ウル ナナム

  • 7

    「それだけでは終わらなかったのだ」とアシュが溜息をつくように言った。「腐兵というのを知っているか」
    「いや、初めて聞く」
    「黄泉の扉の軍兵みたいな奴らだ。薬草でも使っているのだろう、痛みをまったく感じていなかったらしい。腕を落とされても表情も変えず向かってきたそうだ。すべての敵を倒し終えた王の軍はまとい付く蝿を払う気力さえ萎えていた。死者と一緒だと見られていたのか、間近で禿鷲どもが構わず大饗宴をはじめていたくらいだ。だから、そいつら三人が跳びかかってきた時、誰も気付かなかった。身を挺したのはこの時もムシュとギルの二頭。おかげで王は左腕の怪我で済んだ。父はそいつの右手首に切りつけたが、刃こぼれと血ぬめりで斬り落とせなかった。骨が砕けて剣が垂れ下がるのを見た父が王を振り返ると、二人の戦士が王を庇い、一人が傷口を縛っていた。
    キッギア、私の剣を使え、という王の声に従って剣を手にし、立ち上がりかけた父に、左手に剣を持ち替えた腐兵が襲いかかった。大きく薙いだ王の剣は腐兵の首を飛ばしていたが、首のない腐兵の剣が父の左足に突き立てられていた。右手首もろとも自分で引きちぎったのだろう、剣の柄には二つの手首があったそうだ。ムシュとギルに阻まれたほかの二人は、自分の剣が馬の腹から抜けなくなったところを切られた。それでも吹きだす血がなくなるまで、折れかかった枝が風に弄られているように体を捩じらせて戦おうとし続けたという。そいつらに敵味方の区別はつかないのだろう。だからこそ、自軍が全滅してから湧き出てきた。近くに操った奴がいるはずだった。探索はもちろん無理で、アッシリア軍は八百十七の屍を鳥獣に喰らわせることになったが、腐兵の秘術を知る奴が少なくとも一人生き延びたということだ」
    「手首や指を切り落としてみせる見世物があると聞いたが、そんな目眩ましとは違うわけだな。腐兵という呼び名があるのは、前にも現れていたということか」
    「これまで遭遇した兵団もいないし文書の記録もない。アッシリア軍でも初めてだったらしい。知っていたのはハシース・シン様の学び舎の者だぞ。異国人がいるだろう。その者の国の言葉で腐れた兵というらしい。どこを斬られても動じないで、まるで死体が立ち上がるような連中が戦場に現れたことがあったそうだ」
    異国人は学び舎に二人いる。一人は俺たちとはまったく違う顔つきで、眸が隠れるほど瞼が厚いせいで表情が見えない。もう一人は俺たちの頭蓋骨の二倍はありそうな鉢を持った男で数式の扱いが群を抜いていた。そいつはもうバビロンの神殿建設に登用されているはずだ。
    「腐兵遣いはアッシリア人ではないかもしれない」と俺は言った。「流れ者の妖術師のような奴で、請負が成り立ってから腐兵を仕立てる」
    「四年経っているけれど、いつかまた襲ってくると父は言っている」
    「俺もそう思う。腐兵遣いは何年かけても契約を果たそうとするに違いない」
    地平の彼方が光をおびて震えた。遠い稲妻に誘われたように風が吹き香油の匂いがした。体の痛みは痛みにばかり気持が傾いて体のことを忘れる。香りは体そのものを感じさせるものだなと俺は思った。それゆえにこそ、ひと時体にまとう香のために人は重い銀を購う。憤怒と悲しみが綯い交ぜになったアシュからも香りが立ち上る。しかしアシュはいま土埃と血の臭いだけを感じているだろう。
    「麝香草の匂いがしたそうだ。ずいぶん後になって父が思い出したように言ったよ。腐兵にはそぐわないけれど、あたりに充ちていた生臭い戦場の臭いより強く麝香草が匂っていたらしい。皮肉なことに、思い出させたのは母だ。ウルクから母がバビロンにやってきたのは戦闘から百九十三日目のことだった。父が母の姿を見とめる前に、母のまとっていた香が先に届いて腐兵のことを呼び戻してしまった。母もまた足を失った父の姿を初めて目にした。先に帰還した父の兵団の戦士たちはナボポラッサル王から授かった栄誉のことだけを伝えていたようだ。戦の勲を聞くのが大好きな私にはそれでよいが、母は名誉好きの気位の高い女にすぎない。その日の戦で、わが軍は二百七十一名を喪い、ほとんどの馬が戦死した。生還したのは六十九名、父は左足を落とすことになり、王の左腕も以来、肩までしか上げられない。それがどのようなことだったのか、あの人には思い描くことができない。威風あたりを払う凱旋将軍の傍らに立っていたいだけだ」
    自分の母への仮借ない言葉がつのっていきそうなので、俺は話を移した。
    「ボルシッパの兵は頼りないと言われるのだから、襲撃隊を殲滅させるほど勇猛だった王の一行にボルシッパの守備隊は同行していなかったわけだな」
    「援軍も間に合わなかった。というより、異変に気づきようがないのだ。物見という構えがないのだからな。ボルシッパは迅速には動けないし、動かないのをアッシリアは見越していたに決まっている。ボルシッパはあまりにもバビロンに近すぎるというのが父の見方だ。危うくなれば助けが来ると踏んでいて、その計算が染み付いている。数十年前に城壁を囲まれ、餓えに餓えて屈辱を味わったのに。いつまでも兎のように臆病で、兎のように殺戮を呆然と待ちうけ、兎のようにひたすら子作りに励む」
    「キッギア殿の娘とすれば当然とはいえ、なかなか手厳しいな。その日のことでボルシッパは王から断罪を受けなかったのか」
    「王が怒りをしめしたのはボルシッパの習い性となっている惰弱さにではない。王は言うそうだからな。初陣で失禁する兵士を嗤ってはならない。怖れぬ者など一人としてなく、恥じることではない。しかし二度目は許すな、そいつはただの臆病者だ。王は元々、戦傷兵や寡婦、遺児たちに手厚い。この襲撃戦に斃れた兵、奮戦し凌ぎ生き残った兵たちにもそうだった。父もこの一帯の農園を賜った。恩賞の手配をしている中で、ボルシッパの寡婦と遺児への給付品を差配する役人の不正がみつかった。王は役人と妻の首を刎ね、四人の子どもは悉く奴隷に落とし、住まいは破却させた。ボルシッパの不名誉はこの男を飼っていたことだと言われて、王自ら剣を揮ったそうだ。王が処刑人になるなどあり得ないことだ」
    「さもしい目、汚れた手の役人が処罰されるのは納得できる。しかし敵を察知できない守備隊長たちへの咎めがないと、ますます軍紀が緩むのではないのかな」
    「城市も人と同じだ。得意、不得意があろう。戦に向かない市もある」
    「餓えた狼の鼻息がそこかしこから聞こえているこの時、得意不得意を言っていられるはずもないだろうに。俺には軍のことはよくわからない。猪に不甲斐なく蹴散らされるまで、ボルシッパ軍は見事に動いていると感心して訓練を眺めていたからな。臆病ということでは、猪の腹の横で肝が抜けていた時の俺など、きっと兎なみの目をしていたさ」