フランスに行きたしと初めて思ったのはパリにではなかった。何をおいても見に行きたかったのはブルターニュ地方に残るカルナック列石。
低空飛行によるカメラは素早い鳥の目となって、1キロ以上続くという石の連なりを追っていた。吉田直哉演出の「未来への遺産」で見たブルターニュの巨石群の映像は胸震えるもので、文字通り「魂消て」しまった。旅心などという穏やかなものではなく、かの地で魂を拾い戻さなければならないとテレビ画面に目をこらしていた。旅への誘いは写真や映像から大量の情報を得るけれど、ひとつの画像の力によってという経験はこのカルナックだけである。
ものの見かたは実にいろいろあるもので、この石群をムーミンに出てくる「ニョロニョロ」みたいだと言った女友達がいた。畏怖を感じさせるカルナック列石と手足のついた千歳飴みたいなニョロニョロ。人はだれでも自分の好みを透かして連想を繋いでいくわけだ。ひたすら海をめざすところが同じということなのか。
カルナックのフランス行きのために用意したのは、1976年版ブルーガイド海外版『パリとフランス』だった。コンパクトなポケット版でありながら、小ぎれいなカラー写真を貼り合わせて表層を舐めるだけというおざなりなところがなく、建築や人物、おすすめスポットが幅広く取り上げられていて、それらの由来や解説も充実していたように思う。
このガイドのカルナックの頁に「すいかずら」と題する「やさしききみよ、われらの身も同じ、われなくしてきみなく、きみなくてわれなし」という詩が載せられていた。12世紀の女流詩人マリ・ド・フランスの作品でトリスタンとイゾルデが主題だった。小説を読み始めて以来、いわゆる「不倫もの」を好きになれなかったけれど、トリスタンだけは例外だった。この好みの偏向を「奪う側には行かない、行けない、いやむしろ奪われる側に行くだろうという予感」と評した奴がいた。なるほど。
ガイドを読む数年前、鎌倉雪ノ下の奥まったあたりでその花の香に出会っていた。小暗い土手から垂れ下がるその花はつややかな濃緑の葉むらの中で仄白く光っていた。ぼくは飛び上がって花の蔓をつかみ引き抜いた。長い蔓をつけたまま、花の香を味わいながら歩いていると「あらめずらしい。どこでみつけられました」と通りかかった銀髪の婦人に話しかけられた。ぼくは場所を説明し花の名を尋ねた。
「すいかずらですよ」と聞いてびっくりしてしまった。
都会育ちのせいもあって、とりわけ植物の知識がブッキシュだったので、すいかずらの名は荒々しいフォークナーの小説の一場面を通して知っているだけだった。古都のひんやりとした切り通しでひっそりと咲く花とアメリカ南部の庭で強い匂いを放つそれとがすぐに結びつかなかった。鎌倉のすいかずらはマリ・ド・フランスの短詩に似合っていた。
かすかに薄日が射す夏のおわりの朝早く、ぼくはカルナックにやってきた。あたり一面が黄色い花をつけたエニシダにおおわれていた。メンヒルと呼ばれる石の大きさ高さはさまざまで、腰丈くらいの小さなものもあれば、数メートルの巨石もあった。それらが延々と西へ向かっている。すべての石は軽やかに立っていて、ニョロニョロのようにいっせいに海に向かうというイメージも的外れではないように見えた。
「大きくなっていく石の灰色」とセーヌ川に入水自殺することになるドイツ系ユダヤ人、パウル・ツェランは「メンヒル」と題する詩を書き出している。
「明るい翼で お前は浮んだ、朝早く、エニシダと石の間に小さなシャク蛾が」
ぼくはエニシダと石の間をゆっくりと歩いた。いっしょにバスをおりた十人足らずの人たちの姿はいつの間にか見えなくなっていた。石器あるいは青銅時代から立ち続けている花崗岩の表面は思いのほか冷たかった。太古の人々がなにゆえにこの一帯に一本の木を植えるように石を立てたのか、いくつもの仮説があるが、まだ謎とされている。
「カルナックにいて例のカルナックの石を見学しない法はない」と『ブルターニュ紀行』に書いているのはフローベールである。彼はそれまでに唱えられた列石の成り立ちに関する説を「この平原のために、ここにある小石の数よりも多くのばかげた文が書かれてきたのである」と皮肉り、「この私がどのように推測しているのかと尋ねられるならば、カルナックの石は大きな石である」とにべもない。なにしろ、フローベールの筆致は石について述べているときよりも、途中すれ違った農婦の姿態のほうに強い視線を送っているのだ。
石の根元に坐ると、天と地を繋ぐ一つひとつのメンヒルは宇宙卵であり生命樹でもあるように感じられた。背骨の中を熱く立ちのぼっていくものがあって、もし恋人といっしょに来ていたら、ためらわずに抱き合っていただろう。フローベールが何と言おうと、そこは地霊に満ちた場所だった。立ち並ぶ大小さまざまな石群はレイラインをなぞるように置かれているのではないかと思われた。エニシダ茂る平原はひそかに用意された寝台のようにぼくの気持ちをざわめかせた。
「ジュネ」と婦人は言った。西から歩いてきた中年のカップルにぼくは黄色の花の名を尋ね、持ち歩いていた辞書で「エニシダ」の名を知ったのだ。中世の英仏間の争闘の歴史を彩るプランタジュネ(英語ではプランタジネット)家がこのエニシダの枝を紋章にしていたことは後日知った。
列石の間を行き来しているうちに、いつの間にか数時間が経っていた。半ば呆けていたのかもしれない。まだ若かったからか「また越ゆべしと思いきや」という感慨はなかった。
数年後、ピンク・フロイドの「wish you were here」のイントロを聴くなり、ぼくは夕陽に染められて蜂蜜色に滲むメンヒルを幻視した。ひとたび焼き付けられた映像は音と分かちがたく結ばれて、その曲を聴くたびに実際に見たわけではない夕暮れのカルナックを見続けることになった。
wish you were hereと日本語に訳さずに声に出してみるほうが、ここにいて欲しい人の不在喪失感が身に沁みる。
ブルターニュの旅から矢の如く30数年が過ぎて、「命なりけり」が実感されてくると、カルナックで夜を過ごさなかったことが悔やまれてくる。夜の大地に横たわっていたら、ぼくは一艘の小舟になって星々のどよめきの下を石の海へ漕ぎ出していっただろうか。闇と夢のあわいで、メンヒルたちは青白く照り渡り、ぼくに誘惑の歌を聞かせ、dark side of the moonを開示しただろうか。