ウル ナナム

  • 15

    首を立てよと言われたナディンは菓子を手にしたまま、野外法廷に引き出されたみたいに首を垂れた。ハシース・シンは立ち上がり、ナディンの肩に両手を置いて言った。
    「お前のここでの学びは昴が沈む日までとせよ。麦の種蒔きが始まる頃、ディリムの父の商隊がボルシッパを通る。ナディン、お前はその中に入るのだ」
    ナディンは目を上げすぐに口に手を当てて嘔吐を堪えた。こいつは少しでも気が昂ぶると喉がひり付いて吐気を催す質なのだ。今は無理もないことだ。覚師の言は目の前で前触れなく石が割れたように俺たちをたじろがせる。俺も混乱した思いで覚師を見上げた。
    「塞ぎこむな、ナディン。ディリムの父ビルドゥが待っているのは帳簿係でも日録づくりでもない。目指す先はメディアの地エクバターナとリュディアの城市、そしてカルケミッシュだ。これを聞けば、どんな旅なのかお前にもわかるだろう」
    父がアラフシャムヌの月にこの地に来ることを俺は知らなかった。ハシース・シンの学び舎に来てから父と便りのやり取りをしていないが、覚師も父も通信については抜け目のない手配りをしているのだろう。父は商いの荷を運んでいるだけではないということだ。俺はナディンが羨ましかった。カルケミッシュという古戦場の名は、戦車を御したいと考えた俺にとって格別な響きをもっている。ファラオの国の年代記の書き手は王の光輝のみを飾り立てているので戦の起伏は読み取れないが、かの大会戦がファラオの一方的な高笑いで終わったということはなかろう。二大国の戦車隊が凄まじく駆け違った平原に俺は立ってみたい。土地にも人の頭のような場所があるはずだ。その場所は起こったことすべてを呑みこみ記憶する無尽蔵の溶鉱炉だ。投げこまれたものは姿かたちを変えていくが消え去ったわけではない。古戦場やジグラットの建つ聖別された地は記憶の神が標石を置いた囲い地なのだ。地空に書き遺されたことどもが、いつでも思い起こされ呼び出されるのを待っている。カルケミッシュの段丘の一角に立てば俺は聴くだろう。秤が胸苦しく均衡して、両国の命運がどちらにも傾きうるはずだった時の軋みを。
    「わが国も早晩アッシリアと決着をつけなければならない」と言いながら覚師が右手を強く振ったので長衣の袖が鳥の羽ばたきのように鳴った。「奴らの進軍は遠雷のようだ。姿が遠望できる前から気づかされる。密集部隊の威力が途方もなく凄まじいのは兵たちが雄たけび一つ上げずに地を踏みたててくるからだ。アッシリアの厳格な軍律の一つは、百卒長を喪った部隊が全員死罪ということだ。この百人の部隊はどれも禍々しい旋風に乗った神の手兵のようだ。アッシリア歩兵中核の一万六千人の部隊は百六十人の卒長が率いている。百六十ある百人の部隊を一つにくるんでしまえばよいのだ。一万六千の塊りにしてしまうということだ。一塊となった百人隊の力は半減するだろうと値踏みしている。つまり対等だ。アッシリア歩兵の強さは並外れているが、戦車兵はわがバビロニアが勝っている。そして此度のメディア騎兵、なによりも弓だ。アッシリアとてわれらの強みを殺ぐことに力を注いでくる。この時期にメディアとわれらが組んだのは大いに焦りにつながって、あれこれ姦計をめぐらそうとするだろう。敵の敵と結ぼうともしているに違いない。つまり、商隊が使う街道はいつにも増して危険に晒されているのだ。ディリムの父はナディンのために輿をしつらえてくれはしないぞ。天に昴が見えている間に馬に乗れるようにしておけ」
    「それでは簡単すぎるように私には思えます」とえずきの後の掠れ声でナディンが言った。しかし、さらに言葉を継いだ声は駿馬の嘶きのように力強く伸びやかだった。土塊の鋳型がこそげ落ちて、隠されていたナディンの顔が顕れたのだろうか。
    「決戦を前にして兵の恐怖を斥けるための将軍の訓示ならともかく、百の百六十倍の雷を一時にまとめて鳴らすことなどできません。見かけの陣形はこれまでと同じようにすべきです。バビロニアの最精鋭の部隊をアッシリアの歩兵部隊に向わせるのです。いずれにしても覚師のおっしゃる通りリュディアとアッシリアを結ばせてはなりませんが」
    何がいきなりナディンを変えたのだろう。奴自身は己が変わったとはまったく感じていないに違いない。呪が解けた者のようだ。学び舎の者たちもその日からナディンの変化に気づかされたが、以前のように揶揄しようとした輩はすぐに己を恥じることになった。ハシース・シン覚師は虚を突かれたふうもなくしばらく二人で武官同士のようなやり取りが続いたのだった。
    鳥の気配がした。見上げると、思いのほか高い空で二羽の鷹が上下している。駱駝の鳴き声が風に運ばれてくるのは、大きな商隊か兵団が動き始めているのだろう。ナディンの出発に俺は立ち会えなかったし、父とも会えずじまいになった。アシュとの調練が終りキッギアに引き継がれた訓導が二十日ほど過ぎたころだった。俺はキッギアに戦車ではなく、馬でついてくるように言われた。調練とういには、いささか風変わりな日々だったがキッギアの領地をアシュと動き回るうちに、この地が単に報償として下賜された荘園ではないことがわかった。キッギアは功ゆえに、そのゆかりの地ボルシッパの裏街道を擁する一帯を授けられたと味方も敵も考えていた。葡萄畑で馬小屋で水路管理で立ち働く男たちは明らかに兵、あるいは戦傷兵だった。真偽はともかく青い目の女が送り出した刺客もどきはもちろん、アッシリアが次々と放ってきた商人や芸人や牛追いに身をやつした偵察者は一茎の雑草のように毟り捨てられていた。アッシリアは業を煮やしたというより、不可解な秘密を嗅ぎ取ったのだろう。一人も帰還しない細作の謎を探ろうと、大胆な手を打ってきたのだ。
    キッギアに従ったのは俺と二十二人の男で、アシュの姿はなかった。傾きはじめていた陽が没しきるまでに三度馬を休め、二度目の休息地点で十九人の男が合流した。ここでキッギアと進発した男たちは胸甲を着け、矢筒を背負った。俺は矢ではなく、短い剣を胸甲の締め帯に差した。革袋の水が回され、乾し棗椰子が配られた。馬の鼻息だけが聞こえた。集まった兵の半分以上の顔には見覚えがあった。アシュに戦車の手ほどきを受け始めて二日目、車軸に油を塗っていたとき、用水路の泥浚いに手を貸して欲しいと言ってきたのが、いま俺に胸甲をもってきてくれた男だった。
    水路の底から泥を掬い上げるには腕も腰も屈強でなければはかが行かない。アシュが嗤った俺の貧弱な体を御者向きにこね直すためかとも考えたが確かに人手は足りないようだった。胸覆いと下帯だけの女たちも用水路の縁に立って泥砂の溜まった桶を受け取っていた。泥の掬い方にも勘所があるようで、慣れてくると重さが堪えなくなったけれど、中食のため水路から上がったときには膝が揺らめいた。キッギアの娘と一緒だからなのか、俺の非力や無様な腰つきを嘲弄する態度は誰もみせなかった。その晩は寝返りも打てないほど全身が強張り痛み、翌日には手の豆が潰れた。作業は三日間続いた。アシュも何も言わず同じ場所で立ち働いた。三日間とも、差し掛け小屋で中食と夜食を作業に出てきた者全員でとった。顔ぶれは毎日変わったが、溝浚いの季節を外れているのに五十人を超える男女が用水路に集まった。俺より年下の華奢の体つきの少年もいた。皆の無駄口のない切り詰められた動きのせいか、戦に備えているようだった。水路はいつも砂との終りのない戦の場だともいえる。