商隊が通る街道から北東に入り込んだ小丘の稜線に沿って兵が展開していた。たぶん四十人より多いだろう。俺たちは下馬し、馬溜りになっている窪みに入り、馬の汗を拭った。キッギア率いる部隊の馬はすべて額に同じ護符を付けている。ナポボラッサル王を救った馬、ムシュの額にあったものだ。
乾した羊肉と五粒ほどのアーモンドと蜂蜜水の夜食を取っていると、食べ終えたらついてくるようにキッギアが声をかけてきた。初めての戦に臨もうとしているのだな、と俺は思った。初陣は俺だけだろう。戦を前にして蜂蜜水を飲めるのは嬉しかった。用水路の泥浚いの中休みに配られたものが喉を通ったとき、こわばった四肢がゆっくりとほぐれていき、すぐにも道具を手にして働き出せる気分になったのだ。
キッギアの歩みは玄武岩から切り出された戦士像が動いているようだった。秣を食っている馬たちの傍を通るとき、キッギアが言った。「メディアのサーム将軍が言ったそうだ。バビロニアの馬は良い。騎兵も悪くはない。しかし飼葉は最悪だ、と」
麦も葡萄も土によって味は大きく異なるのだから、草にも当てはまるだろうと俺は思い、頷いた。
「ディリム、お前の父の商隊はいつも何人くらいで編成されている」
「七十人前後です。馬、驢馬、駱駝、荷車の数は行く先によってかなり違いがあります」
「やがてこの地に追い込まれてくるアッシリア兵は七十人ほどだそうだ。ボルシッパの盾たる荘園の内実を探るためかと考えていたが、お前の父ビルドゥの一行になりすまそうとしたところを見ると、あわゆくばハシース・シンを葬ってやろうと途方も無い企みを練った者がいるかもしれん。心配するな。ビルドゥの隊に代わったということではない。お前の父の商隊はいざとなれば、バビロニア屈指の遊撃隊だそうだからな」
覚師とナディンが話していた通り、あらゆる場所で暗闘がなされているのだ。
「一兵たりとも生かして戻しはしない。夜に紛れて逃がすようなこともさせない」キッギアの声は仮借ない神の刃のようだ。
百卒隊の一つか、と俺は思った。だとすると、あと三十人はどこにいるのだ。荷車の中か、あるいは一人ひとりですでにボルシッパに入ろうとしているのか。こめかみが熱くなり、俺はキッギアの目を覗き込みながら、せわしく訴えた。
「キッギア様、覚師からアッシリア最強の兵は百卒隊を軸とする歩兵軍団だと聞きました。必ず百人が一塊だと」
キッギアは立ちどまり、遠くを見据える目をした。頬を包む巻き鬚が薄闇のなかで石鑿に削り出されたように固く尖っている。
「シャギル」とキッギアが呼んだ。揺れていた水が静まって姿が映るように、一人の男がキッギアの傍らに立った。そしてキッギアの耳打ちに砂音もたてずに見えなくなった。
「武器を潜め正体を隠しての動きは百卒隊に相応しいとは思えん。しかし、我らの探索に洩れはあるだろうし、意想外の砂嵐は戦には付き物だ。百卒隊だとしたら、卒長はどちらで指揮を執ると思うか」
訓練の最中にも、しばしば、このようにどう思うかと尋ねられた。
「待っているほうです。合流を阻まれることは作戦の外でしょう」
「双方が読み違いを抱えて事が動きはじめているかもしれん」
まだ明るさの残る空を鳥の長い列がよぎって行く。鳥の群れは夕暮れのほうが美しいなと、俺は思った。馬の匂いがした。タマリスクの小さな茂みの奥にすでに馬を繋いだ戦車が居並んでいた。戦車は十二台あった。暮れかけた中でも十一台に乗る二十二名全員の顔がわかった。調練で俺とアシュはこの者たちから数え切れないほどの矢を射掛けられ、二人とも鏃のない木の先に塗られた赤い染料で上半身が斑に染まった。実戦であれば、日々射落とされたということなのだ。
「ディリム、私の御者をつとめよ。籠手と兜を付けたらすぐに出立だ」
騎馬でついて行くのだと考えていて、キッギアの御者として参戦するなど思いもよらぬことだった。しかし、躊躇は無用だ。あろうことか、アッシリアは父たちに成りすまそうとしたのだ。姑息な思い付きを後悔させてやらねばならない。頭と首、そして横腹を革鎧で覆われた馬たちは逸ることなく、緩やかな斜面を下った。俺は五両目に位置するように言われた。アシュとの調練で二度、キッギアとは一度だけ、夜の中を戦車で走ったが、荘園一帯の野はどこも走りやすく手綱が乱れることはなかった。今も前の戦車について行くので目を凝らすこともない。大氾濫のあったときでも、この一帯まで水が寄せることはなかっただろうが、水脈は走っているにちがいない。月は上弦の四日目だ。点々と黒い木の影が見わたせた。瀝青が匂う。風はないけれど、少し鼻のきく者であれば遠くからでも待ち伏せに気づくはずだ。目印なのか、街道沿いの石積みの上に牛の頭蓋骨があった。俺たちは街道を跨いで真横に戦車で堰をつくった。横一線ではなく、三段に構え、俺は中段の左側に廻るように言われた。アッシリア兵を追い込むと言ったが、ボルシッパ城市に向おうとする隊をこんな方にまで抵抗なく迂回させることができるだろうか。「それでは、簡単すぎます」とナディンは言ったのだ。この季節、音はよく届く。蹄の音が聞こえはじめた。鞭を振って全速力で逃げてくるのではなく、並足のものだ。俺が馬音に気づく前に街道の両側に徒歩の兵が伏せられていた。
「お前の初陣は夜戦、そして火を使う。その時がきたら、しっかりと馬を宥めよ」
キッギアの声は低く穏やかだった。血の騒ぎはなく、ゆっくりと近づいてくるアッシリアの商隊の動きが秤の目盛を積むように全身で感じられた。声の届く距離に近づいても人語が聞こえてこない。荷車はほとんど空だろう。たとえ疲れきっていても、声一つ発しない商隊などない。すでに瀝青の匂いに気づけぬ遠さではないが、隊列は一列のままだ。闇は双方にとって等しい濃さだ。これは不意打ちにはならないだろうと俺は思った。
キッギアが右手を挙げ、傍らで指笛が鳴り、炎が吹き、嘶きが乱れた。キッギアの戦車隊の馬は静かだ。俺も手綱に力をこめることもしなかった。街道沿いの立ち木がことごとく炎を上げている。夜の中で矢音を聞くのは嫌なものだ。今放たれているほとんどの矢が味方からだとわかっていても恐怖を掻きたてられる。短く発せられるアッシリア語にうろたえている響きはなかった。犠牲は小さくないだろうが、アッシリア兵は効果的に矢を防いでいるように見えた。ひときわ丈高い男が目に入った。ここまで似させようとしたのかと俺は目を見張り、キッギアに言った。「あの黒い男の放つ槍はここまで届きます。間をおかずに二本打ってくるはずです」父の隊に随っている黒い男の投げ槍を二度目にしたことがある。二度とも二の槍は使わずに獲物を仕留めた。下馬したのか、黒い男の姿は見えなくなっていた。ここにいるのが相対する敵の指揮官だといずれ気づくだろう。隙をみせてはならない。
ウル ナナム
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