ウル ナナム

  • 18

    夜が明けて間もないのに、南北の城門を出入りする人々の賑わいが風のまにまに聞こえてくる。ボルシッパはナブー神を拝体する独立城市であるとともに、戦略的には否応なくバビロンの出城だ。キッギアの荘園は強靭なボルシッパの大盾であり、城市の心臓を覆う鋼の板だといえる。一方、プラトゥム河を隔てたこちら岸に防衛の備えが何一つないのは妙なことだ。
    俺は立ち上がり朝靄のはれた城市を見わたした。どんなに澄みわたった日であっても、この丘からキッギアの荘園に聳え立つ見張塔まで見晴るかすのは無理だ。そのさらに先の街道で俺は戦車を操ったのだ。今にして思えば、走った距離はほんのわずかだった。それでも、戦車を降りようとした俺は手綱を握る指をキッギアにほぐしてもらわなければならなかった。手強い敵だったとは思えないが、自分と三つの命がすべて俺の手綱にかかっているという恐怖は血のなかを走り回っていたにちがいない。この俺に命を預けきったキッギアの豪胆さには呆れるばかりだ。
    「断崖から身を乗り出してみるのは悪いことではない。傍らで見ているこちらとしては、こやつの落とす礫の音に心胆を冷やしているがな」
    駆り立てられるように、何ごとにつけてもわが身を無造作に扱うアシュに言ったキッギアの言葉は、戦場での俺に当てはまる。
    俺たちが掃討した一の槍たる偽の商隊は訝る様子も見せずに進路の変更を承知し、わが方の先導隊に従ってきた。奴らは正体が発覚したのに気づき二の槍を生かすために敢えてキッギアの罠に踏み入ってきたのか、あるいは当初から囮部隊だったのかは明らかにされずに終わった。二の槍は数人の者たちが別々に街道を移動し、城門前で七十人の商隊をつくり上げ、父の名を騙りハシース・シンに目通りを願った。黒い男まで員数に加え、怪しまれぬくらい達者にバビロニア語を話す者を配し、恐らくは父に外見の似た者が中にいた。精強な百卒隊ではなかったが、一人ひとりは手練れであったろう。アッシリア軍の戦いは都市を囲み、攻め急がず、凄まじい恐怖で締め上げて気長に相手が疲弊自壊するのを待つのが常だ。一方、城市内に人を送り込み、あの手この手で篭絡し寝返りを促したりもする。奴らは実に抜け目なかったが、父の商隊になりすます手の込んだ作戦には見落としがあった。父の隊は到着の日に城市に入ることはしないし、まして日没後の閉じられた城門を叩くことなどあり得ない。父ビルドゥの名によってハシ-ス・シンを訪なえば、いつでも歓迎の門が開かれるとでも聞かされてきたのかもしれない。取り次ぎを受けたハシース・シンは異変を察知し、素早く密かにボルシッパ兵に偽の商隊を三重に包囲させた。弱兵はしばしば止め処なく狂いたつという。あの晩のボルシッパの守備隊もそうだったのだ。数人は生きたまま捕らえたかったろうが、アッシリア兵は悉く切り刻まれた。
    父は北の門で水や食料の補給をしただけで城内には入らず、ナディンは一日遅れで商隊に追いついた。急遽編成された十二騎の警備隊の中にアシュがいた。
    「われらは二人とも父親には恵まれたな」キッギアとの訓練を終え、用水路で馬たちを洗っている俺にアシュは声をかけた。父親には、という言葉が気になったが他意はなかったのかもしれない。
    俺はグラと日の出を見た窪地から岩棚に上がった。丘の西に向かって歩く途中、はじめに目にしたときから気になった酒船を仔細に調べた。酒船はめったに見ることのない石でつくられている。戦利品でなければ、この石を購うためには莫大な銀が支払われただろう。俺が目にしたのはビブロス一の船主の邸宅とタシュメートゥー神像の据えられていた台座くらいだ。使われなくなって久しいことは確かだけれど、どれほど昔のものなのかは見当がつかない。刻まれた文字も絵もなかった。ここで葡萄の新酒を絞り捧げたのは、この地にナブー神を祀るようになるはるか前のことかもしれない。
    河の東側の運河は縦横にきめ細かく整えられ、麦も果樹も収量豊かだ。一方、この二つの丘の側では開鑿する根気を萎えさせるくらい土質が悪いのか、灌漑水路は行く先を喪った驢馬の歩みのようによろよろと伸びかけ途切れている。城市のある左岸に商いと人が偏るのに不思議はないけれど、右岸にあるのはニサバの丘の文書倉と七つの小さな荘園、そして城壁の築かれる前から住みついていたと噂される土器つくりの一団の工房くらいだ。アシュも右岸には来たことがないと言っていた。俺とて、西方はガゼルの群れや日の入りを眺めているだけで馬を走らせたこともなかったのだ。日々踏みしめている土地のことを俺は何一つ知らない。風はかすかに青い麦の匂いがする。いま俺が立っている丘の西の突端も河を見下ろす東と同じように幅は狭い。俺は東の方を振り返った。
    丘全体が船だ、と俺は思わず声に出していた。丘の中央の酒船のあたりには帆柱に擬した樹があったにちがいない。この丘はかつて人の手によって石、土、煉瓦を積み上げ時をかけて築き上げられたものだ。打ち捨てられてからの長い年月で、自然の丘と見紛うことになった。俺は走って、もう一度東の岩棚まで戻り、船の舳先が向かう先を辿った。緩やかに蛇行するプラトゥム河の両岸には棗椰子、その先に無花果、石榴の果樹園、南の門に導く街道を越えてキッギアの荘園に至る。この丘を造営したのは見張塔をつくった人々と同じ民だろうか。測量術と築城術の技は近隣の国々でも並ぶ者がない高さを誇っていたはずの人々。それでも滅びたのだ。書板を読んでいた覚師は古の住人の末を掴んでいるかもしれない。
    グラに話してやろうと思い、俺は丘を駆け下りた。丘の隘路に入ってすぐ、高揚していた気持が醒めた。俺には予感というものが一切働かないようだ。
    距離はあったが、肩を歪ませる立ち姿ですぐに正体がわかった。ナディンに追い払われて以来はじめて目にするハムリの後ろには男が三人いた。俺は歩みを緩めなかった。
    「こんな場所にグラを呼び出しやがって、手前、二度とこんな真似をするんじゃねえ。あいつはもうすぐ嫁に行く身だからな」
    俺は覚師の言を思い出した。赤目の痩せ牛と脅しを生業とする三匹の猪は口許に嘲りを浮かべた。俺は黙ってハムリを見返した。ゆっくりと息を吐き、闘気を隠さなかった。
    「死に損ないの戦車引きの処でこそこそ何をやらかしているんだか。手前のことだ、あいつの娘と乳繰りあうつもりだったかもしれんが無理だろうよ。じゃじゃ馬だそうじゃないか。立派な持ち物をぶら下げたこの三人がかりでようやく満足ってところだ。図星をつかれてだんまりか。いいか、そっちがものにならなかったからといって、グラに手を出すんじゃない。嫁ぎ先はバビロンの鍛冶職だ。俺と同じ次男様だがよ」
    三匹の猪は鍛冶の大槌を担いでいる。男たちは三つ子のようだった。リスムの野では三頭目をしくじったが、同じ失敗はしない。四人がこんな風に肩寄せ合っていては大槌を振り回せないのだ。俺は腰を矯め右に肩をひねったあと、左の猪男の脇を駆け抜け、一気に脚を速めた。長衣が膝に擦れて走りにくかったが、キッギアのつくってくれたサンダルは俺にはまたとない武器だ。
    「自分の片脚のためにあれこれ工夫したからな」と言って、二揃い用意してくれたのだ。
    ハムリたちの反応は鈍かった。言葉にならない罵声が届いたとき、俺は二つの丘に挟まれた道を曲がりきっていた。