と呼ぶには貧弱極まりないけれど、乾し果物や豆類、酪乳など並ぶものの質は悪くないのだと聞いた。市に出かける一人はグラの従弟のキナムだろう。少年はニサバの丘には俺より一年ほど早く来ている。キナムは五歳になったばかりの新年祭直前、鍛冶場の事故で左手甲が砕かれたという。そうなっては後に鍛冶職人として生きていくことはできないし、キナムはその日以来声を喪っていた。少年に文字を学ばせるつもりでラズリが呼び寄せたたかどうかは知らない。学び舎に来たことはまだないはずだ。もう一人は、ラズリを手伝っているヘガルゥという婚家から帰された女だろう。とりわけヘガルゥになついているのでもないけれど、キナムは市への買出しには必ず同行する。喋れないが、賑やかな場所、商いの様子が好きなのかもしれない。ニサバの丘では人の声より山羊や驢馬の鳴き声のほうがはるかに多い。粘土の書板を相手にする者たちは食事のとき以外ほとんど話しをしないのだ。俺たちが城市の学び舎に泊まっている間はなおいっそうひっそりとしているだろう。すれ違う時、俺に嬉しそうな顔を見せたのは驢馬だけで、キナムとヘガルゥは小さな会釈をして下っていった。
    文書倉へ連れ立って歩く二人の書記生の背が見えたが、建物の周りに人の気配はなかった。俺の寝所に人が入った跡はなかった。俺は念のため汲み置きの瓶の水を表に捨て、井戸端で中を二度濯いでから新しい水を満たした。
    「あいつらはここまで上がってこられない。ここには入っていないから大丈夫」と後ろからグラが声をかけてきた。俺が戻ってくるのを窺っていて、水を捨てるのを見ていたのだ。俺は瓶を持ち上げ「グラ、顔と手を洗え」と言った。グラの手にも顔にも麦粉が付いているのは夢中で臼を挽いていたのだろう。待ち伏せていたハムリはどんな言葉でグラを脅したのか。父エピヌーを差し置いて、奴が勝手に妹の婚礼をまとめることはできない。
    「良い場所を教えてもらったよ。連れていってもらってありがたかった」
    顎を突き出し滴をしたたらせているグラに俺は言った。水に光るグラの顔。濁り一つないこの娘とあの痩せ牛がどうして兄と妹なのだろう。
    「私はどうしてディリムが新年祭の神像を運ぶ船に乗るのか不思議だったけれど、さっきよくわかった。もの言わぬ瞳のために。生命の木のために。不朽の館のために。豊饒のシンバルのために。第二の月の祝祭のために。新年祭に奉納する新しい讃歌をつくるお役目なんだ。あんたは五十の新しい名を捧げるお役目を賜るのだわ」
    俺はグラがボルシッパの夜明けに捧げた言葉をしっかり覚えていたことに胸を衝かれた。一気に水位が上がるように悲しみが俺を沈めた。
    「今度、私は一人で行く。ディリムがバビロンに入る新年祭の日の出を見る」
    俺は水瓶を地面に置き、「グラ、俺も顔を洗う、支えてくれ」と頼んだ。グラの足指や寛衣のあちこちにも粉が散っていた。グラは三度に分けてゆっくりと水を零した。俺は瓶を受取り井戸桶の水を足した。グラの手はひどく冷たかった。
    「今日、午睡から覚める頃合にラズリ様をお訪ねしようと思う」
    「婆様はずっと起きている。いつでも来て」
    小走りのグラは住まいの方に向かわず、外囲いの胸壁から出て行くようだった。性悪共が居座っていることはないだろうがグラの足取りに怯えたところはなかった。
    俺は部屋に戻り尖筆を選び、粘土と小桶を整えた。死者を床下に埋葬するように俺は日々の夢を刻んだ書板を地下の壁に積んでゆく。城市の教場で書き記したものもこの丘へ持ち帰って保管する。俺以外の学徒たちも夢を書き記すように言われているのか、また覚師自身が夢書きをしているのかどうかは知らない。
    タシュメートゥー神の夢見の勤行を言いわたされたとき、俺は日々の夢書きゆえに召喚されたのだろうと考えた。しかし俺がどんな夢を奉納したのか、それは女神に嘉納されたのか、何も覚えていないし知らされていない。俺がはっきり覚えているのは拝殿に至り神像の気配を感じるまでのことだ。
    神殿の回廊は左回りの渦で七つの円形の小部屋を通った。俺の両脇には羽虫の薄羽のような透き通った布を頭から垂らし、広口の大瓶を抱えた女祭司が付き添った。俺は一つ目の部屋に入る前に長衣も下帯も取るように命じられた。七つの部屋の様子はどれも同じだった。異なるのは床に敷かれた焼成煉瓦の色と模様で、天の星々を写しているように思われた。各部屋の中央で俺は跪かされ、右手に付き添う女祭司が水瓶の水を頭から注いだ。中央左手には漉し布を被せた水瓶があり、俺の左を行く女祭司は抱えてきた水瓶の水を漉し布に透した。水と勤行者の浄めの儀式なのだろう。小部屋の出口にあたる壁にがんが掘られ小さな神像が安置されていた。円形の部屋にも部屋をつなぐ回廊にも灯がいっさいなかったが、巧みに外光を引き入れているのだろう、どの場所にも夜明け前くらいの明るさがあった。拝殿に導かれ扉が閉ざされると何も見えなくなったが、闇は柔らかく窮屈な場所ではないようだった。新たな導き手が現れる気配はなかった。俺の手には七枚の漉し布で浄められた水の瓶が残されているので手探りも叶わない。聖別された水を託されたのだから、どこかにタシュメートゥーの神像がおわすはずだ。七つの部屋は皆中央まで女祭司の小さな歩幅で九歩だったので、俺は同じ歩数だけ進んでみた。足裏の感触はこれまでと同じだ。俺は水瓶を抱えたまま跪き叩頭して待った。覚師とナディンの三人で盗み食いした女神に捧げる菓子のことを思い出した。
    それはすでに夢の中でのことだったろうか。水の撥ねる音が聞こえたのだ。俺の持つ水瓶の水が強い風を受けているように揺れ出していた。女神が顕現されていると感じ、俺は身を固くした。やがて水音が遠ざかるにつれ、瓶は軽くなっていった。腕から少しずつ重みが消えていく感触を俺は忘れることができない。蒸散しているのは瓶の水ではなく、俺自身の魂のような気がした。夢かそれとも本当に起こったことかという区別の仕方が俺には承服しがたい。夢もまたこの身に現れていることだ。