「アシュは夢の力を信じているのか」
「信じてはいない。恐ろしいだけだ。青い目の女が父の許にいたのは二日だけだ。父を見たその目で、その青い目で早くもウルクの取り巻きを見ていた。父の脚と顔の大きな傷跡に触れることもなく、二十一人の従者護衛とともに、さっさとウルクへ引き返してしまった。引き返すだけならよい。ウルクとボルシッパの遠い距離があの女を大胆にした。あの女の取り巻きは実に大勢だ。賛美者たちは奴隷と同じだ。違うな、奴隷は命令されたことだけを為すが、若い阿呆どもはお先走りばかりだ。青い目の女は口に出して頼んだわけではない。思いを隠さなかっただけだ。死と対峙したことのない者らがいかに死を弄ぼうと、泥の玉を投げるようなもの。片脚の男一人など、手もなく消してしまえると勝手に思い込む。安物の刺客どもは領地に入り込む前に指笛ひとつで潰された。遠からずそうした輩がうろつくのを知っていたとはいえ、父自らが弓を引くまでもないことだった」
武人の妻が戦傷の夫を疎ましく思い、それを面に出す。青い目がしんと鎮まる。これらのことどもをアシュはどのようにして知ったのか。父キッギアからであろうはずはない。欠けた書板をつなぎ合わせるように、剥がれ落ち隠され歪められた出来事の数々から思い描いたことなのだろうか。自分の言葉に急き立てられ憎しみを募らせているけれど、アシュは自分で狭い檻に入り込み、檻の狭さに自分を歪めているのだと俺は思った。
夢の中、青い空の下で俺には微塵も不安がなかった。熱を抑え、怖れを鎮め、疵を浄めたアシュの尖った胸。泥水から俺を引き上げたアシュの青い目。だから青い目の女を象る言葉の連なりは、アシュの口を借りて別人が語り出したのだと思いたかった。ぶつかり合う四つの青い目が空洞のように窪んで俺の足を掬い、俺はただもがくばかりだ。俺は救い手たちによって時を預けられた。
何も持たない俺は預けられた時を捧げることでしか礼を返せないのだろう。
アシュの身体は機敏に無駄なく動き、言葉は険しくても声は透き通って淀みがない。しかし女偉丈夫の雄々しい見かけの下に脆い土の貯水池があって、自ら生んだ言葉が沈殿して積もり積もってゆき、やがて決壊する。そんなことがあってはならない、させてはならない。本当のことであれ物狂いの果てであれ、内でも外でも一度生まれた言葉は消えない。呪は人を蝕むものだ。呪師たちの面貌はどいつも仮面が剥がれなくなったと見紛うほど尋常ではない。
俺は籠を引き寄せ、短い乾し葡萄の枝をさらに二つに折って火にくべた。火の勢いは変わらなかった。
「馬には乗れるか」アシュが酒の筒を抱えゆっくりと空の盃を満たしながら言った。
「馬にも駱駝にも乗るぞ。父の隊商に連れていかれたから長い距離も厭わない。軍馬はだめだ。俺はただまっすぐ進むだけだ」俺は新たな話に飛びつくように答えた。
「戦車も扱ったことはないのだな」
「そうか。アシュはあれを操れるのか。父上直伝ということだな」
「義足では踏ん張れないから戦場では役立たずだと自分では言うが、父の手綱捌きは今でも並ぶ者がいないだろう。しかし騎射となると、どうしても狂いが出るようだ」
細かな彫を入れたメディアの将軍の箙が不意に目に浮んだ。走り去る戦車の上でサームは小揺るぎもせずに立っていた。
「二頭立ての戦車を御するのは非力な腕ではまったく無理なのか」
敏感な馬のようにアシュが耳を立てた。
「腕力で御するわけではない」
火床の縁から剣を取り出すと焚火越しに俺に手渡し「鞘をはらって肩の高さでまっすぐ構えてみろ。坐ったままでいい。私に横顔を見せるように。いいと言うまで降ろすなよ」とアシュは言った。
「目の前に敵がいるつもりでやるのか」
「できもしないことを言うな。構えていればよい。話を続けたければそうしろ」
訓練というほどのことではないが、父と剣を打ち合ったことがある。十歳になる前だったろう。戦闘用の段平ではなく短刀に近いものだったが、両手で扱うのがやっとだった。腕力ではないと言いながら、アシュは俺の腕力を試しているのだろうか。かなりの時が経ったように感じられた。
「イシュタールのような女戦士になりたいのか、アシュは」構えを崩さず、前を見据えたまま俺は訊いた。
「女戦士が望ではない。イシュタールは男のように強い女神だ。私がなりたいのは男だ。それをよく覚えておいてくれ。お前のような華奢な体を見ると土人形のようにこね直したくなる。初めに見た時は宦官ではないかと思ったからな。鬚もないし」
静かな声音であしらうような口調、それがアシュだ。
「俺の父も鬚は濃くない」
「王子も確かディリムと同じくらいの歳で鬚がない。逞しさは岩と砂ほども違うな。ところで、お前はたぶん勘違いしている。私は母のせいで女が嫌なわけではない」
避けようもなく青い目の母のことに話が戻ってしまうと思ったとたん、アシュが命じた。
「ゆっくりと剣を下ろせ。そして直ぐに元の高さへ、それを三度繰り返せ」
俺は新兵のごとく意図のわからぬまま腕を動かした。
「終わりだ」という声に俺は向き直り、刃を鞘に入れてアシュに返した。
「お前はどう見ても非力な体つきだが、きっとけた違いに筋が柔らかいのだろうな。力のない者がこれを長く持ち上げていようとすると必ず肩に力が入りすぎて早々としこってしまうものなのだ。私には見極められないがディリムのちぐはぐなところに非凡なものが潜んでいるのかもしれない」
「それではアシュ、お父上に頼んでもらえるか。俺にも戦車の御し方を教えてくださるように」
アシュのこの微笑みはどこから生まれたのだろう。染み入る清々しさはここの井戸の水のようだと俺は思った。口許でも頬でも青い目からでもなく、全身からとでもいうべきか。目を落として炎を見つめるアシュの額に残光のように微笑が射している。
ウル ナナム
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