(不定期連載)
6
腰を屈めねばならないほど低い穴を潜り抜けると、夜気が身を浸した。井戸の底から星を見ている心地がしていたのは、俺たちが見張塔の中にいたからだった。振り仰ぐと塔の天辺の縁が夜空に触れている。
水をもらった井戸まで塔から五十歩ほどだった。井戸の傍らの木よりもはるかに高い塔が俺の眼に入っていなかったことになる。木の下に入ると密に茂った葉で見える星は十に満たない。
「俺は野から一番近い水路を目指しているつもりだったのに、いつの間にか、この木に呼ばれていた。覚師の言われた通り、俺は正しい道を選んだわけだ。ここはどの辺りになるのかな」
「調練のあったリスムの野からここに辿りつくには馬でも1ベールー(2時間)近くかかる。ディリムが現れた時、日はまだ中天だったから、お前は鬼神にでも駆り立てられていたのだろうな」
アシュは釣瓶を手繰り、零れるほどの水を満たした椀をよこした。おれは一息に飲み干し、「酒より旨いと思う、たぶん」と言った。 アシュは桶の水を少しだけ掌に受け顔をひと拭いした。
「ハシース・シン様と父が話していたが、ディリムは多くの神に愛されているとメディアの将軍が告げたそうだな」
「覚師の耳目はいったいどこに付いているのだろう。何もかも見えている」
「大げさなことを言うな。お前をしっかり見守っているだけだろう。なにしろ秤の扱いを心得ぬ奴だからな」
「見守り、手を差し伸べてくれる人たちに俺はいつでも恵まれている。メディアの将軍もアシュと父上もそうだ。皆、神々が遣わしてくださった人たちだと思える。言い訳になってしまうが、俺が自分を抑えられなかったのは猪のためだ。俺がまだ幼い頃、すぐ近くに住んでいた若者が猪に腹を突かれたことがあった。誰が見ても助かる傷ではなかった。腸が裂かれていたから叫び声で壁も空も揺れるようだった。家族の者が楽にしてやるべきだったが、誰も手をくださなかった。俺の父がいたらためらわなかっただろう。夕刻から夜明けまで命は消え残って、一帯の生き物は眠れぬ夜を明かした。リスムの野で血塗れた猪の牙を見た時、俺のすべてが煮えたぎってしまった。戦ともなれば、両軍幾千幾万の者が同じ苦しみを舐めるだろう。それが間もないことがわかっているのに、俺は今この時だけになってしまった」
かすかに歌声が聞こえてくる。遠い空からのように思えたのは見張塔の内壁を立ちのぼってくるからだろう。意味は聞き取りにくい。
「歩こう」とアシュが言って木の下から出た。アシュと俺は同じ香油の匂いがする。ゆっくりと流れる大きな雲の塊が星々を隠すなか木星マルドゥクの輝きがひときわ目を引いた。塔からの声が途切れ途切れについて来ていたが、やがて聞こえなくなった。
その丘は葡萄畑だった。夜目にも手入れの行き届いているのが見て取れた。葡萄樹は夜も眠らないと俺に語ったのは誰だったか。葡萄の実は眠ったまま膨らんでいくが、葉も枝も眠ることなく伸びた身の丈を確かめつつ日に日を積んでいくと聞いたことがある。火にくべられた葡萄の枝の燻る匂いがしていた。覚師も新月の夜会では焚火に葡萄樹を使うが、その話ははるかに遠い記憶だ。
「ウルクの戦車隊の副官だった父はこの先の街道で殿軍として戦った」
アシュが指差した先も黒々と畑が連なっているようだ。
「ナボポラッサル王も左腕の腱を切られるほどの敗戦の時だ。会戦の規模ではない。密かにナボポラッサル王の首級を狙うアッシリアは一気に片をつける構えの襲撃で小部隊の精鋭だった。それでも王の兵士の二倍を超える軍勢だったという。バビロンまで半日足らずのこの場所だ、長い旅程を経た王の一行にも気の緩みはあったのだろうな。囲みを破るまでに三分の一を失った親衛隊と王は先ほどの井戸まで退いて水を飲んだ。一息入れた王は皮袋に水を詰めさせ動ける全軍、三両の戦車と七十の騎兵を率いて父の許に引き返した。脱出する王に迫る部隊を一兵残らず倒したのを見届けた父の中隊は馬を外した戦車四十台を半円に配して防御陣を敷いていた。戻ってきた王を見て父は歯噛みし血の気が引いたことだろう。生き残りの殿軍が水を摂る間、王は自分の戦車からも同じように馬を外させ円の隙間を埋めた。水を飲んだ後の父は辛うじて立っているだけだったそうだ。洞窟に吹き込む冬の嵐のような風音が自分の喘ぎとは気づかなかったと言っていた」
王の盾となる身がほんの短い間にせよ芯が抜けてしまったのだ。干しあがった喉で暴れる水の恐ろしさを知っていたからキッギアは俺に充分気をつかってくれた。渇きの只中にある者はすでに己を失っているので、水の魔を忘れて不用意に貪る。俺とて父との辛い旅を通して、水の扱いは体で教え込まれていたはずなのだ。
「その後、不思議が起こった。王の戦車を曳いていたのは、ムシュとギルという名の黒馬だったが、二頭は王と父たちの拠っているちっぽけな陣の外を駆け回りはじめた。そして急ごしらえの防御柵を乗り越えようとしているアッシリアの騎兵に体当たりした。二頭の嘶きが合図だったかのように、辺りに散っていた乗り手のいない馬たちが集まり来たって一軍をつくった。防御の円陣が鎌付き戦車の車輪のような攻撃に転じて、近づく騎兵たちを追い払いはじめる。その様に驚いたのは両軍とも同じだったが、ムシュの蹄にアッシリアの騎兵が蹴倒された時、すべてが反転した。勢いを得た王の騎兵が大回りしてアッシリア軍を包み込んだから、小さな壷の中で朱の染料を激しくかき混ぜているような混戦になった。終にはどちらの剣も矛も血糊で武器の体をなさなくなっていた。討たれた者たちは声もなく砂に塗れる。争いは十ゲシュ(40分)程続いて終わった。勝利などではなく、わずかばかり先に相手の方が一人も動かなくなったということだ」
滑るように奔る黒雲が星を覆い隠してゆく。息苦しさが増しているのはアシュの話のせいばかりではなかった。大気が熱い湿り気を帯びている。
(つづく)