リレーコラム

  • 林崎 徹「ウル ナナム 8」

    (不定期連載)

    8

    走り降りてくる黒雲が稲光に縁取られ、たちまちもとの闇に戻った。吹く風は水と土の匂いがして、長衣が重く感じられる。
    「降ってくるな。この先にある穴蔵でやり過ごそう」
    土地勘があるとはいえ、アシュの足取りは闇の中でもためらいがなかった。俺はアシュの背で揺れる髪の音が聞き取れるくらいの近さでついていった。
    「父上と覚師が酒宴をしている見張塔だが雨の時はどうするのだ」
    「いつもはきっちりと覆われている。酒宴のために開いたのさ」
    「それはいい。屋根が動くのか、蓋を取るみたいに」
    「あれをつくりあげた者の骨はもうとうに土埃になっているけれど、直に教えを乞いたかったな。事あれば籠城もできるだろう。攻城槌も跳ね返せるにちがいないが、頑丈なだけではない。書板もたくさん残っているぞ。父も私も字は読めないが、ハシース・シン様は何度も長い時間を過ごしていた。読むというのは、それほど面白いことなのか」
    「覚師のように食うことを忘れてしまうことはないな。俺の力が足りないせいだろう」
    「ここで飛び降りるからな。背丈より少し高いだけだ」とアシュは言い、そのまま真下に身を落とした。
    一呼吸おいて覗くと、アシュの姿が見えなかった。やわらかな着地の音を耳にしたばかりだ。目を凝らすと、香油が匂うような気がした。すっかり星明かりがなくなっているので、夜の川に飛び込むような心地だった。俺の足が地につく前に、白い光が真横に走り、斜面を一瞬照らし出した。一面の葡萄樹が人の群れのように見えた。いや、本当に葡萄樹だろうか。
    間をおかずに、目の前で夜の獣の重い目蓋が開いたように、あたりが濁った赤い光に浸された。一本一本の葡萄樹が透き通った人の殻をまとい付かせている。目蓋がゆっくりと閉じられたように闇が戻り、すぐに風にのって雨が落ち出した。俺は次に現れるものを見逃すまいと闇を見つめた。
    「入れ」と首の後ろでアシュが言った。「そのまま横に四歩移動して屈むと入り口がある」
    言われた通りに動くと、土手に小さな穴が穿たれているのがわかった。穴の前にしゃがんで、しばらくの間待ってみたが雨音が強まっていくだけで二度と風景が開くことはなかった。目の中に残った像が俺の気持をざわめかせている。
    火打石が鳴り、木の燻る匂いがした。炎が立ち上がると、少し雨の音が遠ざかるようだった。俺は火の前に坐った。着衣は思いのほか濡れていて、湯気が感じられた。
    「ここも見張塔と同じか」
    「執拗な敵にいつも囲まれていたのだろうな。先の住民はボルシッパと違ってこの地を守ることに工夫を凝らしている。ここは段丘の真ん中あたりで見晴らしがよく街道まで見渡せる場所だ。この奥には烽火台がつくってある。葡萄の酒瓶とオリーブ油もあるぞ。もちろん、われわれが運び込んだものだ。ディリムはやはり水にしておくか」
    「やはりということもないが、水を貰うよ」
    中壁の奥に貯蔵場所があるのか、アシュが火の場所を離れたので、俺は立ち上がり拳ほどの壁穴から外を覗いてみた。目に入るものはなにもなく、煙る水の勢いが目を洗うだけだった。
    編み籠に盛られた干し葡萄と山羊をかたどった素焼きの水差しを火床の端に置き、次にアシュは雪花石膏でつくられた筒を抱えて戻ってきた。俺たちの肘丈くらいで、先端に吠える獅子の彫り物が付いている。杯に注がれた液体は黄金色で、これまで嗅いだことのない芳香がひろがった。
    「私は少しこれを飲む。ハシース・シン様によれば酒神の言伝のごとき味だそうだ」
    「香を飲むだけでも言伝がわかるな」
    「神官みたいに気味の悪い言い方をするな。そもそも書記と神官は似た物同士か」
    「どちらも文字を読むのはいっしょだが、神官が何をするのか俺は知らない。俺は文字を学び、ナブ神に遣える者だが書記ではないぞ。なるつもりもない」
    「書板の土になった言葉はいわば水のなくなった言葉ではないか。水のないものは死んだものだ」
    「刻された言葉は死んだ言葉ではない。眠っているだけだ。必ず目覚める時がくる。読むことがそのまま刻された文字の目覚めにつながっているわけではないが」
    アシュは鼻の前に上げた杯越しに俺を見つめた。そよとも動かない眼差しは水鏡と同じだ。アシュの顔に俺の顔が映りこんでいくように思えた。俺は目をはずさないよう努めながら、手にしている乾し葡萄を枝ごと火にくべた。
    「ディリム、さっき見張塔で、もっと顔をよく見せてくれと言ったのはどういうわけなのだ」裁き手のような目をしたアシュが小声で言った。
    「この炎で今よく見たよ」
    「何がわかった」
    「聞きたくないのだろう、聞かせたくないのは聞きたくないのと同じだ」
    「小理屈を言うな。お前は女のような体で神の戦士のようにふるまい、まっすぐな目をして女々しい口をきく」
    杯の縁を噛むようにしてアシュは少しだけ飲むと、残りを火に零した。炎の色が変わりアシュの顔が遠ざかった。
    「夢の中で俺は清々しい青に包まれていた。空の青みだと思っていたが、俺の背にあった者の瞳を俺は感じていたわけだ」
    「私の眸は母と同じ色だ」アシュは放り投げるように言った。
    「アシュの顔が父上と異なっているのは眸の色だけなのだな」
    我にもなく、瀬踏みする口調になった。
    「父はよく魘される」とアシュが顔を俯けて囁いた。
    「殿軍で戦ったのだから、それは惨い有様だったろうな」
    「戦の夢ではない。ここからウルクに戻る前、母は夢の種を落としていった」
    キッギアの魘される声を聞き、苦しげな顔を目にしたからといって、アシュが父の夢に忍びこめるわけではない。それに夢の指差す先に探し物が見つかることはなく、川にはまる夢を見たからといって、水辺に危険が潜むとはいえないのだ。

    (つづく)

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