ウル ナナム

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    隊列を動かす兵たちの具足の音や馬のいななき、戦車の車軸の軋みにまじって負傷兵のものらしい呻き声も聞こえた。訓練を統率する部隊長たちにとっては、負傷者も幾人かの死者も見越してのことだったはずだ。学頭は命を落とす兵もいると言ったのだ。訓練で十人の命を召し上げることで、実戦では部隊の足を踏みとどめ全滅を免れることになるのだろう。見境なく飛び出した俺は今命を落とした兵たちの死を無駄にしてしまった。行きかう兵も卒長も部隊長も俺から目を逸らせているように思える。一歩一歩がたった今味わった恐怖と募り来る恥の深い足跡をつくった。荒い息をつくたびに棘の密生した茎が喉を擦る感じがした。 血と泥がこびり付いた腕や脚には手当てのいる怪我はなかったが、猪の瘴気でも浴びたみたいに体中から鼻を刺す臭いがしていた。俺は花の色が残っている草を探して毟り取り手を擦った。脂汗と血と反吐が混ざったような臭いがかえって強まった。自分の棺とともに歩いている気分だ。大きな擦り傷でもあるのだろう、熱風が吹き付けると背中が酷く痛んだ。陽の力は俺を押し返すほどで、強い陽光の下を歩いているのに目の中は昏かった。 漸く長衣を拾いに元の場所へ戻った時には、学頭たちの姿はなかった。振り返ると、展開していた部隊も倒れた猪も跡形なく消え、血の匂いに騒ぐ鳥の影もなかった。暑熱に焙られた黄土には血の痕も見えなかった。背後から二千五百の部隊と十八頭の巨大な猪の骸がなくなるまで気づかなかったとは、どうかしている。一気に駆け抜けた距離を引き返すのに俺はいまどれほどの時を使ったのか。声にならない底なしの自分の悲鳴と幾万の兵の進軍を促す鉦の音のような陽光が俺の耳をいっぱいにしていたのはたしかだ。 長衣とともに放り投げた皮袋の栓がはずれ大半の水がこぼれてしまっていた。熱した水は口をすすぐほどの量しかなかった。持ってきた水をあてにした自分が間違っている。闘いの半分はいつでも水に関わることだ。絶え間なく吹く風と陽のせいで見えないが、水路まで遠すぎることはないはずだ。「坐るな。水場まで歩く」俺は声に出して言った。 渇きを鎮め、体を洗って渡しの船に乗せてもらえるようにしなければならない。 「恥ずべきは自分を憐れむことだ」と父は言った。それを聞いたのは何の折だったのだろう。その時は、意味するところが分からなかったけれど、自分の愚かさと思い上がりに膝折っているいまがそれだ。救われた命は自ら改めて救い直すのだ。 俺は傲慢極まりなかった。ヒッタイトの鋼を使うところなど誰にも気付かれることはないとたかを括っていた。あの異国人は弓を使いつつ俺の手業を見届けていたのだ。そのような鋭い眼で一瞬一瞬を見切っていなければ乱戦のなかで生き延びられはしないのだろう。 俺は父の商いに随いて多くの地を旅し、大商人の館で珍しい写本を見せてもらった。較べる者もいなかったので、そうした折に一度目にした文字を忘れないということが特別なこととは思わなかった。覚師のもとで、各地から集まった書記生と学ぶ間に、皆が新しい文字を覚えるのに多くの時を費やすのを知った。俺は密かに速さを誇っていたわけだ。他の者を侮ることと自分を憐れむことの根は一つだ。
    「七番目の櫂を取れ、櫂を取れ。八番目の櫂を取れ、櫂を取れ。九番目の櫂を取れ」 気づかずに同じ詩句を謳い続けていた。膝の運びと韻がぴったりだったのかもしれない。 いつからその大振りな緑の広がりに気づいていたのだろう。俺はなかなか近づいてくれない緑を見つめ、「櫂を取れ」と声を絞り出して歩いていた。  はじめて見る木だ。灰色の幹はほぼ真直ぐで葉は一枚一枚磨きあげたみたいに光を跳ね返している。葉陰の縁にある井戸は小さく、桶をつないである柱も杖みたいに貧弱だ。住まいも大きくはないが、裏手には家畜の気配がある。 切り揃えた葦で組んだ扉越しに声をかけようとするのを計っていたように人が現れた。片足が義足だった。俺の体は前のめりになっていたせいで、顔よりも先に足が目に入ったのだ。男の右目の縁を抉り傷が走っていた。眼が救われたのが僥倖としか言いようのない深さだ。男が黙って指さした木の根元に俺は崩折れた。水の音に体が震える。汲み上げた水桶から男は小さな椀に水を入れ俺に差し出した。椀の底に唇を湿らすほどの水があるだけだった。男と俺は数回椀をやり取りした。俺の体を気づかって水の量を抑えているのだと分かるまで、ずいぶんと恨みがましく浅ましい目つきをしていたにちがいない。  体の隅々まで水が行きわたった安堵はつかの間で、膝を引き寄せ立ち上がる気力もなくなっていた。水を恵んでくれた男は、礼を言う前に家の中へ戻ってしまっていた。男の体つきは戦士、静まりかえった眼差しは俺の知っている医師と同じものだ。父は大きな隊商を組むときは必ず医師を伴った。バビロニア人ではなかったが、腕のたつ医師は商いの地でも大いに重宝がられたから出自など問う者はいない。その医師は畏敬をこめた渾名で疫病の見者バルナムタルと呼ばれていた。強い酒精があれば怪我人の半分は救えると幾つもの皮袋を用意させていたけれど、半分は自分で呑むのだと言われていた。俺が覚師と出立することになった時、はじめの二日間は父の隊商と共に移動した。二晩ともハシース・シンとバルナムタルは酒神が寝込んで後も呑み続けたという。 戻ってきた男はもう一度椀に水を入れ掌の木の実のような褐色の粒を見せた。 「もうすぐお前は熱が出はじめる。これを飲んでおけばひどくならずに済む」  やはりバルナムタルの眼だ。俺は言われるとおりにした。水を飲み終えたらすぐに歩きなおすと心決めしていたのに、背の幹を支えに上向くのが精一杯だ。俺は萎れた花だ。風が吹くたびに葉陰の網に揺すられるようだった。俺は漁られた魚だ。糞の大玉にしがみついた糞ころがしが俺の足元をゆっくりと回転してゆく。ご苦労なことだ。聖なる甲虫と崇める国もあるという。光の方へ。甲虫は爪に力をこめ、すべての脚爪に力をこめ光の方へ回転する。体が揺れる。俺の行く先は光の方だ。そうすればこの寒さは収まる。震えを抑えようと俺は爪に力をこめた。