ウル ナナム

  • 11

    キッギアの井戸からほぼ八千歩を歩き、俺と覚師は夜明けの開門を待っていた人々についてボルシッパ城内に入り教場へ向かった。父との旅では、いくつもの王朝が基石を積み上げては破壊されることを繰り返してきた城市から砂防壁程度の日干し煉瓦で囲われた小都市まで出入りしてきたが、このように早朝に入って行くことは一度もなかった。野営にせよ知り合いの住居にせよ、父の商隊は必ず城市に程近い場所で一夜を過ごしてから、朝の曙光の影が半分になる頃に市内に入ったからだ。
    空堀にかかる短い橋を過ぎると弓兵と盾持ちの兵舎の近くを通るので気後れしたが、覚師の背を見れば苦笑しているのがわかる。今さら何を物怖じすることがあろうかということだろう。警邏兵たちの様子はいつもと変わらずどこかのんびりしたものだ。前日の訓練でこの兵舎から死傷者はでなかったのだろうか。
    早くも荷が動き始めていて、南の城門に近い扇形広場にはすでに日除け布を張る柱が何本も立てられていた。どこの都市の市でも朝が早いのは魚を扱う連中だ。俺はもちろん出された料理は何でも食うが、魚は無理をして口に入れる気分が抜けきれない。物心ついて以来、人にも動物にも怯えることがなかったという俺が、一つだけ目を見開いたまま震えたのは魚の被り物を付けた祈祷師を見たときだったそうだ。それは魚の匂いを好きになれないから自分で理由をつけているだけかもしれない。
    根を張って一歩も踏み出そうとしない驢馬に浴びせられる怒声もいつもながらだ。驢馬の目というのは本当に驢馬のものなのだろうか。背に食入る荷駄の重み鞭の痛みに絶え間ない罵声。少なくとも驢馬の目と体はつながってはいないのだろう。その目は水の面に見えることもあるが、水は表情豊かだ。もちろん、人のこころだって目からは読み取れないのだ。アシュの目、驢馬の目、魚の目。
    城内の住まいから通ってくる者を除いて、学び舎で覚師の教えを受ける者の大半は教場と棟続きの建物で寝起きしている。俺はできるだけ文書倉を利用したいのでふだんはニサバの丘にいるが、教場にも寝場所をもらっていた。
    頭が醗酵の始まった麦酒のように泡だっていて、眠るのは無理だろうと思っていたが、目を閉じるや寝入ってしまい、起きだしてみると陽は中天だった。水場で顔と首を洗うと、まだ香油が匂った。
    騾馬繋ぎの杭の端に腰を下ろしていた男は俺が水場に出てきた時は二人だったが、今また二人増えている。その中の二人が不穏な体の揺すり方で近づいてきて顎をしゃくった。
    「お騒がせの直後に朝帰り昼までお休みとは、さすがにやることが外れているな。俺たちは朝から大汗かいて火花で目を焼かれてようやく昼にありつくところだ。お前さんは俺のことを覚えちゃいないだろうが俺は知っている」
    俺も覚えているが言わずにいた。グラより六つ年上の兄ハムリだ。グラたちの父エピヌーの鍛冶場のつくる農具の評判は高く他の都からの求めも多いときく。西門の近くにあるエピヌーの店は、鎌を使う農夫から大量買付けの商人までが集まっていつも活気に満ちている。鍛冶場は城壁から遠く離れていて、店では簡単な修理と研ぎを扱うだけだから、グラの兄が汗して鉄を叩いてきたというのは本当ではない。
    「お騒がせの書記生さんにお頼みがあってまかり越したわけだ」
    俺は黙ってグラの兄と後ろに控えている二人の男を見た。
    「あんたの武器をちょっくら貸してもらいたくてね」
    「いきなり何の話をしている。俺を知っているというが、貴様はどこから来たのだ」
    「俺はエピヌーの鍛冶場の者さ。お前の食い物の面倒をみているラズリの一族だ」
    「ニサバの丘と鍛冶場は関係ないと聞いているが」
    「まあいい。武器の話だ。わが国は火急のとき、それなのに強欲なアッシリア兵どもの腹を断ち割る武器がまったく足らんときている」
    「言いたいことがまったくわからないが、エピヌーの鍛冶場では武器の類をいっさい作ってはいないはずだ」
    「これまではな。このご時勢、優秀な鍛冶場は強靭な鋼を鍛えねばならんのだ。そこでお前の使った武器だ。よこせと言っているわけじゃない。鋼の質と鍛え方を調べたいのだ。国を守るためだぞ」
    後ろにいる二人の男の動きが気になった。明らかに表の人の出入りを見張っている。多くの住居が重なり建つ城壁内とはいえ、もともと往来の少ない一帯だ。
    「どんな噂を聞いたか知らないが、お前の名付けた通り俺は見習い書記生に過ぎん」
    「軍神気取りで転げまわった書記見習いの武勇伝を知らぬ者はおらん」
    無頼の口調だが凄むほどの度胸も体術もないことが見て取れた。今までそんなふうに人を値踏みすることはなかった。あの瞬間を味わったためだろう、真の危険ではないという自信があった。しかし相手を無傷で追い払うのは俺の力では難しい。騒ぎを大きくしたくなかった。二人が左右から回りこもうとし、通りから更に二人が足早に寄ってくる。正面のハムリが足を踏み出した時、上から灰色の塊が降ってきて双方の間で砕け撥ねた。落ちてきたのはスイカだった。
    「申しわけない」間のびした声は学び舎の仲間ナディンだ。
    一瞬たじろいだハムリたちだったが、スイカの欠片を蹴り除けて囲みの輪を縮めた。
    「何度も悪いね。今そちらに人をやりますからね」更に三個の石榴を降らせた主が大声で叫んだ。ナディンの太った体を抱きしめたくなった。つい愉快そうに笑ったのだろう、ハムリは逆上している。
    「外に人が倒れているぞ」今度はハシース・シンの声だった。覚師の前を歩かされている男は顔を引きつらせ声も出ないようだ。関節をはずされたのだろう、ハムリの胸元へ突き放された男の腕は捩れたままだ。捨てぜりふも舌打ちもなくハムリたちはよろめき出ていった。無様に退散する姿を見られたことでハムリはますます俺を憎むだろう。
    「見事な撃退ぶりだったぞ、ナディン。万一ボルシッパの城壁が包囲されることがあったらお主を守備隊長に推挙してもよいな」
    俺と同じで鬚のあまり濃くないナディンの上気した顔に向けて覚師がいち早く声をかけた。
    「本当にお前のおかげで助かったよ」
    「難しいな、スイカを投げるのは。ディリムに当たらなくてよかった」いつもの気弱な声だがナディンの顔は満足げだ。