ウル ナナム

  • 10

    「柔らかさは強さを補うだけで、代わりになるわけではない。いずれにしても私に判断できることじゃない。ディリムはどうして二輪戦車に乗りたくなったのだ」
    「どうしてか。アシュに手ほどきしているキッギア殿が目に浮んだ」
    「私は言われた言葉をそのまま聞く」
    「俺もアシュには考えたことをそのまま言っている。続きを言えば、戦場で御している自分の姿も見えたな」
    「戦場ね。だいたいお前は勝手に時間を使えるのか」
    「自由気ままではないが、覚師の学び舎では粘土板の家の学び手たちのように机を並べて毎日教えを乞うわけではないからな」
    朔と望の月をはさむ三日間は俺たち全員が必ず覚師のもとに集まることになっている。
    その間は食事も共にし、文字だけでなく数式や星の動きも学ぶのだ。異国の学者や大使が招聘されてくることもあるが、覚師が書記塾の初心者相手のように、一本の楔から説き始めることもある。
    こんなことがあった。六本の楔を引くだけの星という簡単な文字を十個刻むように言ったあと、覚師はその場の全員で星の語を唱えさせた。ナプ、ナプと俺たちはいささか苦笑を堪えながら唱和した。そのあと三十個の文字を使い、星の語を入れて文をつくらせ、順に一人ひとり読み上げさせた。その時、俺たちは三十四人だった。十回りした後、次には一人で全員の文を暗誦させる。言葉に詰まると書いた者が助けることを繰り返し、誤りがなくなってから全員が唱和し、最後に粘土板に刻ませられる。さらに六十個の文字を使って同じ試みが続いた。三十個では十六人だったのが、この時一語も躓かずに一度で暗唱しえたのは俺と一人の異国人だけだった。上の海で難破した船に乗っていた男だが、アッカドの言葉にふれてから一年足らずというから驚く。 「撒き餌だ」と言いながらアシュがまた盃の酒を炎に垂らした。香も飛ばず炎の色も変わらなかった。
    「アシュは弓も引くのか」
    「自己流だよ。的が小さいトガリネズミを狙うのだ。訓練には鳥がいいのだろうが、空を行くものを射る気にならない。ああ、撒き餌はいらなかったな」
    覚師とキッギアの二人が壁を抜けてきたようにいきなり姿を見せた。通り雨だったのか、身体が濡れているようではない。それとも先の住民は穴掘りに長じていて、見張塔からここまで潜ってこられるのだろうか。
    「しっかりと一番旨い酒を抱えているな。わしの死出に際してはこの酒精を額に一こすりしてもらいたものだ。土鬼や汚鬼どもに邪魔されずに眠りにつけるだろうからな」と言い、覚師は腰をおろした。二人とも飲み続けていたようには見えなかった。
    盃を二つ持って戻ってきたアシュに俺は目配せした。二人は遠い音に耳を傾けるように盃に唇を浸した。キッギアは当然だが、隣り合う覚師まで巌のような神聖樹のような獅子 のような武人の気配をもっているのに俺は気づいた。語られる言葉と声をいつも追っていた俺はハシース・シンに文字の師という衣を勝手に着せていたのかもしれない。最も勲を誇れる者が最も豊かに哀歌を詠うのだと覚師が言った時、俺は何も理解せずに頷いていたのだ。
    「父上、ディリムが二輪戦車を御してみたいと申しております」
    娘ではなく、副官のように恭しく頭を垂れてアシュが言った。
    キッギアは先ほどアシュが俺にしたように盃越しにアシュを見つめた。睨むのではないが、ずいぶん長い間、父は娘から目を離さず、娘もまた静かに顔をさらしていた。やがて無言のままキッギアは覚師を見やった。
    「こやつをメディアのサームの傍らに立つ者となせるのはあなたしかおらぬ」と言った覚師の声は穏やかだった。「ディリムはこれまで通り、月の学びは欠かさずに来なければならない。筆を持つことが叶わなくとも、掌に結び付けてでも刻み続けるのだ。なまくら文字を彫るようなことあれば、二度と手綱と筆を握ることは許さぬ」と、俺に厳しい言葉を投げた声も穏やかだった。
    「アシュ、お前が持てるものをすべてディリムに伝えてみよ。拙い者についた弟子は接木をしくじった果樹に等しい。取り次いだお前が自ら育て私に差し出すのだ。九十日、待とう」
    キッギアは俺を見つめながらアシュに命じ、目を移してハシース・シンに向けて鼻の前に盃を上げた。覚師は同じように盃礼し、いつも歩きながら俺に伝えているように言った。
    「丘の上の文書倉の二階、奥から四列目の棚にミタンニ王国の粘土板が置いてある。戦車用の馬の調教書だ。本来なら自分で読みたどるべきだが、脇に積んである私の覚書を使うとよい。お主と私は明後日から一昼夜エジダ神殿に入る。その四日後が望の月の集まりだな。十日後からアシュにつくがよい」
    「ディリム、百日後に会おう。お前が眠っている間、私はハシース・シンにディリムがどんな男か訊いてみたのだ。軍紀を乱しながら、同盟国将軍の心を掴む。それは本来、王にのみなしうることだからな。ハシース・シンの言によれば、お前は使者だそうだ。それは答でもなんでもなく、謎かけのようでもある。使者たるお前は何かを携えてくるのか、あるいはお前が来ること、それがすでに何かをもたらしているのか」
    俺が使者。使者は時には良き便りを時には混乱の先触れを運ぶ者だ。俺は何と応えてよいかわからず、「百日後に」とだけ言った。俺を取り次いだ後、一言も発していないアシュを見やると、俺に戦車の手ほどきをすることになって驚いている様子はない。生まれでようとするのか、消えようとしているのか、どちらともつかないが微笑の影が炎といっしょに揺れている。
    発せられた言葉と飲み込まれた言葉、俺が選んだ脚の運び。すべてがあらかじめ刻まれている言葉をなぞらえるように俺を引いて行く。俺の肉に入ろうとしていた矛の切っ先。サームの雷撃のような鞭。瞬きひとつの間に俺は冥府と現世を往来し、お互いボルシッパの地にありながら一度も会うことがなかった父娘の前に俺はいる。そこここに走る水路で水にありつくことなく、キッギアの井戸に俺を導いたのは何だったのだろう。
    耳の奥で俺の鼓動が聞こえる。その音に身をゆだねていると、三人の鼓動もまた感じられるようだった。今、誰もが無言なのだなと、俺は改めて思った。四角い火床で俺たち四人は空に嵌め込まれた四つの星のように星座をかたちづくっているのだ。