ほとんど外出しないナディンは昨日もボルシッパ兵の訓練見物に同行しなかった。ナディンの父はバビロン王宮の錫杖護持官だから、庶子とはいえナディンは高官の家系ということになる。義母はよくあることだが、何故か実父からも疎んじられたらしい。同じ庶子腹の弟は可愛がられているそうだから、継子いじめも偏っている。どのような経緯で学び舎に来たのかは知らないがナディンは優れた書記生だ。何よりも葦筆の刻みの美しさは群を抜いている。俺は早く書けるが、時をかけたとしてもナディンの文字には遠く及ばない。記憶する能力も高く、星の文字を入れた暗唱のときも、おそらくナディンはもう一人として残ることができたはずだ。目立つことを怖れるナディンはわざと躓いたのだ。
賄いの間で待つように言われたナディンと俺は粘土を突き固めただけの腰掛に並んで坐った。部屋はヒラマメを煮込む匂いがして熱がこもっている。
「ディリム、どこにも怪我は無いのだな。今のことではなく昨日の話だが」友の思いが皮膚を伝わって染み入るように感じられた。瀝青の桶に漬け込まれたようなおぞましさを味わった俺は、この身を穏やかに浸してくれる水と光、眼差しと言葉、熱と鼓動を隈なく取り込もうとしているのだろう。俺はナディンの肩を抱きあらためて頭を下げた。こいつは屋上に投げ落とす物がなくなっていたら、わが身を放り出して俺を救おうとしただろう。
「猪の群れに飛び込んだと話していたからな。昨夜戻ってこなかったので気がきではなかったぞ。朝の寝息が随分静かで、却ってびっくりしたよ」
「高いびきに呆れたろうな」
「俺は見た通りだがディリムも戦に臨む体つきには見えないからな」
「これで死んでしまうのだと感じた時の恐ろしさは忘れられん。今でも震えそうだよ。戦場は槍や戦斧や矢が絶えず絶えずこの身を倒そうと向かってくる。知りもせずに弱兵などと詰るのはまちがっていた。一度戦場に出れば肝が据わるというが、一度目のその日が最期になってしまうかもしれないのだ。だがな、自分でも腑に落ちないけれど、俺は二輪戦車の御し方を学ぶことにした」
「なんだと、お前、ここの、ハシース・シン様からの学びは止めてしまうのか」
ナディンの咎める声は喉いっぱいに嗚咽がせり上がっているようだ。
「もちろん続ける。覚師にも言われたが、どちらかがおろそかになるようだったら俺は追放だ。ところで、今日はやけに静かだな、昼餉の時刻ではないか」
あまりにも静かで、壁で揺れる光の音さえ聞こえそうだ。賄いの間と大小三つの学び部屋、そして文書庫をつなぐ歩廊は、南面する外壁の切り窓から注ぐ陽光で、昼時は眩しいくらいだ。賄いの間に入ってくる外の光はこの歩廊側の壁にある拳が通るくらいの七つの小穴と出入り口からだけだ。部屋は四囲天井に到るまで漆喰を塗りこめてあるので、取り入れる光は僅かでも昼の間はいつも明るい。
「お前は告発されると噂されていたのだ。すでに捕縛されたとか、その場で手を切り落とされたとか、まあ、あれこれだ。ハシース・シン様といっしょに戻ってきたから追われているのではないと分かって、今はいささか遠巻きに見守るというところさ」
目の前で俺の仕出かしたことを見ていれば当然そうなるだろう。だが、俺が武器を使って暴れたことをハムリたちがこうも早く知ったのは合点がいかない。兵の大半は何が起こったのか気づかなかったはずなのに、噂の方は洪水のように瞬く間に町の人の耳に流れ込んだのだろうか。
床を擦るような足取りで覚師が部屋に戻ってきた。袖と裾に紺と金の縫い取りの入った白い長衣に着替えている。
「ナディン、残念だがスイカはもう残っていなかった。代わりにこの菓子だ、旨いぞ。なにしろ捧げ物だからな。わしのように姿を消せる者だけが盗んでこられる」
覚師が俺たちの前に置いた銀の平皿には三種類の焼き菓子が盛られている。神殿への捧げ物を掠め取ることくらい覚師ならやってのけるかもしれない。覚師こそいくつもの噂に包まれ真の姿が見えないお人だ。ハシース・シンが王宮の奥まで出入りできるのは王族に連なる家系ゆえだとか、七賢人すべての資質を体現した比類なき才が異国にまで知れ渡っているとも云われている。一方、俺たちの前で干魚を咥えて逃げる猫の真似を下帯一つになってして見せたこともある。その後、黒い頭の人間以外のものになりきってみよと俺たちに命じたのだ。皆は蛇、驢馬、兎、ハゲタカなどになってみせようたした。一目でわ
かる動きをつくった達者な奴もいれば、演じたというものを明かされても、結びつく型が見当たらない者も何人かいた。自分の織りなす動きがどのように見えているのかを他人の目になって眺めるのは難しい。俺が試みたのは葦筆だった。両脚を揃え身を少し傾けて尖った動きをつくる。初めの一筆から全身が軋むほど辛かったので、俺は皆にわかってもらえるのを諦めたままわが身で文字をなぞった。
「ナブ神は偉大なり」とすぐに言い当てた者が二人いたのには、俺のほうが「わかったのか」と問い直してしまった。後になって、仲間の文字を刻む筆の動きだけを見てみたが、書かれる文字を見極めるのはほとんど無理なのがわかった。だから、俺の体の動きそのものから文字が読み取れたのではなく、書こうと焦る俺の烈しい気が音のない声の波となって周りに伝わったように思えた。
ナディンは炎を選んだ。生き物以外のものになろうとしたのは俺たち二人だけだったのだ。ナディンが半身を折りたたむようにしてしゃがみ込んだ時、仲間の大半はナディンが「俺は何もできない」と文字通り膝を屈したのだと考えた。俺もそのように感じた。ナディンは片目を開けた。目の色は熾火のように赤かった。いや、熾火そのものだったのだ。
やがて熾火は風を受け、次第に熱を帯び勢いを増して強く立ち上がった。炎は揺らめき踊り、怒りとも歓びともつかぬ業火となって、不意に消えた。ナディンの裡には、きっとあいつ自身にも掴まえきれない火種があるのだ。ひとときの憑かれたような日から数日ナディンは部屋から出てこなかった。
ウル ナナム
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