リレーコラム

  • 竹之内 康夫「春夏秋冬 」

    映画『サンゲリア』は、生きている死体たちが暴れまくるゾンビ映画だった。自由が丘武蔵野館(2004年2月閉館)に観客は2、3人だけ、恐ろしい場面が繰り返されるばかりで、後味の悪い夢を見たされたような覚えがある。あれから30年、いよいよ死についての思いがふと頭を過ぎる年齢をむかえた。ゾンビのような亡者になって悪さをする性質ではなさそうだが、一休が戯画化した成仏などくそ喰らえとばかりに煩悩に生きる骸骨の資格はありである。
    今日、秋の日にくすむ庭を前に振り返ってみれば一年の短さ。それでも、椿、山吹、紫陽花、萩、金木犀などが四季折々に小さな庭に彩りを添えてくれた。苗木を植えてみたり、成長を見ながら植え換えてみたり、いつも庭いじりを愉しみながらただ一人眺めては悦に入っている。
    小学生の頃、夏休みは40日間のほぼ全てを田舎で過ごした。浅草から東武鉄道で一時間強の、今は東京のベッドタウンとして市に成長した田舎町で、木造の駅舎の中から停車場の向こう見れば一面に麦畑の風景が広がっていた。朝の勉強を簡単に済ませ、後は蝉や蜻蛉採りをしたり、天日に干す梅干をつまんだり、映画館が呼び込みのために休憩時間に拡声器から流される島倉千代子の歌声を聞いたりの毎日だった。暑い昼下がりには扇風機と蝉の声を聞きながらの昼寝、しかしなかなか寝付けなかった記憶がある。横になりながら床の間の掛け軸の、連なる山を望み、下る川とその縁にたつ茅屋、山路を急ぐ人などを懐かしい気持ちで見入る自分を、今、庭を眺めながら思い出している。
    鎌倉か室町時代にまとめられた庭づくりの古典というべきものに『作庭記』がある。庭づくりの体系化に、仏教、儒教、陰陽五行説などを援用する一方、冒頭で「風情をめ(ぐらして)、生得の山水をおもはへて」と記し、自然の風景を手本に考えて、と庭づくりの基本を述べる。以下、庭を構成する石、池、山、樹などそれぞれの扱い方や禁忌について説明し、池や遣水のないいわゆる枯山水を含めた庭園論を展開している。そして単刀直入に、庭師の言葉(口伝)が継承されていくための第一義として自然の風景を挙げる。それは今も異議を唱えることなく、誰もが同意できるところにある。ただ、中世の寝殿造りや寺院の庭園づくりとしてまとめられた古典としての制約から、全体としては素人の庭いじりと目盛りを合わせることには無理がある。
    『作庭記』などを知ることもなく、庭づくりに興味を抱くこともなかった40年前の初対面から印象強く忘れられない庭がある。京都市左京区にある足利義満が開いた鹿王院の嵐山を借景とした枯山水庭園で、そこには石組や植え込みはあっても小石や白砂は用いず、杉苔を中心とした苔が庭一面を覆っていた。
    樹に千びきの毛蟲ではないが、今年も庭の椿には茶毒蛾が発生し、躑躅の葉に青虫、土をいじれば地中に蚯蚓といたるところ生命が溢れるている。白石を敷いた塵のない庭園として有名な龍安寺石庭などとは正反対の、鹿王院の苔に覆われ生命が露出する世界こそが『作庭記』の「生得の山水」と記した自然そのものの正体である、と考える。春、夏には草木にたっぷりと水を遣り、茶毒蛾をはじめ葉や枝に付いた虫は見つけたところで退治した。秋になり、葉、茎が枯れてしまったものもあるが、もちろん枯れ死ではない。これらの全てが整然と営まれる自然の中で、枯れ、朽ち、腐り、終わり、放置された庭は回帰する生命に祝福を受けながら冬を越していく。
    満員電車に乗っての通勤途中、見馴れた風景とともに人間もまた自然に支配されている、との思いに至る。自然は人間を支配する。しかしまた、人間も自然を支配することに全能力を注ぐ。都会は小石、白砂で覆われた石庭のように、ものの見事にビルや道路が覆い尽くし、また人間は樹のように黙して地に立ち、虫たちと同じように動き回る。
    白状すれば、レイ・ブラッドベリの『火と霜』の中で主人公が「夢で見たことが事実ならば、その光景は全くの作りごとではないはずだ」と確信する言葉が、自分が見ようとし、自分を実現しようとすることの支えであった。しかし今、これを啓示のごとく暗唱しながら過ぎた日々と、未だ見ぬ夢の繰り返しに一人反省する。願わくは、夢が目を覚まし見る光景にあるからこそ、ともに夢を確認し合うことに力を与えたまえ、と思うのである。

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    (左):鹿王院/かつての杉苔の勢いが感じられない。お寺でもどうしたものか、と心配していた。 (右):龍安寺

    (注)
    『作庭記』:1973年岩波書店刊「日本思想大系23古代中世芸術論」に所収。
    『火と霜』:1967年早川書房刊「S-Fマガジン97号」にレイ・ブラッドベリ/永井淳訳で掲載。東京創元社の創元SF文庫『ウは宇宙船のウ』に『霜と炎』として大西尹明訳により収録。

  • 本多 博行 (あうん堂店主)「中年だって荒野をめざす」

    ぼくは1951年3月生まれなので、学年では一級上の組に入っていた。47年~49年のいわゆる「団塊の世代」には属さない。当時の小・中学校ではこの団塊世代対策として、不足している教室等の拡充に追われていた。おかげでぼくには教室や仮校舎で同級生たちとひしめき合っていた、という記憶はない。このようなハード対策は、その後高校や大学の入学定員増というソフト対策にも及んでゆくのであった。
    とはいえ、当時大学をめざす若者は今と違って少なく、ぼくの中学校では普通高校に進学した生徒はクラスで3割、大学に入ったのはその半分だったと思う。ぼくが進んだのは、当時高度経済成長を前に即戦力となる技術者の養成を目的として作られた、5年制の工業高等専門学校だった。

    1966年冬、ぼくが高専1年生の時である。地元の新聞に「金沢在住の作家、直木賞を受賞!」という大きな見出しが躍っており、そこには当時34才だった五木寛之さんの写真とともに、受賞作品『蒼ざめた馬を見よ』が紹介されていた。受賞作品どころか氏の名前すら知らなかったが、とにかくぼくにはこの金沢という古い街にこのような若い作家が暮しているというだけで驚きだった。
    翌年、当時人気のあった若者向け男性週刊誌『平凡パンチ』に五木さんの連載が始まった。小説のタイトルは『青年は荒野をめざす』、イラストは新進気鋭の柳生弦一郎さんだった。これが五木さんと出会った最初の作品である。そのころぼくは父の仕事の関係で金沢から電車で20分の町に住んでおり、毎週木曜の夕方になると、駅の売店に並ぶ『平凡パンチ』を買いに行ったものである。表紙の大橋歩さんのイラストを眺め、次いでヌードグラビアをチェック、そして『青年は荒野をめざす』を読む。
    物語は、20才のトランペッター・ジュンが自分のジャズの音を見つけるため、横浜からナホトカ航路に乗り込むところから始まる。シベリア鉄道でモスクワを経由し、ヨーロッパの北の玄関口ヘルシンキに入る。ストックホルムやコペンハーゲンの街ではさまざまな出会いがあり、少しずつ成長していくジュン。パリ、マドリードと旅を続け、リスボンの港から貨物船でアメリカに向かうところでこの物語は終わる。
    ぼくはこの小説でジュンの生き方に感動し、ジャズと北欧の国々に興味を覚えた。カレリア、シベリウス、ムンク、バイキング、イプセン、アンデルセン……いつか北欧を旅したい、という夢がふくらんでいく。また、五木さんの青春時代を書いた小説やエッセイを読むたびに、大人びた大学生活が羨ましくもあった。

    1971年、ジュンと同じ20才で高専を卒業したぼくは、当時の国鉄(現JR)に土木技術者として入社する。2年毎の転勤だったので、旅をしているようなサラリーマン生活でもあった。49才の春、すでに民営化されてJR西日本の社員だったぼくは、グループ会社に出向する。この2年間の出向生活が人生の大きな転機になるとは思わなかった。
    会社では管理職についていたが、出向会社では一作業責任者として現場の第一線に立つことになった。日中は列車が走って線路のメンテナンスができないため、作業は深夜列車が止まった時になる。作業員に怪我をさせないこと、作業中の事故で列車を止めないことを最優先に連夜現場で働いた結果、体重は8kg減って67kgとなっていた。妻は、お金をいただいてのダイエットなんてできないわよ、と軽口をたたきながらも支えてくれた。仕事の苦労はいとわなかったが、やはり身体はきつかった。
    当時会社では51才から早期退職制度に応募できる仕組みがあり、親会社だろうが子会社だろうが、どこにいてもいつかは会社を辞めなければならない時が来る。辞めようかと思っている、と話すぼくに、今までずっと働いてきたんだから好きなことをすればいいわ、と言ってくれた妻。翌年この制度の中の一つ、退職を前提とした5年間の休職制度にぼくは応募し、会社は認めてくれた。

    2002年4月、会社をリタイアして休職生活に入った。妻はパートに出ており、ぼくは会社時代の給料の半分が支給されるので、最低限の生活保障はあった。5年間なにをするか? 主夫をしようと思った。それだけだ。そして、5年後には好きなことを仕事にしよう。
    2ヵ月後、ぼくと妻はヘルシンキに向かう飛行機の中にいた。1ヶ月間の北欧の旅に出たのである。両親と子どもたちは快く送り出してくれた。「中年だって荒野をめざす」がその旅の合言葉だった。
    ヘルシンキで数日間過ごした後、ジュンが乗ったバルト海クルーズ船でストックホルムに向かう。ガムラ・スタン(旧市街)では、小説に出てきたライブハウス・ジャンバラヤを二人で探し回ったり、デパートの地下で食材を買い宿泊先のユース・ホステルで食事を作ったりしているうちに、旅と生活が一体となってきた。北欧4カ国の鉄道が乗り放題の「スカンレイル・パス」にスタンプを押してもらい、五木さんの作品に出てきた街や美術館を巡る旅は、ここストックホルム中央駅から始まった。
    コペンハーゲンからアンデルセンの生まれたオーデンセの町へ移動した後、デンマーク国内を北上していく。船で再びスウェーデンに渡り、国際列車で国境を越えるとオスロの街だ。ムンク美術館でのんびり一日を過ごす。
    さらにノルウェーのフィヨルド海岸に沿って北へ向かう。ヨーロッパ大陸の最北地・ノールカップに着いたのは深夜の1時だったが、白夜なので沈まぬ太陽が水平線の上を横に移動してゆく。片言の英語しか話せないぼくたちだが、金沢から8000キロ離れたこの地までよくやって来れたものだ、と二人でビールのグラスを手に感慨にふける。
    再びスカンジナビア半島を南下してヘルシンキに3週間ぶりに戻ってくると、街は初夏の陽射しがまぶしい。夏を待ちわびていたのだろうか、エスプラナーデ公園では誰もがTシャツと短パン姿でお喋りしている。
    時間も仕事も家族のことも気にすることは要らない今回の旅ほど、刺激的で、愉しい旅はなかった。この思いは強く、その後4度も北欧を旅することになろうとは思ってもみなかった。

    休職生活に入って3年目の春、好きだった本に囲まれた仕事を始めようと思った。古本屋である。ぼくも妻も人が好きだから、人が集まる場としてカフェスペースも併設しよう。こうして「ブックカフェあうん堂」がオープンした。カフェの担当は妻で、ぼくは古本屋のオヤジだ。二人とも古本業や接客業は初体験だが、今度の合言葉は「中年だから荒野をめざす」にしよう。

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  • 清水 コア (編集者)「ザジに大迷惑?」

    新宿武蔵野館でルイ・マルの名作「地下鉄のザジ」(1960年)がニュープリントカラーで上映された。スラップスティック映画といえばザジにつきる。しかしおかっぱ頭の少女ザジが巻き起こすただのドタバタコメディと思ったら大間違いで、映像的にも飛躍に富んださまざまな仕掛けがあって、息が抜けない。大通りを走るクルマをピラミッドのように積み重ねたり、パサージュのガラス屋根やエッフェル塔の上で軽業よろしく本気で追いかけっこ、レストランで大暴れして店の壁をぶち壊したり。ナンセンスとはらはらドキドキの連続で、この種の映画のボキャブラリーを生み出した作品ともいえる。
    「プレイタイム」(1967年)のジャック・タチ演じるユロ氏は、ザジのアダルト版ともいえるし、「美しき獲物たち」(1985年)のロジャー・ムーアのエッフェル塔のシーンは脚力不足で腰砕け、ポランスキーの「フランティック」(1987年)でハリソン・フォードは空港からタクシーでパリ市内に向かい、事件に巻き込まれたあげく、パリを去ってタクシーで空港へ。ポップ調とブルースという差はあるが、冒頭とエンディングはまるっきりザジへのオマージュだ。ザジは列車でリヨン駅だったけれど。
    ザジが屋上をすっ飛んだのはパサージュ・デュ・グラン=セールで、そこでザジはムール貝を食べた。
    ムール貝といえばベルギーが本場。ブリュッセルにあるギャラリー・サン・チュベールは、1847年につくられた直線300メートルの大パサージュで、そこに一軒の名画座がある。シネマ・アーレンベルグ。今年の夏、そこでジャック・ドゥミの「ローラ」(1960年)をみた。なぜか日本でみたときには文芸作品のような印象をもったけれど、これは単なる尻軽おんなの話で、ときどきくすくす笑いがした。踊り子を演じるアヌーク・エーメの美しさは比類のないもので、その魅力をモノクロームで引き出したジャック・ドゥミは作品の舞台である港町ナントの出身。夫人のアニエス・ヴァルダの「ジャック・ドゥミの少年期」(1991)をみたら、「ローラ」にも出てきたパサージュ・ポムレーにあるカメラ店で8ミリカメラを買ったのがジャック少年の映画づくりのスタートだと知った。
    どうやら現実とイメージのパサージュが入れ子状態になってきた。ザジのうしろ姿を追ってジグザグするうちに、レコード針が飛ぶように、話も急展開。

    ブリュッセルから国鉄で30分ほどの距離に中世の都市ゲントがある。品川から横浜に行く感覚だ。ゲント駅から2両連結の路面電車に揺られて旧市街に入る。フランドル地方特有の階段式切妻が連なる広場はあいにく石畳の工事中でホコリだらけ。あたりを見回すとひときわ目立つ鐘楼がシント・バース大聖堂。
    そこに北方ルネッサンスを代表する名画、ヤン・ファン・アイクの「神秘の小羊」がある。
    高さ3,7メートル、幅5,2メートルの三連式祭壇画で、全20面。板に油彩。1432年完成。受胎告知の描かれた観音開きの扉を開くと画面は上下2列になっており、上段は御座のキリストを中心に左に聖母マリア、合唱者たち、アダムが、右に洗礼者ヨハネ、奏楽者たち、イブ。下段は神秘の小羊の画面がひときわ大きく、その両翼に正しき裁き人、キリストの騎士、聖隠修士、聖巡礼者が集団をなしている。それらの画面が一体となり、キリストによる人類の贖罪というテーマをあらわしている。
    横向きに立つ純白の小羊は、目を見開いたまま胸元から一筋の血を聖杯に注いでいる。周囲を天使が取り囲み、少し離れて四方から使徒たち、預言者、族長、聖職者、聖女、女性の殉教者たちが、それぞれのアトリビュート(象徴物)を伴って整然と小羊礼拝にはせ参じている。その舞台は灌木や木立、針葉樹にまじって椰子などが並ぶ緑の丘のある花咲く楽園である。すみずみまで光が降りそそぎ、空気にも色があるかのようだ。花々は32種が識別できるという。水平線が画面上辺にとられ、遠方にどこかの町の塔や建物が点在する。全体の印象はのどかな牧歌的風景に繰り広げられる野外劇の趣だ。200名をこえる登場人物は、一人ひとりの表情も衣服も身振りも克明に描きわけられ、木の葉の一枚一枚まで細密描写されている。遠景にいたるまでかたちも色もクリアーで、どこにも曖昧なものはない。聖者の襟や袖口をトリミングした毛皮の毛の一本一本が実物の数分の一の大きさで浮き上がってくる。
    中世ゴシックのミニアチュールを引き継ぐファン・アイクの写実的態度は、たとえば着地は絹なのか羊毛なのかモスリンか、岩は大理石か花崗岩かといった対象の材質を精確に判別できる画家の視覚がもたらしたものだ。それは博物学的な視線ではない。もっと現実的で生なましい。15世紀のフランドルは織物交易で栄え、巨万の富を築いた市民階級も誕生した。そうした商人たちの日常感覚と表裏のものだった。彼らはそこに一枚の布があれば、指先でこすって品質を確かめ、原産地から輸入業者までたちどころに言い当てたという。人物にたいして、ガラス瓶や静物にたいして、町や自然にたいしての驚くべき注意力。絵画は成熟した彼らの世界観の反映でもあった。
    人びとの関心事は宗教の問題が主であったが、キリストや聖母の物語を現実のものとして実感することを願った。過去ではなく進行形のドラマとしてとらえようとした。画家たちの才能がそれに答えた。受胎告知は市民の居室での出来事となり、窓からは日ごろ見慣れた町や自然が望まれる。磔刑の背景に中世の城郭がそびえ、後期ゴシックの教会が建ち、階段式切妻の民家が軒を連ねる。
    ゲントの祭壇画は、当地の有力者が寄進したもので、いまも寄進された教会にある。扉の両翼に、寄進者ヨース・フェイトとその妻の両手をあわせて祈りを捧げる姿が大きく描かれている。絵の中にちゃっかり自分を参加させてしまうというのは、大儲けした罪滅ぼしなのか。画家もけして手をぬかず、堂々と画面におさめて、その技量と現実感覚を発揮した。その後、祭壇画は偶像破壊や大国との駆け引き、戦乱などの荒波を乗り越えて現在に受け継がれてきた。

    20世紀のベルギー美術にもファン・アイクを筆頭にしたフランドル絵画の余光を感じることができる。アンソールの群衆表現、マグリットのフェティシズム、デルボーの裸婦の背景などだ。それは描かれたモチーフの類似にとどまらない。画面全体をおおう北ヨーロッパ特有の静かな、物の内面にしみ通るような光があるということ。
    8月のある日。聖堂の一室でいくら目を凝らしてみても、小羊の草むらには、M・アントニオーニの垣間見た横たわる男のボディは見つからない。そのかわり、眠りから目を覚ました虫たちが、艶々の甲冑のようなまばゆい羽をいっせいにひろげて飛び立った。すると号令一下、あっという間に何千と寄せ集まって一個の巨大な球体となり、ブリュッセル王立美術館の中心におさまった。題して「地球儀」(ヤン・ファーブル作)という。

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  • 永井 佳子 (エッセイスト)「空中船 (2/2)」

    「私はね、むかし、建設業で働いていたんですけどね。ちょうど、ほら、あそこのカーブあたりで、土木作業をしていたんですよ。」

    新潟弁を少し和らげながら、タクシー運転手は言った。

    車は切り立った崖のふちをなぞりながら走る。あたりは緑一色。車一台通るのがやっとの山間の道を走り、突然視界が開けると、急な崖の連なりにできたいくつもの棚田が目の前に広がる。崖を切り開いて作った人工の絶景。ちょうど、巨大なコロッセウムに似た、すり鉢状のくぼ地に、緑色が階段の上をゆるやかに流れ落ちているようにも見える。それを囲む山々の重なり。山は棚田を懐に抱えている。

    真夏の一日。田んぼの稲は深い緑色に呼吸している。

    「外で働いていてね、昼飯のあとに、昼寝をしていたんですよ。」

    ドライバーの視線の向こうをたどると、遠くには道路わきの小さな更地が見える。黄色い土がむき出しの土地は今でも工事中のようだ。緑色の崖に沿って走る道路。崖の向こうには、とんがり帽子の山の輪郭がいくつも垂直のジグザグになって空を突き刺している。

    「ふと目が覚めるでしょ。そうすると、崖の向こうにある山と山の間を船が行き来しているんです。右から左へとゆっくり進んでいる。ちょうど、船が空に浮かんでいるようで。さて、なんだろうなあ。と思って不思議に見ていたんです。」

    車の窓越しに見る山と山の間は、白い霧でかすんでいて、夕方の太陽がパウダー上に紅を浮かべていた。そこに灰色のぼんやりとした船の輪郭を貼り付けてみた。

    タクシー運転手は、まるで今朝の朝食の献立を伝えるように淡々と、しかし変わらぬ日々の幸せを遠方から来た来客に伝えるように穏やかに語る。

    「すごく天気がいい日で、空気が澄んでいたから、日本海が山と山の間のずっと向こうに見えていたんですよ。その日本海に浮かぶ船も。」

    昼寝から目覚めたばかりの、うつろな網膜に写った空中船の繊細な映像は、今でもタクシー運転手の脳裏に濃く焼きついている。

  • 永井 佳子 (エッセイスト)「眠る騒々しい生命 (1/2)」

    クリスチャン・ボルタンスキー + ジャン・カルマン「最後の教室」
    @越後妻有アート・トリエンナーレ

    青々とした棚田を覆う太陽は剥き出しだ。何の膜にも覆われていなくて、生き生きとしていて強い。日向に出たとたん、瞬く間に空中に白い光の顔料が撒き散らされる。光はいろんな方向に発光していて、それぞれにぶつかりあっては、よりいっそう強い光の層を生み出しているようにも見える。

    いくつもの尖がった山の重なり。その間のささやかな溝に作られた平地には、様々な種類の雑草がそこかしこに伸び、大合唱している。茶色に錆びたジャングルジムと、サッカーゴールは自然に戻されたようで、勢いづく草木の景色に馴染んでいる。大小さまざまな砂利石が散らばった、かつての運動場の地面をざくざくと踏みしめ、太陽に背中を押されながらひっそりとした廃校を目指す。

    自然が、自己主張の激しい自然が騒いでいる。

    新潟の越後妻有は人間が住むにはとても厳しい地域だ。切り立った山間のがけ崩れを利用して、力ずくで田畑を作り、難しい条件のなかで、土地にあった農業を編み出してきた。そんな環境で農業を糧に生きていくのは、骨の折れること。過疎化が進むのも無理もない。そんな妻有に、どういうわけかあるとき、たくさん学校施設が作られた。なぜだか、地元のタクシードライバーは、「必要以上に」作られたという。案の定、若い家族がほとんど住んでいない今では、めっきり子供の数も減って、廃校がいくつもいくつもできている。それが、「越後妻有アート・トリエンナーレ」の名のもとに、現代美術のために贅沢なサイトを提供している。

    クリスチャン・ボルタンスキーの「最後の教室」は、そんな廃校のひとつを利用したインスタレーションだ。強烈な日差しを背に、まず体育館に入ると、視界が影に覆われて一気に暗くなる。ひんやりとした体育館の玄関。薄緑色のリノリウムの床。入場キップを切る村のおじさんがひとり。後ろには、緞帳のように重く、分厚い、真っ黒のカーテン。体育館の入り口だ。
    「こちらが入り口ですので。」
    と、開襟シャツのおじさんが、涼しく言った。

    カーテンをおそるおそる開けると、別珍のようなマットな質感の暗闇が目に飛び込んでくる。と同時に、強烈な草の匂いと、むっとした水蒸気。暗闇は遠く向こうまで果てしなく続いている。

    恐る恐る一歩を踏み出すと、ふわりと沈む奇妙な感触が足元を覆う。一歩、二歩と歩を進めるうちに、床には干草が敷き詰められていて、それが草の匂いの正体で、むっとした水蒸気はおそらく乾いた草の吐息だろう、ということを脳が理解する。目が慣れると、完全な暗闇は灰色の透明な暗さに変わっていく。高い天井からは、白熱球が目の高さまで吊る下がっていて、静かに燃えるオレンジ色の灯りを発している。腰のあたりを生暖かい風が吹き抜ける。足元に気をつけて、体育館を横切り、質感の違う光が導く入り口へと歩を進める。そして、もう一度、背後を振り返る。白熱球、扇風機、長いベンチ、干草。大きな壁に映し出された、ざわざわとはためく映像、そして人影。奇妙な取り合わせ。大勢の「存在」が体育館を占領している。

    電球の灯りに導かれて、体育館を抜け、校舎の廊下へ。長い廊下の果てには、強い光がぐるぐると渦巻いていて、その光に吸引されるように、直線を歩いていく。長い廊下の灯りと、どこからか聞こえてくる物音。心臓の鼓動。直線を歩くほど、徐々にクレッシェンドするのを、肌で感じる。片側には、墨字で書かれた、教室の名前。「職員室」、「視聴覚室」、「用務員室」、「給食婦室」。もう片側にある大きな窓の跡。何事もなかったように、壁色に潰されている。かつて険しい山の景色を映していた窓は、今となっては、窓枠だけを残して黒い鏡面に潰され、誰も映っていないポートレートのように天井近くから斜め下を見下ろしている。黒い鏡面に映るのは、見上げる自分の顔。もしかしたら、その表面の一層奥には、誰かの顔が塗りつぶされているのかもしれない。Who knows.

    渦巻く強烈な灯りの近くには上り階段がある。上に行くほどに心臓の鼓動に近づいていく。深い緑色の暗闇。二階に上がってすぐ左手にある広い部屋は理科室だ。緑色のシルエットに見える、深いシンクと蛇口の後姿。心臓の鼓動は、眠った理科室を膨らませたり、縮めたりする。音のエッセンスは、校舎のいたるところに侵入して、空間に息を吹きかけるように響きを増幅させる。

    二階の長い廊下沿いにある部屋。布で覆われた白い塊。布の下で、積み上げられ、寝かせられ、組み合わされている、小さな机と椅子の集団。暗い校舎のなかで、浮かび上がる白色の存在。かつて、ここにいた、子供たち。積み上げられた机の小ささと、そこに座っていたであろう子供の存在が、まるで手を繋いだ瞬間のようにジワリと体温になって身体の中に入ってくる。

    そして、三階に導く低い階段。上りきると、「どさり」。大きな塊が目に飛び込んできた。その瞬間、「かつていたであろう」子供たちの身体の輪郭と、体温と、騒々しさが一気に私の身体を覆って、廃校の過去と、その過去が積み重なった床の上に立つ自分の足元の間に、時計が狂ったように、意識が行き来した。階段の前には、古くなった「誰かの」服の山が、それぞれの背中に折り重なるように積み上げてあった。目の前に横たわる強烈な存在の数々。そこには、紛れもなく、今まで一度も会ったことのない誰かの存在、輪郭のない記憶の数々が眠っている。

    三階の教室は眠っていた。校舎全体を震わせる鼓動の音は、むしろ心地よく響き、白さを通り越して、青い光に覆われた空間を、静寂に包まれているように「見せて」いた。白い布は床を覆い、パリッとした蛍光灯の光が、透明な棺桶のような長細いボックスを青く照らしていた。存在は眠っている。長く、安らかに眠っている。

    廃校全体を使ったインスタレーションを出るには、来た道筋を戻り、体育館を再び横切って、重い別珍のカーテンを開ける。最後にもう一度通り過ぎる「騒々しい」体育館では、いくつもの扇風機が滑稽にまだアタマを左右に振っている。暗闇の空気はやっぱりまだ湿っていて、温度も人肌に暖かい。その瞬間、顔も見えず、声も聞こえず、名前の響きでしか知ることのなかったボルタンスキーという作家の胎内に入り込んだような気がした。

    いくつもの言説に覆われたクリスチャン・ボルタンスキーの作品。彼の出自や、記憶や、交友関係や、制作してきた数々の作品との関係や、それを取り巻く美術史や。そんな数々の言説をまるでなかったことのように通り越し、彼の柔らかな部分に直接接続した。

    山奥のささやかな平地にのっぺりと腹ばいに横たわる、ある静かな生命の胎内。

  • 二見 彰 (流浪堂店主)「僕っていうデラシネの転がり方」

    ただ感じるまま、衝動によって突き動かされる。そしてこの先にはいったい何があるんだろうってワクワクしながら目を凝らす。なんだかこうやってずっと生きてきたような気がする。この店を始めた時もそうだった。まるで子供の遊戯といっしょだ。理屈や理論なんかどうだっていい。どっちの方向に向かってるのか、うまくいってんだか、間違ってんだか。とても無駄なことかもしれないし、何処に着地するのか見当もつかない。まるで荒野を転がるデラシネだ。ただ、心のままに転がってくのが楽しくてしょうがないのだ。
    「遊びをせんとや 生まれけむ。 戯れせんとや 生まれけん。」とは『梁塵秘抄』のなかの有名な歌の一部だが、或る日店を訪れたライターさんが、この言葉を僕の店に残していってくれた。遊ぶために生まれて来たのか、戯れるために生まれて来たのか…。此処は、人と本が一緒になって真剣に遊び戯れるために生まれた場所だねって意味で言ってくれたとしたら、とても嬉しいのだけれど。解釈は違ってしまうが、遊びのなかで生まれるものや、戯れのなかで生まれるものがきっとあるんだって思いを持ちながら、この店をやっているのは確かだ。
    『長くつ下のピッピ』や『やかまし村の子どもたち』の作者リンドグレーンが、自身の子供時代を振り返って「遊び死にしなかったのが不思議なくらい」と言っているが、僕は今でもそんな感覚で店のなかを動き回っている。目の前にある数え切れないほどたくさんの本で、この空間全部を塗りたくりたい、絵を描きたい、コラージュのように貼付けたい。「真剣に遊んでいる」のだ。
    では、こんな風に僕を動き回らせる源になっているモノは何か? 多分それは、たくさんの知らない人たちが大切に作り上げた本への湧いては消え、消えては湧く大粒小粒の感動や尊敬と、そしてこの場所に来てくれた人たちに、その本の一冊でもいいから見て欲しい、手に取って触れて欲しい、感じて欲しいという「思い」だ。あとは、うーん、「苛立ち」みたいなモノもあるのかな。人を介さずに成り立つ、どうかすると呑み込まれてしまいそうなほどのネット販売への大きな流れと、「対面販売には未来がない。」っていう声への。
    ネット販売が悪いとは思わない。時には必要だと思うし、自分も利用することがある。ただ、一分一秒でも素早く簡単に、有形無形の諸々を得てしまうことが人間にとってそんなに必要なことなのか、僕には分からない。自分の足で歩いて、目で見て触れて、心で感じることも大事なことだと思う。寄り道、遠回り、無駄骨万歳だ!

    二十代の頃、僕はドカドカうるさいバンド活動に夢中になっていた。売れない食えないインディーズど真ん中のバンドだったけど、本気で絶対プロになってやると思ってた。或る日、そんな気持ちが加速して、「日本を抜け出そう!イギリスツアーを決行しよう!」ってことになった。その時は事務所に属していなかったので、すべて自分たちでゼロから始めなければならなかったが、そんなことは何の苦にもならなかった。行ったからってどうなる保障もないイギリス行き。そこに向かわせたのはじっとしてられない、火の玉みたいな衝動だった。カッコイイとか悪いとかそんなんじゃなく、やらずにいられなかった。 観光ではなく演奏目的だから「飛行機での入国は、審査が厳しそうだ。船で渡ったほうがいい。」という情報を得て、フランスからイギリス目指してドーバー海峡を渡った(あとで分かったが、この情報はガセだった)。その時、船上で「俺ら密航者みたいだな。」と言いながら顔を真っ赤に上気させた仲間の横顔と、ゾクゾクする高揚感と武者震いは今でもはっきり憶えている。仲良くなった現地の二つのバンドとの貧乏ツアーは、一ヶ月ほどかけて十ヶ所を巡る旅だった。移動と寝床はポンコツ機材車、リハと本番の合間には公園でサッカーに興じ、吐く息白い明け方にパンツ一丁で街へ繰り出しバカ騒ぎしたこともあった。そうして、彼らと同じ釜の飯を食い、同じ風景を見て過ごした日々はすべてが楽しく、あっという間に過ぎていった。
    衝動に駆られて行ったツアーだったが、さて結局何が見えたのか? それは、はっきりとは分からない。ただ、今でも心の中で生々しく触れることの出来る感触がある。ツアー最後のライブのステージ上でのこと。全バンドメンバーでの演奏後、(月並みな表現だけど)国境も言葉の壁もそこにはなく、音楽とリズムで引き合わされた仲間たちとのたくさんの固い握手と、しょっぱい涙とサマにならない抱擁の、フワッとしたあったかい感触。そしてもう一つは、バンド解散後、向こうのバンドのメンバーからの「ドラムを叩きにイギリスに来ないか。」との誘いに躊躇してしまい一歩も踏み出せなかった、甘酸っぱくて触れるとざわつく湿っぽい感触だ。あんなに何処へでも行けると思ってたのに…。

    結局なんのカタチにもならず、結果を出せたとはいえないあの時間は、人生の回り道であり時間の無駄使いだったのかもしれない。でも、この時の経験がなければ今の僕はない。心のなかで今も生きてるこの時の感触は、僕を動かす力の球根となって、この店の其処彼処にしっかりと根をはり巡らせている。
    そんな風にこの店を始めてから十年が過ぎようとしている。恥ずかしながら、僕は十年間一つの場所に留まっていたことがない。これから先は未知の世界だ。今のところまったく生活は楽にならず、このままやってくる未来に向かってジタバタし続けるしか出来ないのだろうか。
    敬愛する故隆慶一郎氏が、作品『一夢庵風流記』の冒頭に傾奇者の生き様を、『日本書紀』の一節を引用して「私はこの『辛苦みつつ降りき』という言葉が好きだ。学者はここに人間のために苦悩する神、堕ちた神の姿を見るが、私は単に一箇の真の男の姿を見る。それで満足である。『辛苦みつつ降』ることも出来ない奴が、何が男かと思う。そして数多くの『傾奇者』たちは、素戔鳴尊を知ると知らざるとに拘らず、揃って一言半句の苦情も云うことなく、霖の中を『辛苦みつつ降』っていった男たちだったように思う」と表している。なんともさわやかで颯爽としていて、大好きな文章だ。僕は別に傾奇者じゃないしこんなふうに格好良くは生きられないけれど、同じ男として心揺さぶられ胸が熱くなり、そして励まされる。どんなに今の世の中の流れに逆行しようが、マイノリティな存在になろうが、「グズグズ言ってもしょうがない、選んだのは自分なんだからどんな時でも胸を張ってさわやかでいろ」って言われてるようで、前へ進むための追い風となってくれている。

    この先僕が、どこに行き着くのかは分からない。だけど日々笑ったり、怒ったり、泣いたり、悩んだりの連続が人生だとするならば、その一瞬一瞬を大切に生きていこうと思う。そしてこの店は、言葉で表現することが苦手な僕が見つけた「自身をあらわす場所」であり、真剣に遊びながら作り上げた棚を楽しんでくれる人が一人でもいる限りは、続けていきたい。ただ感じるまま、衝動に突き動かされながら。そして相も変わらず、この先に何か見えるかなって目を凝らすんだろうな。

  • 藤塚 光政 (写真家)「橋の魅力」

    橋というものは、おそらく先史時代以前から何らかの形であっただろう。風に倒された木がたまたま川の上に架かって橋の役目を果たしたり、長い時間が経つうちに流れが平岩の下を侵食して橋のような形になるなど、初めは自然に形成されたものだったに違いない。
    現存する先史時代の橋としては、イギリスの東ダート川に掛けられたスパン2.5mの花崗岩の一枚板があるが、どうやって運んだのかなど詳しいことは分かっていない。
    人為的な橋としては、紀元前2500年頃、エジプト・ギゼーのピラミッドのあたりでつくられた積み石が最古と聞いている。その後は、世界じゅうで石を使った橋がつくられたが、今も欧州に残る、ローマ帝国の軍団による戦略的な道路橋や水道橋がよく知られている。一方、流れや谷に渡した丸太、蔦や葛を使った小規模な吊り橋など、人のみが通行する橋も各地・各時代につくられたのは言うまでもない。
    このように橋は、地形、地質、谷の深さ、水流の緩急、その時代の技術、通行する人や物の重量などによって変わってくるため、一つとして同じ形はないが、大別すると、桁橋 吊り橋、アーチ橋の三つに分けられる。橋を見るとき、どれに当てはまるかを見ると、構造的な成り立ちを読み取る楽しみがふえる。
    おもしろいのは、都市的な視点で見ると、ひと時代、橋の上が街になるという例も出現したことだ。たとえば、ヴェネチアのリアルト橋は、自由都市の辺境だった運河に橋を掛け、都市の拡大を図ったもので、橋上に店舗や住宅を設け、家賃が橋の維持費になるという塩梅だった。頭のいい人がいるもので、当初、八百屋や肉屋など、一般的な店が大半だったのを、貴金属や宝石など高額商品を扱う店を誘致することで、家賃の増額による維持費の増大を図り、橋の向こう側まで街を延ばして、「高級品店」橋を繁華街の中心にしたのである。
    当時、欧州では橋上に住居を造る例がよくあり、オールド・ロンドンブリッジでは、橋の上に道を挟んだ多層の集合住宅をつくって提供し、やはり家賃収入で維持費を捻出していた。しかし、問題もあって、川面に背を向けた生活だから、これは便利とばかりに排水や糞尿もジャーと川にポイしていたからたまらない。川は汚れ、悪臭と汚物の巨大な下水のようになり、ますますジャーとポイが続く悪循環だった。おまけに火事も頻発したので、結局、橋上住居は廃止になった。人々は取り払ってみて初めて、橋の上とは川面が見え、川風が吹く気持ちのよい場所だと気づく始末だったという。
    こうしてみると、先史時代の橋、エジプトやローマ軍の遺跡としての橋、現在も活気のあるリアルト橋、今はなきオールド・ロンドンブリッジなど、それぞれアノニマスな当時の姿や社会状況が想像できて楽しい。
    その後、1779年になると、産業革命の骨格ともいえる鉄を組み合わせた「コールブルックデール橋」(通称アイアンブリッジ)が英国シュロップシャーにつくられ、橋は鉄橋の時代になった。当時生まれた詩人のロバート・サウジー(1774~1843)は、「人間がつくり出すものの中で、橋ほど景観にとけこみ、自然の美しさを引き立てるものはない」と言っている。しかし、世界初の鉄橋が出現してからちょうど100年後に当たる、1879年12月28日の嵐の夜、テイ川にかかる鉄橋が200人の客を乗せた汽車もろとも崩れ落ちた落下事故の悲劇を経て、橋は鋳鉄から鋼鉄の時代になった。最初の鋼鉄の橋は、1893年につくられ、今も巨大な姿を見せているエジンバラのフォース鉄道橋で、僕が最も好きな橋である。
    やがて、自動車の時代になるとともに高張力鋼が出現したことによって、橋の構造は鉄道橋のようにトラスを使ったものから、ゴールデンゲイト橋のごとく、ケーブルで間接的に橋桁を吊り、長いスパンを飛ばせる巨大な吊り橋へと進化していく。その後、超高張力鋼の発展で、メインタワーからケーブルで橋桁を直接支える斜張橋に至った。これらとは別に、すべてコンクリートの橋もあるが、それも含めて、斜張橋の主塔にしろ、橋脚にしろ、土木コンクリートと鋼の発 展があってこそ実現した形である。

    さて、橋好きなのでついつい前置きが長くなってしまったが、ここで、橋のデザイナーである友人・大野美代子を紹介したいと思う。
    わが国では一部を除いて、建築家やデザイナーが橋の建設に参加することがなかったが、大野美代子は1976年、歩道橋のデザインを手がけて以来、30年以上の長きにわたり、橋に関わっている。大野は多摩美大で剣持勇に教えを受け、インテリアデザイナーとして松屋インテリアデザイン室に入り、その後、スイスの建築事務所に2年勤務したのち、帰国してデザイン事務所を開設。独立当初は住宅や病院の設計や家具のデザインをしていた。
    最初の歩道橋を手がけたのは、首都高速の橋梁技術者から「歩道橋だから、人に近いデザインをしている貴女に手伝ってほしい」と声がかけられたことがきっかけだという。それは、道幅が広く複雑な交差点に架けたもので、当時、必要性を認められながらも、車優先社会の産物だと批判される存在だった歩道橋を、町の環境を保ちつつ、人々の生活に役立つものにしようという最初の試みだった。大野美代子は、橋面のパターンやカラーリング、橋上のベンチの設置、照明設備と計画、斜路と手摺と点字の融合などを提案し、橋は完成した。当時、橋の色は現場の監督が決めていた時代であったが、この「蓮根歩道橋」は土木橋梁界から賞賛を受け、土木学会の権威「田中賞」を受賞したのだ。
    これを機に、大野美代子は本格的に橋梁デザインに取り組み、横浜ベイブリッジ、かつしかハープ橋、小田原ブルーウェイブリッジ、長崎女神大橋など、数々の橋を手がけた。大野がデザインする橋は、町から野へ、野から海山へと、徐々に大型になっていき、ついにはスパンが1kmにも及ぶ橋もデザインするようになった。実にミリからキロまで、デザインが行き届いた橋が次々と日本中に完成して、今日に至っている。
    橋は大きなものになると、デザインから完成まで、多くの人との協力と、実に10年を越える歳月がかかる。建築は早くできて羨ましいと、大野は言う。
    僕は最初の歩道橋以来、大野美代子がつくる橋を撮影してきた。橋は建築と異なり、完成後も構造がそのまま見え、力の流れが読み取れることがおもしろい。橋にこれほど興味を持つようになったのも、もとはといえば大野のおかげである。
    印象深い橋は、1999年にできた熊本県の「鮎の瀬大橋」だ。橋ができる以前、対岸地区の人々は町役場や病院に行くのに、深さ100mを越える谷底まで、下りに30分、谷底に架かる危ない橋で急流を渡って、上りに40分、そこから町までさらに2時間もかかっていたという。時には急病人を担架に乗せ、その道のりを運んでいたのだ。車の時代になっても、20kmの遠回りだったそうだ。
    橋ができたとき、「悲願達成」と書かれた幕が張られていた。戸板や担架を手に、谷底の急流を渡るとき、宙を仰いだ人々の目に「ここに橋があれば……」と、見えない橋が架かっていたに違いない。
    「鮎の瀬大橋」ではこの11月、完成後10年を祝う祭典が行われる。

  • 落合 佐喜世 (エクリ)「父と子 ―タルコフスキーを訪ねて」

    ペレジェルキノ―この地と、かつてそこに住んだ人に憧れて、ロシアに旅立った。
    ペレジェルキノは、1936年に、芸術家たちの創作の場として作られた作家村である。現在もモスクワ郊外の「作家の家」として、小川や広々とした公園、並木道や林に囲まれて別荘のような家々が点在する。時代に翻弄されながらも、ここで多くの作家や詩人が創造の道を歩んできた。
    教会に隣接する墓地の澄み切った空気と辺りの静寂。木の十字架や、欠けた墓石、白い十字の墓碑などが,それぞれ緑や黒などに塗られた低い柵に囲まれて続いている。楓の落葉が積もる墓に沿う小道を、墓標を確かめつつずいぶん歩いたけれど、探す詩人の墓は見つからない。掃除に来ていた男性に聞くと、パステルナークの墓はすぐ指し示してくれたが、アルセーニー・タルコフスキーは、と尋ねてもわからない。『ドクトル・ジバゴ』、ノーベル賞を受けた(ソ連当局により辞退を余儀なくされ、後に遺族が受賞)この作品によって世界的に名の知られたパステルナークに比べて、アルセーニー・タルコフスキーは、ロシアでも詣でる人はそれほど多くはないようだ。しかしパステルナークの墓から20数歩と聞いたことがあって、その横顔が彫られた白い大理石の墓から、詩人の墓にはたやすく辿りつくことができた。長いこと想い描いてきた墓、長細い黒い大理石に十字架が刻まれた、上部が教会の入り口のように半円の詩人アルセーニーの墓。そこに寄り添うように息子アンドレイの木の十字架が、白樺の落葉にうずもれている。
    詩人の息子である映画監督アンドレイ・タルコフスキーは、ソ連体制との確執の末、イタリアに亡命し、8本の映画を残してパリで夭折した。その哲学的抒情性、精神性、宗教性に満ちた作品は、今もなお世界の人々を捉えてやまない。「鏡」「ストーカー」「ノスタルジア」などの作品のなかで、父、アルセーニー・タルコフスキーの詩が読まれ、映像にいっそうの深みを与えている。その真摯で硬質な、しかも生命感に満ちた詩に私はずっと惹かれてきた。1907年に生まれた詩人が、初めて詩集を出すことができたのは55歳のときだった。その間、スターリン時代を生き延び、ひっそりと詩を書き続けながら、アルメニア、グルジアなどの詩の翻訳で暮らしをたてていたという。ロシアの母なる大地への愛と、大切な人々との別離と喪失の痛みを秘めてなお、開かれると信じた扉を見つめ続けた孤高の詩人。 詩人が歩いたように歩きたい。松の並木道に木洩れ日がちらちら映る。セツン川という小川をわたる。のぞきこむと、青い藻が川底にゆれている。アンドレイの映画によく見られるシーンだ。映画の中のように、野原を波打たせる風が落葉を散らす。このペレジェルキノの、「羊の毛が絡まっているような草の道」と彼が形容した小道や、丈高い樅やから松の続く村道を散歩し、時に、尊敬するパステルナークや友と語り合い、教会の鐘の音を聞きながら、あの静謐にして軽やかな詩句を書きつけたのだろうか。

    ジャスミンの木のかたわらに石。
    石の下には宝もの。
    小道に立つ父。
    白い、白い日。

    これは、アルセーニーが、あのときほど幸福だったことはない、と子ども時代の至福を謳った詩である。息子アンドレイも、父が母を置いて、別の女性のもとへ去ってしまった幼年時代を、森の小さな村に母と住んだ比類なく幸福に満ちたとき、と回想している。アンドレイの「鏡」のシナリオの題は、最初、ロシア語で「光に満ちて輝かしい」という意味をふくむ「白い日」であったという。ここにも父と子の感情が響き合っている。
    アンドレイには、映画叙事詩ともいうべき「アンドレイ・ルブリョフ」という、中世のイコン画家を通して創造と人生の和合が探求された作品がある。イコンは、ロシア正教において天国を映し出す鏡といわれ、板に聖人や、マリア、キリストなどを、修道士が祈りのなかで描いてきた聖像画である。ロシアを旅し、多くのイコンに接したアンリ・マチスは、「これこそ真の民衆芸術であり、芸術探求の源泉である」と絶賛した。
    ロシア美術の殿堂、トレチャコフ美術館で、何より再会を願っていた中世ロシアのイコンの部屋を訪れた。静けさに満ちた展示室に、アンドレイ・ルブリョフの「聖三位一体」が収められている。聖杯を中心にうつむく3人の天使、瑠璃の青と透き通る薔薇色の衣。以前翻訳した『イコンの画家 アンドレーイ・ルブリョーフ』の中でひときわ心に残る作品だ。この画僧は、ロシアのフラ・アンジェリコともいわれ、その霊感にみちたフォルムと高雅な色彩で、異彩を放っている。ロシアにおいてイコンは、貧しくもささやかな暮らしを紡ぐ民衆にとって、恩寵を待ち望む崇敬の対象であった。ろうそくが点る、薄暗い聖堂内に架けられたイコンの前で祈る人々の姿は、今も変わらぬ日々の営みだ。

    この世に奇蹟はない、
    ただ奇蹟を待ち望むだけ。
    この渇き、どこからともなく現れるこの渇望にこそ
    詩人は支えられている。

    アルセーニーの詩句は、戦争や革命の困難な生活のなかで、時流にくみすることなく、くもりない心で求め続けた魂と宇宙の調和への希求として、アンドレイの作品に深く刻印されていると思う。
    地下鉄、トロリーバスと乗り継ぎ、道行く人々に尋ね続けて、古いアパートにたどり着く。出発前に、詩人の娘であるマリーナさんに手紙を書き、返事の電話をいただき、お訪ねする幸運に恵まれたのだ。迎えてくれたのは、柔和で端整な婦人マリーナさんとアンドレイの映画大学の同級生でもある夫のガルドンさん。慎ましくととのえられた居間は父と兄の肖像画や写真など、マリーナ夫妻が敬愛する父子の追憶に包まれている。
    エクリ主宰の須山実も、ロシア語はわからないが、ロシア語の音感、イントネーションに、映像と音楽とがあいまってアンドレイの映画のなかの詩の朗読に魅了された一人だ。将来、アルセーニーの詩に、それらにふさわしい挿画を添えて、詩画集を編みたいという夢を抱いている。タルコフスキー父子の思い出が詰まった部屋で、その願いをマリーナさんに話すと、「すばらしいですね、ぜひ実現させてください」と答えてくださった。マリーナさんが語るアルセーニーは、心優しい父親であり、美しい世界の創造者であるが、同時に子どものものを買うために持ってでたお金で、目にした美しい花瓶を買ってしまうような、子どものような人でもある。編集者であったマリーナさんは、父の作品を数冊の詩集にまとめるとともに、回想記も出版している。差し上げたエクリの『空と樹と』の頁を丁寧に繰って「このような本になるのでしょうか」と微笑まれた。
    ペレジェルキノの庭でもいでもらった小さい青林檎と、幾冊もの詩集を鞄に詰めた。明日、タルコフスキーが訳したアルメニアの詩人、サヤト・ノヴァの地、初めてのエレバンに赴く。

    tarkovsky

  • 佐伯 誠 (文筆家)「it is a piece of highest wisdom」

    「教師はたった一人しかいません、生きることが教師なのです」といったのは、やがて路上に神をみつけることになるヘンリー・ミラーだ。晩年になってもブタのように太ったりしないで、slimな少年っぽさをのこしていたのは、ひとえに自転車への熱中のおかげかだったかもしれない。若いときには、自転車に乗ったまま、食べたり、飲んだり、眠ったりすることができたというが、ずいぶんなジジイになってからもdrop handleの自転車に乗っていたようだ。ヨコハマのZAIMで、鳥打ち帽にサングラスという風体で、えらくシンプルなハンドルに手をおいたミラーの写真をみたとき、これこそ晩年のスタイルだ!と昂奮してしまった。水彩画をならべての展示だったが、どうしてだか一点だけ写真が掲げられていたというわけだ。どうやら、本の表紙を大きく引き伸して複写したものらしい。どうしても手に入れたくなって、訊いてみると持ち主はミラー夫人だったホキ・徳田さんとのこと。いつだったか、六本木の酒場でミラーとのことをうかがったこともあったから、たどれない縁じゃなさそうだ。

    大晦日にZAIMでホキさんのライブがあるというので、そのときに直談判することにして、とりあえずMy Bike & Other Friendsという本をとりよせてみることにした。大晦日にホキさんがひと息入れたところで、声をかけてみると、いつぞやのことも憶えていてくれて、写真についても’複写して送ってあげる’とアッサリ約束してくれた。もっとも、もう本を手に入れていたので、その約束については、ホキさんの口ずさむバラードのひとくさりだと聞いておくことにした。だいたい、ホキさんの気まぐれについては、さすがのミラーもすっかりふりまわされたことだから。ホキさんはミラーのことを、比類ない文学者というよりは、あつかいに困ったdirty old manとしか思っていないようで、そんなところをミラーが気に入ったのだろう。

    My Bike & Other Friendsという本は、すっかり老いぼれた作家が、日なたぼっこでもするように、友人たちのことを回想するというもので、自転車についても一章がもうけられている。そればかりか、自転車こそがmy one and only friendだとまでいっているのだ。おどろいたことに、ミラーが乗っているのはギアもブレーキもないpistで、そんなジジイが走ってきたら、そこらのアンチャンが目を丸くするだろう。ミラーが人生の秘法としてあげるのは、ひとつはハッハッハッと笑い飛ばすこと。もうひとつが、サドルに跨がること。自転車に乗ることは、憂いをふりはらうドラッグであり、精神分析にかかるようなものだと手放しだ。

    ミラーの本を読みふけったのは、ずいぶん若いときのことで、もう読み返したりすることはない。けれど、捨てないでとっておいた本もあって、ボロボロになったGrove Press版のQuiet Days in Clichyがそうだ。おそらくこれからも手もとにおいて、気がふさいだときに開いたりすることで、救いの神(デウス・エキス・マキーナ)になってくれるだろう一冊だ。冬のパリへ行って、Clichyのあたりをクルマで走ったとき、闇のむこうに目をこらさずにはいられなかった。もうひとつは、ブーレーズ・サンドラールの”世界の果てにつれてって!”にミラーが寄せた滾々とわきあがるような序文だ。これを読んだとき、ヘンリー・ミラーが跪いていることに胸をうたれた。’サンドラールはぼくをひどくぶちのめした。一度ならず、何度もだ。そしてその打撃を顎に食らうとき、ぼくはかならずしも素人ではないのだ。’とまでミラーにいわしめたサンドラール! 褒めることをケチらないのが、われらのミラーのすばらしいところだ。片腕のサンドラールに、’きみが差し出す暖かい左の手を握ろう’というところで、胸にこみあがるものがある。

    ほんとうのところ、作家なんかにロクな奴はいないだろうと思うし、友とするのにふさわしくない手合いだとついつい蔑んでしまうのは、ヘンリー・ミラーを読んだからだ。そのミラーが敬愛してやまないサンドラールは、述作は強いられた労働だとうそぶく、とびきりの放浪者だ。その風貌を知りたければ、ロベール・ドワノーの撮ったポルトレ(肖像)がのこされている。口にくわえた短いタバコの煙にしかめっつらをする、いかにもミリュー(界隈)に親しんできたらしい面魂。そのサンドラールが、’放浪にまさるものなし’というのだから、これは胸に銘じておかなけりゃなるまい。

    NYのメッセンジャーたちは、cars r coffinsクルマは棺桶だ、とミもフタもないことをいうが、自転車好きのミラーが生きていたら、ウマいことをいうじゃないかと喝采したことだろう。ミラーの一党ともいえるブコウスキーは、クルマで走り回るニンゲンを、風に吹かれて転がっているtumble weed(転がり草)だと笑ってみせた。いずれは、ニンゲンには脚がなくなって、尻をゆすって行き来することになるだろう、とマンガみたいなことを占ってみせてくれたっけ。

    生の命令には従うけれど、そのほかのことについては、不服従であること。ミラーも、サンドラールも、そしてブコウスキーも、棒のようなビルや、箱のようなクルマや、塀にかこまれた家なんぞ、クソ食らえ!ということでは盃をかわす仲間だ。それぞれの自転車に跨がって、サッサと逃(ズラ)かるに決まってる。

    miller

  • 須山 実 (エクリ主宰・編集者)「Fromラストサムライ (3/3)」

    三代隔てれば血脈の痕跡は消えるともいうが、どうなのだろう。いずれにしても、世が世でなくて幸いではあった。泣き虫長じて中学生になって読み出したギリシャ神話は盛大に流される血に咽て読み進むことができなかった。文字のなかとはいえ貧血気味の軟弱者たるぼくは血の匂いに耐えられなかったのだ。
    「・・・ゴルギュティオーンという、プリアモスの勇ましい息子の胸へ、矢をうち当てた。打たれて頭を、さながら雛罌粟の実のように、片っぽうにかしげてうなだれた、それは花園にあって、種子をいっぱいかかえたのが、春の雨に濡れひじて重くなったものである。そのように、片いっぽうへ、兜の重みに引かされて、ゴルギュティオーンは頭を垂れた」
    凄惨な殺戮の連続が見事な比喩で畳み掛けられるホメーロスを味わうようになるのは、もっと後になってからだ。
    血には拒否反応があっても、14歳の頃見た滅びゆく「カルタゴ」の映画にはとても魅せられた。カルタゴ側は城壁に迫るローマ軍を一度は平原の戦いで撃破するが、内通もあってついには浸入を許し滅亡する。女たちが髪を切って弓の弦にしたというエピソードを読むに及んで、熱き思いで陥落後のカルタゴの少年を主人公にした冒険小説を構想したりもした。「滅びの美学への傾倒」というほどのこともなかろう。
    大根役者ヴィクター・マチュアが主演した「サランボー」や「ハンニバル」もその頃喜んで見た映画だ。それゆえ、フローベールは『ボバリー夫人』よりも『サランボー』の方を繰り返し読んだ。とはいえ、片手落ちも甚だしく『ハンニバルの象つかい』という少年小説があるのを知ったのはつい数年前だ。
    要するに西洋チャンバラが好きだったので、高校生になったとき剣道ではなくまた空手でもなく、当時はおそろしくマイナースポーツだったフェンシングを始めた。弱くはなかったけれど、さして強くもならなかった。やはり世が世ではなくて幸いだったのだ。弱くなかったのは得意技をもっていたからで、強くならなかったのはこの技を破られたときの「二の太刀」を使う俊敏性と創造力に欠けていたからだ。粘りがなかったわけで、これでは剣士として大成できない。

    サムライの後にはしばしば美学とか意地とかが付いてくるのだが、美しいサムライの姿はと問えば、深夜放映で見た市川雷蔵の時代劇がいつでも思い浮かぶ。雷蔵扮する下級武士はふだん山里で花づくりをしている。ことが起こり抜群の腕の持ち主である彼は剣を振るうため、物置に隠し持った刀を取り出しにいく。タイトルも覚えておらず物語はすべて忘れてしまって、この部分の記憶とてかなりあやしいものだが、思い出されるのは鮮やかすぎるほどの花の色と菰にくるまれた刀、そして凄艶ともいえる雷蔵の顔だ。花と散るのではなく、花と生きるサムライは、まあ雷蔵だからこそさまになるのだとはいえる。
    泥田や落ち武者狩りの竹槍で果てるのは無様な死ではない。そこに美醜はなく、必敗の運命に抗らう鼓動があるだけだ。元亀天正の頃と変らぬ装備でガットリング砲に身をさらすサムライが美しいとも潔いとも思えないが、愚かとはいえない。敵も味方も知った上での戦は必敗ではあっても生の放棄ではないからだ。それは間違えなくサムライの生き方というものであろう。敵も味方も知ろうとしなかったノモンハンの司令官たちとは違うのだ。
    ガトリング砲の弾を呑まされるより喉の布を濡らしながら酒を呑み続けた男を、血を受け継いだ者としては全面肯定したいと思うが、最期の図としてはせめて花のもとにてと想像したい。それでパーフェクトというものである。

  • 須山 実 (エクリ主宰・編集者)「Fromラストサムライ (2/3)」

    奇跡的に生還したサムライ、デンパチローは酒とともに無為に生きたらしい。生活のため下駄屋を始めた曾祖母に「サムライが履物など扱えるか」と言い続けたという。しかし元サムライの妻の商法は成功したようだ。
    デンパチローに忘備録の類はないが、子だけは生した。そのひとり、わが祖父は次男である。サムライの身分は消滅したとはいえ、祖父の幼少年時代は「サムライの子は云々」という規矩はことあるごとに示されていたのではなかろうか。痩せても枯れても呑んだくれであっても、死中に活を得てしまったサムライの一言なり一分なりの口伝があって欲しかったが、奇跡はデンパチローに重すぎたのかもしれない。唯の人は運命に謝することもなく、ただ生き延びたわけだ。知る限り、祖父にサムライの血と教えが色濃く伝わったとは思えない。
    旧来の仕来り通り、家督は長男にとなり、祖父は学問を授けられた。帝大出の官吏となったが、よほど問題があったのだろう。出世には縁遠かった。自らを「神経過敏」と称していた。書棚には漱石と吉川英治があったけれど、読書する姿を見たことはない。いつも時間をかけて新聞二紙に目を通していた。手帳に書き物をしていたが、不覚にも、祖父の死後残しておくことをしなかった。この祖父のぼくにたいするしつけは竹の物指で手の甲を叩くことだった。自分が泣き虫だったことはよく覚えているが「男は泣くものじゃない」とは言われなかった気がする。
    風邪をひいて寝込んだある日、押入れにあるはずの短刀を出してくれと、祖父はしきりに母に頼んだという。埃がたつから風邪がなおってから探しましょうと答えたその翌日、彼は亡くなった。死出の守り刀にしたかったのだと、遅ればせに気づいたが、棺の上には果物ナイフが代用で置かれた。いざというとき切腹もできないと、残った者たちは無情なことを言った。唯一、サムライらしき話ではある。
    祖父には早世した子が一人いたそうだが、長じたのは三人。男二人、女一人の三人の子どもの二十歳のころの写真はお互いそっくりである。十九になる前結核で亡くなったという伯母の顔は父が女装したかと思うくらいだ。デンパチローの顔の骨格が伝わるのはこの三人までで、ぼくの頭蓋骨は別系統の血を受けた。父は一卵性双生児だったから、男二人の顔は見分けがたく、空手の型を演じる稽古着姿の青年の写真をぼくは父と見誤った。それは慶応大学で空手部の主将を務めたという伯父であった。伯父は学徒動員で海軍に召集され対空砲士官として空母「雲竜」に乗り、船は航行中米軍の機雷に触れ轟沈したという。三千人の乗員の大半が亡くなり、伯父もその中にいた。少しずつ薄まっていくサムライ・デンパチローの血はどちらかといえば、この伯父に多く伝わっていたような気がしてくる。
    早稲田に進んだわが父は肋膜が幸いして軍隊行きを免れた。父は戦後になって何度か「戦死したと聞いたが生きていたのか」と町で声をかけられたそうだ。
    出撃前に一時帰省した伯父は父に「日本は必ず負ける。兄貴は身体が弱いのだから絶対に軍隊に取られるな」と繰り返したという。声なき声などというものはない。一人ひとりの声があるのだ。なけなしの艦船を集めた最後の連合艦隊兵士ならずとも、昭和19年ともなれば、多くの者たちがしのびよる敗北を予感していただろう。そうでないのは、強い祖国と大人の言葉を信じたい軍国少年だけだった。
    デンパチローの曾孫たるぼくが遊学を終え、就職のため面会した出版社の社長はぼくの名と顔を見て絶句した。彼は慶応大学の空手部で伯父の後輩だったという。おまけに海軍に入り、カッター訓練用に配られた合羽には伯父の名前があった。
    「なんということだろう。君が双子のお兄さんの子どもというわけか。君の伯父さんの突きは鋭かったよ」と言った。「わだつみの会」の理事の一人だったこの社長に請われて、父の手元にあった伯父の手紙が会報に掲載された。投函せずに手渡された手紙だったのだろう、そこにも「日本必敗」の文字があった。

  • 須山 実 (エクリ主宰・編集者)「Fromラストサムライ (1/3)」

    数十年ぶりに脚光を浴びることとなったジョージ・オーウェルに呼ばれて、あの人のことを思い出した。
    センバ・デンパチロー・タダマサ。
    曽祖父の名だ。子供の頃住んだ洋間の壁に、紋付袴二本差しのデンパチローの写真が掛けられていた。二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。写真機に向かって斜めに腰掛けた彼は、いささかやんちゃな感じの口を引き結んでいる。首には白い布が巻かれていた。伊予松山藩士だったデンパチローは西南戦争に従軍し、西郷軍の銃弾が喉を貫通したのだと祖父から聞かされた。
    「弾丸が首を貫通したと知って、すぐに私はもう駄目だと観念した。人間でも動物でも弾丸が首の真ん中を通り抜けてなお生き残るなどという話は、一度も聞いたことがなかった・・・・・・自分が死ぬと思ったのは、およそ二分間くらいだったに違いない。そしてそれがまた面白い――そんな時に人間の考えることがどんなものであるか、それを知ることが興味深いという意味である」と書いたのはジョージ・オーウェルである。義勇軍兵士としてスペイン内戦に参加した彼は、塹壕でファシストの狙撃兵に撃たれたのだ。
    オーウェルのルポルタージュ『カタロニア讃歌』でこの文を目にしたときはじめて、ぼくはヒイジイサンが拾った命を思い、辛うじて落とされずに自分まで手渡されたバトンの重さに気づかされた。小学生のころはたぶん、「うちはサムライの家系だったんだ」と男の子らしく鼻ふくらませただけだったろう。
    「それは午前5時、胸壁の角でだった。その時間がいつも危なかった。というのは、われわれの後ろ側から夜が明けるので、胸壁の上に首を突き出すと、空にはっきりと輪郭が浮び出るからだ」 オーウェルが撃たれたときの状況である。彼は「弾丸にあたった経験は総じて大変興味深いので、詳細に述べておく価値があると思う」として記録を残した。
    デンパチローはといえば、彼は若年にして目録を受けていたというから、戦の場では極めてリアリストであったはずで、ガトリング砲に向けて駆け馳せていくサムライではなかったろう。優れた剣客たる要諦は進退を知ることに尽きる。死に際は見事にと期してはいても、徒に死に花咲かせようとは考えなかったにちがいない。それにしても、わが国最後の内戦での経験を彼は誰かに伝えようとしたことがあったのだろうか。

    日常的に死があり、錯綜した党派間の確執の中にありながら、オマージュのタイトルにふさわしく『カタロニア讃歌』全編を貫いているのは人間への信頼であり、スペインに対する深い想いである。「にもかかわらず信じる」という眼差しに裏打ちされた文は緻密で潔い。人間の尊厳という精神が息づいている。
    ある日、敵の塹壕深く攻め入っていたオーウェルの眼前を慌てた敵兵が走っていった。男は服を着終わっておらず、ズボンをおさえながら血相を変えて駆けていく兵士をオーウェルは狙撃しない。「ぼくはそこへ”ファシスト”を撃ちに来ていた。しかし、ズボンをおさえている男は”ファシスト”ではない」というわけである。
    この話は『チボー家の人々』に書かれたエピソードを思い起こさせる。第一次大戦のいつ果てるとも知れず続く独仏の塹壕戦のさなか、夜のパトロールに出たフランス兵士の主人公は道端で眠りこけるドイツ軍兵士を見かける。しかし、フランス人たちは敵兵が目を覚まさないよう、そっと立ち去るのだ。
    ロジェ・マルタン・デュ・ガールの大河小説『チボー家の人々』はかつて町の本屋さんでいつでも見かけた。白水社版の「黄色い本」はわが家にも、結婚前の家人のところにもあった。40年以上前のことだから、読書事情は大いに変わる。『チボー家の人々』を読む女学生が主人公の、高野文子のコミック『黄色い本』はじつに素敵な話で、ぼくも幾人かにプレゼントしたが、『1984年』のごとく書店で復活するまでには至らなかった。
    今また書店の平台に並んだオーウェルの『1984年』は絶望的な苦さに満ちた本だ。これほど、気の滅入る本は以降読んだ記憶がないほどで、1972年に文庫版で読んだ後、無明の帝国を「体験」させられた痛覚がずいぶん長く尾を引いた。一望監視システムの下で人間はなすすべもなく立ち尽くす卑小な存在であることをいやおうなく突きつけられたのだ。
    クンデラの『存在の耐えられない軽さ』やアブラーゼの映画「懺悔」など、粛清、密告、相互不信渦巻くスターリニズムの世界や全体主義の恐怖を描いた錘の深い優れた作品は少なくないけれど、心身を直接抉られることはない。
    逃げ場のない閉塞空間は江戸期の一寒村にも、毛沢東がにらみをきかせる成安にも、1986年の都内の中学校にもあった。過去未来を問わず存在し続けるだろう。そのなかにあって、人のこころは壊れる。最愛の人も裏切る。人の暗部に目を縛り付ける近未来小説は途方もなく苦かったのだ。
    同じ作家の手になる『カタロニア讃歌』と『1984年』とでは、まったく相反するネガポジの印象がある。「裏切られた革命」とはいえ、スペイン市民戦争は鮮烈な生命力を感じさせ、怒りもまた光り輝いていたように思える。「人民戦線」そのものにロマンティックな響きがあったのかもしれない。なにしろ、『誰がために鐘は鳴る』があり三人のパブロがいて、虐殺されたロルカの名があったのだ。
    オーウェルには格好の水先案内人がいる。山田稔のエッセイ「わがオーウェル」(特別な一日―読書漫録)は「細部の観察」にこだわり、なぜ書くかいかに書くかを真摯に問い続けたオーウェルの文の品位(decency)と魅力へのオマージュで、オーウェルへの確かな手引書である。
    引用される文は背後に潜む無尽蔵の大鉱脈を暗示する一粒の原石だ。時代の醸す勢いで読んでいたところもある『カタロニア讃歌』を改めて再読したくなるし、取り上げられている「象を撃つ」や「絞首刑」などのエッセイにも手を伸ばしたくなる。

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