1942年12月2日アメリカ、シカゴ大学フットボール競技場スタッグ・フィールドの観客席の下にあるスカッシュ・コートに、原子炉シカゴ・パイル1号は作られた。
エンリコ・フェルミら科学者たちが見まもる中、シカゴ・パイル1号は午後3時25分、史上初の臨界に達し、すぐにワシントンの計画本部ジェームス・B・コナントへ暗号文の電話がかけられた。
Compton: The Italian navigator has landed in the New World.
(コンプトン:イタリアの航海士が新世界へ到着した)
Conant: How were the natives?
(コナント:現地人の様子はどうだい?)
Compton: Everyone landed safe and happy.
(コンプトン:みんな無事に上陸して嬉しい)
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東洋の国(トーヨーノクニ)と思ったコロンブス。1492年。
クリストファー・コロンブス、アメリカ大陸を「発見」。
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2011年夏、私はクリストファー・コロンブスがかつてくらしたことがあるという島、ポルトガル、マデイラ諸島のポルト・サント島へと向かっていた。
かつてコロンブスはその島の領主の娘フェリパ・ペレストレリョ・エ・モイスと結婚していたのだそうで、その家はCasa Colomboカーサ・コロンボ、クリストファー・コロンブス・ミュージアムとして残っているという。
私はそこで展示とワークショップをすることになっていた。
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リスボンから飛行機でポルト・サントへと到着する。
夜だったので空からは真っ暗な中に小さく黄色のライトがぽつりぽつりと灯っているのだけが見えた。
TAP PORTUGAL 1739便。
飛行機は犬をバッグに入れて抱えた人や、子ども連れやベビーカーを押した人ばかりで混み合っていた。
夏のヴァカンス・シーズンをこの島で家族と過ごすのだろうか。
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ポルトガルの友人マヌエル曰く、ポルト・サント島の周りの海は、潮の流れを学ぶのに絶好で、コロンブスも海の読み方をここで知ったのだとか。
マヌエルは、リスボンでは私にヴァスコダ・ガマの子孫だという女の子を紹介してくれた。彼女は金髪のボブで細い縁の眼鏡をかけて、タイ料理店でウエイトレスのバイトをしていた。
常に手からはタバコを離さず朝からビールとコーヒーを交互に飲み続けているマヌエルの言葉の真偽の程は果たして不明だが、ここがかつての「新世界」へと繋がる歴史を持つ場所だということには疑いがなく、目眩を覚える。
コロンブスの家と庭は白い石造りで、鮮やかなピンク色のブーゲンビリアの花が満開だった。
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コロンブスも船を寄せたのだという船着き場を訪れる。訪れるといっても小さな島なので10分程歩いたきりだったが。
船着き場のコンクリートの防波堤には、そこへ寄港したヨットや船のマークと名前と年号がずらりとスプレー・ペイントで並んでいた。
USA CARIAD Nov 2004
1998 STAVANGER Sofie
AHES 1992 LA ROCHELLE ILF DE RE
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年号を遡るように眺めながら、すぐわきの浜に寝そべる。砂浜は黄金色で、それは9kmも続いている。海は遠浅で青く波は静かだ。
近くの出店で買ったBolo do cacoというピタのような重いマデイラのパンを食べる。パンにはガーリックバターがたっぷりと染み込んでいる。
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1892年、アメリカ、シカゴではコロンブスのアメリカ大陸発見400年を祝して、シカゴ万国博覧会が開かれた。
記念のコインや卵形のグッズが作られた。
チェコの作曲家アントニン・ドヴォルザークは新作を依頼され「新世界より」を作曲する。日本では「遠き山に日は落ちて」で知られる交響曲第九番である。
ホワイト・シティとよばれた白一色の街並の会場は何万個もの白熱電球でライトアップされ、巨大な観覧車やオール電化のキッチンが並ぶ。
はじめて大規模に電力が導入された万博だった。発電は蒸気エンジンで行われた。
「コロンブスの卵」は銅で作られ、卵は割れることなく磁力でまっすぐに立てられた。
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夏が終わり、私はマデイラ酒を鞄に詰めて飛行機に乗り込み、アムステルダム経由で東京へと戻る。
茶の葉から放射性セシウムが検出されたニュースを読む。
成田空港へと飛行機が到着する。
私たちの「新世界」。