ナディンは袖をたくし上げ屈託なく菓子を二つ取り一つを俺に手渡した。そして一口齧りとるや、「覚師、竃の者たちに分けてきてもよろしいですか。これはあいつらに食べてもらわなければ」と言って立ち上がり、三種類を一つずつ手に小走りで厨房に入っていった。
齧ってみると、香も甘みもボルシッパで似たものはないのに初めて口にする味ではなかった。幼い頃食べたことがあるのだろうか。舌先に微かに残る甘みを追っていると、今は忘れている時の石甕の蓋に手がかかりそうな気がした。
「どうした、ディリム」薄明の記憶をまさぐる俺を覚師の声が呼び戻した。
「捧げ物と言われましたが、ナブ神へのものですか」
「これは奥方様のタシュメートゥー神のためにつくられた菓子だ。われらが頂戴しても大目に見てくださるだろうよ」
「畏れ多いことですが、わたしは初めて食べたとは思えないのです。異国の風味のようなのに遠い昔に味わっている気がして」
「であれば、これはお前の母の味かもしれんぞ。ディリムは母の記憶がないのだったな。ナブに慈しまれている身のお前であれば、母がタシュメートゥーであっても不思議ではなかろう」
女神の戯言には苦笑で応えるほかないが、母の味という言葉には耳が立った。思い出はどこまで辿れるものなのだろう。人や物の姿かたちがはっきりと目に浮ぶ一番遠い日、そこに母の姿はない。口中が覚えている味はその日よりさらに古いだろう。夢には父や母や祖父母ばかりでなく、何代も遡る誰かが見たり出会ったりしたことが立ち現れるという。舌の味わいにも糸車いっぱいの長く連なる糸があるのかもしれない。俺の母の味ではなく、二百五十代前の母がタシュメートゥー神で、その母の舌の記憶が今顕現したとこっそり考えるのは愉快なことではある。それを不敬と謗る者はいないだろう。確かに俺には母の記憶がない。母の記憶がないということは、母がいないのと同じだ。俺は母の本当の名さえ知らないのだ。
「ナナヤのごとく美しく賢いお方だったと聞いております」と俺に話したのは誰だったろうか。ナナヤとはタシュメートゥーの異名ではないか。
「お前は明日、そのタシュメートゥー神像の拝殿で夢見の勤行を行なうことになっている。私はお前とは別にナブ神像の拝殿に入る」と覚師が告げた。
「夢見の勤行とは初めて耳にしますが、私のような何一つ持たぬ者が拝殿に昇ることが許されるのでしょうか」覚師に随き従えばよいと考えていた俺はうろたえてしまった。槍の前に晒されるのは恐ろしいが、まだ見ぬ神像の前に一人跪拝する自分を思い描くのはさらに身が縮む。
「夢見る力は官職の名に備わっているわけではない」すべての気がかりを捨てよというふうに覚師は断じた。
「このためだったのですか。毎夜見る夢は必ず記しておくことを習いとせよと言われたのは」
「夢を零さぬよう文字に写すことは己が目と手のなせる業。続ける気力さえあれば夢が消え去る前に必ず馳せつけることができるようになる。しかし見えない夢を漁どるのは佳き耳を持つ者のみがなしうることだ」白い光が漲る真昼の部屋の中で、ハシース・シンの声は夕暮れの蜂蜜色の光のように穏やかに俺を浸した。
「見えない夢を漁どる」俺には覚師の言わんとすることがわからず繰り返した。そして佳き耳とは何だろう。それは未熟な俺とは程遠い霊妙な力、光輝ある知恵のみなもとのような言葉に思える。
「私が見ることになる、いえ、漁どらねばならない夢はタシュメートゥー神からの託宣なのでしょうか」
「お前は夢を記した粘土板を封に入れ奉献する。神のみがそれを読む。思い違いをするではないぞ、ディリム。これは以前から決めていたことでリスムの野での出来事とは関わりない」
「もう一つ訊いてよろしいでしょうか」と問いかけた俺に頷き覚師は目を上げた。
「喰ってみたか、ディリム」初めの興奮を引いたままの口調で厨房から戻ったナディンが訊いたため、俺の言葉は押し戻されてしまった。ナディンは覚師に向かい索敵の伝令のように報告した。「竃の者と市に出る者ら五人ほどがおりましたが、皆首を傾げてしまい、同じものはつくれないと申しました。麦粉からして手に入れるのは難しかろうと」
この学び舎で配られる料理は修業の身には贅沢すぎるように俺には思える。竃場の料理人たちは腕のある者たちが集められていて、食材にも惜しみなく銀を使う。ハシース・シンの決め事には違いないが、覚師の思惑が奈辺にあるのか俺にはわからない。
俺たちの餉は俺が父との旅で泊まった豪商の館で主人が自信ありげにすすめてくれる皿に伍するほどのものだ。旅にあれば、臭い干魚や金気塩気の強い水、砂まじりのパンで幾日も過ごす。だから何よりの望みは飾り立てられた皿ではなく、真水と口当たりのよいパンなのだ。しかし辛い旅を終えて入る都市では商いを差配する商人からの貢物だと云わんばかりの厚遇が待っている。商魂と下心で味付けされた皿はいずれも豪奢を極めていた。父は長たる自分と同じものを商隊の全員に供するよう必ず申し出ていたので、一番のろまな驢馬ほどの役にも立たない小僧の俺も酒以外はすべて口にすることができた。商隊が巡る様々な土地の贅をつくした料理はそれぞれの都市神に捧げられたものに近いだろう。敬虔な心映えと眼差しが菓子の形になったようなタシュメートゥー神への捧げ物を俺はそうした旅のどこかで口に入れたのかもしれない。
「捧げ物がわれら僕の日々の糧とおなじというわけにはいかぬからな。とはいえ、ディリムは昔食したことがあるようだ」と覚師は掌に菓子の一つをのせて言った。
「さもありなんと私は思います、覚師。こいつが知恵の実をとうの昔に口にしていたとしてもさして驚きませんよ。こいつの才は尋常ではないのですから」
「俺と違ってナディンは知恵の実なしで見事に立っていたわけだ。菓子を口に入れたお前はこれからタシュメートゥーの力に与って、誰にも増して高みに昇れるではないか」俺は献じる姿勢でナディンに菓子の一つを差し出した。
「その通りだ。わしの頭の四半分は掠め喰った捧げ物に育てられている」覚師は俺たちが投げあう軽口に付き合った後、真顔になった。「ディリム、尋ね事があったようだが、勤行に際して改めての心構えなど無用だ。浄めの仕来たりは言われるままに従っておればよい。お前は塔の高みにただ一つ置かれる竪琴のようなものだ。風が吹き来たってお前を鳴らすだろう。すべての弦が揺れる烈風なのか、微風がそよいで虫の羽音と紛う囁きが生まれるのか、耳にするのはお前だけだ」
知りたかったのは俺自身の振舞いのことではなかったけれど、今思い煩っても導かれる先を選び直すことはできないのだ。高みに置かれる竪琴の如くと聞いて、俺の目に浮んだのは塔ではなくキッギアの井戸の傍らに立つ樹だった。竪琴でもなく、弾き手でもなく、また風にもなりえない俺は梢の鳴る音を聴いているのだろうか。
隣に坐るナディンは俺が献げ渡した菓子を掌にのせたまま目を伏せている。友に秘さねばならないことではないが、自分の役目を弁えていない俺には説明のしようがない。
「ディリムはタシュメートゥー神殿での勤行を拝命したのだ。顔に痣などこしらえてはいささか芳しくなかったろうから、今一度お前には感謝せねばならん」と覚師がナディンに言った。「とにかくさっき追い払ったような手合いの為すことは行き当たりの思いつきゆえ、往々にして途方もない災厄を連れてくる」
災厄という重い言葉に俺たちは黙って頷いた。
ウル ナナム
-
13