1.
美術作家ジョゼフ・コーネル(1903-1972)は、箱の中に貝殻や瓶、ブロマイドや切手、鳥や星座を閉じこめた作品ばかりを作り続けた。この箱は、どこか悲しく高貴で、郷愁をさそう未知の趣きを宿して美しい。「コーネルの箱とは何なのだろう」という思いが頭の片隅をかすめながら、これまでその美しさの由来がよくわからないままだった。最近翻訳された伝記(デボラ・ソロモン著、林寿美、太田泰人、近藤学訳『ジョゼフ・コーネル 箱の中のユートピア』)を読み、コーネルの生涯を知った。そしてあらためて、コーネルの人生と箱について思い返してみた。
私はふだん精神科の臨床に携わっているので、統合失調症(精神分裂病)という精神疾患について考えることが多い。この伝記によれば、コーネルは、統合失調症親和的なパーソナリティーの持ち主であったと推測できる。好意を抱いた映画館の切符売りの少女に花束を渡すこともできないほど、内気で傷つきやすい青年だった。発病こそしていないものの、コーネルの実人生は、おそらく不自由の連続だったであろう。
2.
統合失調症を病んだ人は、とてつもなく不自由な状態にさらされる。根源的に「私」という主体がうまく作動しない病の故である。たとえていうなら、知らないうちに他人が自分の家に土足で上がりこんでいるようなものであろう。そのため、自らの主体はつねに他者に読まれ、先回りされてしまうという異常な体験が発生することになる。
しかし、主体の選択に代表される「行為としての自由」というレベルより、もっと深層を見つめてみれば、統合失調症の病者は、自由の状態の極限を示していはしないか。「自由の体験」とは、自己に閉ざされた有限な人間が、裸の状態で他者を迎え入れ、無限に触れることなのだから。
ジャン・リュック・ナンシーがいう「自由の経験」とは、そうした他性に対して自らの存在を裸で開いていくことを意味しているであろう。イヴ・ボンヌフォワなら、「真の場所」と呼ぶ。「極限的なこうした場所(真の場所)の美しさ。そこでは私はもはや私には属さず、……ついに、私は根底的に自由になる。そこではいかなるものも私にとってよそよそしくはないのである」(イヴ・ボンヌフォワ『不確定なもの』)。
だが統合失調症の病者は、他者に根源的に開かれすぎてしまっているために、この美しい場所を味わうことができない。それどころか病者は、他人に開かれすぎた自己を防衛しなければならず、自閉する。一方、自己に縛られた人間が、他者や無限へと自己を差しだすことが「自由の体験」であるとするなら、自由を目指す人間と統合失調症の病者とは、まるで正負が入れかわった鏡像のようにそれぞれを映しだす。同時に、「不自由から自由へ」と、病者の「自由から不自由へ」とは、自由と不自由の極限的な二律背反を示してもいる。
人は、自由と不自由とが共存したなかで生きている。あるいは、そのどちらもが折り重なっているなかで運動し、消尽していくことこそ、「生」にほかならない。ことに、「性(エロス)」の領域では、自己の蕩尽が現われやすい。だからこそ、ジョルジュ・バタイユは、この「至高性」を「恍惚」という言葉で言い換えたのだった。
3.
人とうまく交わることができずに閉じこもりがちだった青年コーネルは、ずっと童貞のままだった。ふくろうのような店主がいるマンハッタンの古書店で、気に入りのブロマイドや絵葉書や版画を陳列箱から捜しだし、もう一方で、マックス・エルンストのコラージュに触発されたとき、コーネルは、おそらく羽ばたく自由を得たのだ。それは、箱の中で異質なものが出会う作品となっていった。異質なものの最たる領域のひとつが「性」であれば、コーネルの箱の中にエロスが封じこめられているのも当然であろう。
実際の人生では、不自由でぎこちない生活しか送れなかったコーネルは、箱の中では自由だった。過去を集めて未来を創造した。有限を組み合わせて、箱の中に無限を造りだした。箱という枠がそれを可能にした。箱への逃避とは防衛的な自閉であり、箱は外界を隔てる枠だった。だが、この箱の中には自由があり、コーネルはそこに「青い半島」という美しい場所を仮想した。
私には、「生」の自由と不自由をコーネルの箱が体現しているように思える。さらに、こう言ってもよいかもしれない。「箱の中の自由」とは、けだし「人生」そのもののことなのであると。