光のせいなのか俺の答のためなのか、眉をひそめたグラの見かけは、ひと炙りした麦粉のように瞬きの間に変わっていた。覚師たちと出会った時のラズリ婆様はこの横顔を朝焼けの中にさらしていたかもしれないという気がした。
「ディリムはどこで夕陽を見るの」その声音はもとのグラだった。
「文書倉の屋根だよ。心配ない、覚師もよく酒壷を抱えて上がってくる。ここだけの話だがハシース・シン様が心底崇めているのはナブ神よりも麦酒の女神ニンカシなんだ」
グラは声をたてずに笑い、上掛けをたたみながら「先に帰る」と言った。「ディリムはあとから」と立とうとする俺を小声で制した。
星を浴びてたゆたっていた運河の水はいま麦穂の呼びかけに応えようとしている。ありとあらゆるものが、ゆったりとした朝の身じろぎのなかだ。城市を要に運河と麦畑と果樹園が目地のかぎり広がり、朝もやに溶けている。
カルデア人の占い通り豊作が三年続いている。望外の幸いは影を呼ぶが、いま誰もが案じているのは凶作の記憶ではなく戦の気配だった。この三季にわたって、わが軍勢とアッシリアとは一度も大きな矢合わせがなかった。両軍は獅子のように目を据え、唸りをあげて間合いをはかりながら砂ぼこりを巻き上げるだけだったという。秤はかすかに揺れながら均衡していたのだ。戦闘がなかったとはいえ、軍旅を解かれた兵士の大半が目を血走らせていた。
ボルシッパの兵は弱いといわれている。それは遍く知れ渡ったことなので、アッシリア軍が生贄の手始めにこの市を狙ってくるだろうという噂はすでに日々の挨拶となっている。
弱兵だというのは本当だ。十一人の書記生と兵の訓練を見に行ったときのことだ。大楯を持つ槍兵と軽装の弓兵が太鼓と角笛の合図に合わせて移動を繰り返すたびに土埃がふんだんに巻き上がった。兵が走り革と鉄が匂う。いっせいに射られた矢は降り注ぐ白い光を斬るようだった。俺はそれまで並足で行軍する兵しか見たことがなかったので、眼にするすべての動きは機敏でありながら重々しく、頼もしいものに思えた。
「はじまるぞ」と俺たちを連れてきた年長の学頭が言った。
兵が大きく動き矩形の囲いをつくった。構えは三段で、楯が隙間なく寄せられその間から長槍が突き出された。開かれた一辺を大葦の束で覆われた囲いが塞いでいた。軽装歩兵たちが走りよって葦束を取り除けた。猪の檻は十八だった。丘に着いたときから猪の強い匂いがしていたので気にかかっていたのだ。猪は狩るより生け捕るほうが難しいはずだ。
「戦車相手の訓練だ。命を落とす兵も出るそうだ」学頭の声が上ずっていた。
十三頭の猪が囲いの中央まで勢いよく飛び出し、四頭は檻の前に止まり、一頭は檻から出ようとしなかった。与えられた中庭を十三頭の猪は小走りに行き来を繰り返していた。途方にくれているように見えた。楯の壁に不意に突きかかっていったのは檻の中に残っていた一頭だった。兵士たちの槍先は猪の巨体に向かわず、地を削り空を泳いだ。拳ほどの土塊が山崩れを起こすという。十八頭の猪は黒灰色の濁流となって跳ね回り槍に向かって突進し、無理やり楯の隙間に鼻面を押し入れた。六頭が胴や背に槍を突き立てたまま走りまわっている。まったく動かなくなった猪は七頭だ。倒れた兵士の数より少ない。
突き崩した兵団をそのままにして逃げ去る猪は一頭もいなかった。猪の一頭一頭が復讐神のとり憑いたような目で腰のひけた兵たちをねめつけると、怯えた男たちの気息が低い雨雲のようにたちこめた。軍長の怒声は乱れを煽るばかりだった。二千五百の兵士が十一頭の猪に包囲されている。猪十八頭で崩れる兵団など何の役にたつのだ。
わが父ビルドゥは言った。お前はもつ。高みにある隼の眼、巣に帰る蜜蜂の眼を。
俺は轍にはまった戦車の車輪、血濡れた大牙を見た。そして俺は長衣を脱ぎ捨てた。
わが父ビルドゥは言った。お前はもつ。北の天を走る流れ星の脚、七番目の月、聖なる丘の月の草原を駆けるガゼルの脚を。
俺は斜面を駆け下りた。つい十日前までは白や青や黄や紅色の小さな花でいっぱいだった斜面はことごとく枯れ草になっている。俺は枯れ草に覆われた斜面を駆け下りた。
わが父ビルドゥは言った。お前はもつ。暗夜に轟く雷鳴の声を、あめんどうの花を啄ばんで鳴く小鳥の声を。
俺はこめかみが割れるほどの声を発した。犠牲者を突き倒さんとする牙をこちらに向けさせるため声を発した。猪の濁った片目が俺を捕らえた。憤怒も憎しみもない目だ。
わが父ビルドゥは言った。お前はもたない。獅子の額を貫く槍を投ずる肩を、城壁を抜かんとする敵兵を追い落とす腕を。
俺はもたない。重い武器を揮う軍神の肩と腕を。槍も剣も楯ももたない俺は十一頭の猪の二十一の目の中へ走りこんだ。
それゆえ、われはお前に授けようとわが父ビルドゥは言った。ヒッタイトの鋼を。
俺はもつ、目と脚と声と葦筆と見紛うヒッタイトの鋼の武器を。
背に浅く刺さった槍を揺らせて地を掻いている猪の鼻先で俺は横に跳び、そいつの右側に従者のように並び立っていた大猪の首の下に滑り入った。ヒッタイトの鋼をふくら脛の鞘から抜き、俺は猪の喉に鋼を突き立て引き抜き、巨体が崩折れる前に腹の下から身を回転させ、次の一頭の両足の間に潜り込んで身をずり上げ首の下を刺した。抜け出る前に蹄が地を滑るのが目に入った。前脚の剛毛の一本一本がはっきり見えた。腹の沈むのが早く、下から抜けきる前に俺は踝を挟まれてしまった。
息の抜けた悲鳴ともつかない掛け声を上げながら兵たちが倒れた猪の腹に槍の穂先を向けてきた。歯の根の合わぬ兵たちに土埃にまみれた俺と黒灰色の猪とは見分けがつかないだろう。俺は味方の弱兵の槍を浴びるのだ。黒い水に全身が浸されたような大きすぎる後悔の思いに声も出なかった。こんなにも無様な死を自ら招いてしまった。この時に呑みこんだ無念の思いと恥ずかしさは後になって何倍もの強さで俺を締め上げることになった。
鼻先に真っ赤に融けた光が走り、間近に雷が落ちたような感じがした。
「少年、名は」俺は呆然としたままその声を聞いた。戦車から俺を見下ろしている救い主の顔は背にした陽光で赤黒く翳っていた。雷鳴のように聞こえたのは、男が振るった鞭だったと後で知った。男は戦車を乗り入れ俺と猪を刺そうとしていた槍をその鞭で叩き落としたのだった。そうする前に男が半弓から射た矢はことごとく三頭の猪の額に刺さっていたという。
「ナブ神の僕、ディリムと申します」喉が干上がっていて嗄れた声しか出なかった。「あなた様のお力添えなくば、私はこの場で果てておりました」
「見事な書記振りではないか。お前の筆の刻みは余人の及ぶところではない。お前は一つの神に仕え、二つ、いやそれ以上かもしれぬが、多くの神々に護られているらしい」男の話し方は異国人のようだった。被り物も胸甲も見たことがないものだ。
「あなた様も私にとってその神々のお一人でございます」
「馬鹿なことを申すな。おそらくふだんのお前であればそんなことは言わぬであろう。わが国ではお前のような若者を徒に死なせるようなことはせぬ。お前とはまた会うことになろう」
猪の腹に挟まれている足を引くと、力を込めるまでもなく抜くことができた。俺はまったくもって我を忘れていたわけだ。俺は戦車の車輪の端に這いより「お言葉、染み入ります。お会いできる日を」と頭を垂れた。
異国の男は頭上で鞭を振るうと御者の肩を叩き、戦車を発進させた。
ウル ナナム
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