たまに休憩時間に車で山道を行き、途中にある天然温泉の駐車場でぼぉとする。 そこには隠れ駐車場があって、正規の場所より奥まったところに車道とは別の山道 が奥へ通じており、車1台分だけ入っていけるスペースがある。
そこに侵入して読書しながら寝てしまったりする。天気のいい日は車から降りて、砂 利道を踏み締め人気のないけもの道を少し恐々としながら奥へ進むこともある。本当 に人のこない道で自分の身に何かあっても、また何を発見しても不思議ではない気 分にさえなる。
少し暖かくなってきた先日、その<男の隠れ家>で2人連れの女の人を見た。
年の頃は、20代半ばと30代くらい。若い方は、芸大生のようで奇抜なファッションに くわえ煙草。もう一人は、品のよい顔立ちと清楚な中にも自己主張のある服装であった。 当然、僕は気になった。ずんずん奥へと入っていく2人が少し心配なのと、単純に興味 本位と。ある一定の距離をあけて、散歩するふりをしながら追跡する僕がいた。
山道はひたすらゆるい坂で、たまに水が地面から湧き出ていたりする。動物の糞が してあったり、工事車両が通ったようなタイヤ痕も見てとれる。女たちは、興味いっぱい の様子で上やら下やらジロジロ眺めては、顔を見合わせたりしている。どうやら僕のこと は気づいているのかもしれないが、相手にしていないようであった。道は、太くなったり 細くなったり曲がったりしながら続いていて、道の脇の斜面はどんどん急勾配となって いき、いつのまにか少し流れの速い小さな川が現れはじめていた。
年上の女がしゃがみこみ何かをし始める。2人まで距離があるので何をしているのかよ くわからない。一緒に立ち止まるのも不自然なので少しずつ距離を近づけながら横を通 り過ぎた。女たちは僕が通り過ぎるのをじっと待つ雰囲気で背中ごしに様子をうかがって いる。とうとう何をしているのかは見えなかった。
目標を失った僕は何度となく振り返り、戻ろうか進もうか思案しながら奥へ歩いていった。 その時、薄暗い雑木林の間から雨が少しずつ降ってきた。傘など用意してこなかった。仕 方がないので急いで道を引き返し始めた。女たちはどうしているのだろう? 彼女たちを 見失った曲がり角を曲がったところで僕は立ち止まった。彼女たちは山側の葉の多い木 の下で雨宿りをしていた。若い女は、また煙草を咥えていた。なんとなく無視していくのも 気が進まなかったので、「大丈夫ですか」と声をかけた。年上の女は、心配そうに「そちら こそ大丈夫ですか?」と問い返してきた。雨が急に激しくなってきて、思わず僕も木の下に。
ここで何をしているのかとか、よく来るのかとか、ありがちな会話を消化しはじめる僕達。 彼女らは、<テグネ・ス>という音楽ユニットらしくフィールドレコーディング、つまり自然の 中での録音場所を探しているのだという。僕がガケ書房という本屋をやっているのだと話す と、名前は聞いたことがあるが行ったことがないと言った。雨は一向に弱まる気配がなく、僕 たちは黙ったりしていた。携帯電話が圏外になっていることに気づくと急に不安な気持ちが もたげてきた。次第に陽が落ちてきて、辺りが少しずつ視界が悪くなってきていることに僕た ちは恐怖を感じ始めていた。車のあるところまで30分は歩かないといけない。この雨ではさ すがにツライ。地面もタイヤ痕に沿って雨がドバドバと流れ出して、斜面の下の小さかった はずの川も勢いを増し始めている。傘代わりをしてくれていた葉も雨の勢いに負けはじめて 僕たちは濡れてきていた。
若い方の女が「寒い寒い」と言い出したので、四の五の言わず3人でくっつき身体を寄せ 合った。女性特有の髪の匂いが立ちこめた。こんなはずではなかったと思うと同時に、この 異世界に入り込んだような状況をどこか楽しむ自分もいた。視界はどんどん悪くなり、僕達 の恐怖は最高潮に達していた。
夜を明かせるだけの場所ではない。ともかく手探りで移動するしかない。という結論を出し、 3人で大雨の中、下山しはじめた。髪も服も靴もビショ濡れ。記憶と感覚的目測を頼り に歩く。どこまでもどこまでも暗闇が続くかのような道はそうそう終わることはなかった。何度 か休憩しながら僕達は声をかけあった。鶴見俊輔が提唱していた<神話的時間>の中に 今まさに自分はいるのではないかと思えてきた。現代社会の近代的時間からはずれた流れ の中で、いま自分はどこにいるのか、隣にいる人は僕にとって誰なのか、社会通念の関係性 全てが取り払われたような時間。ただ一つの共通の目的だけが銘銘にゆるぎなくあるだけ。
下のほうから道路の明かりが見えはじめてきた時、僕は(大袈裟でもなんでもなく)文明の 素晴らしさを賛美したくなるような気持ちに包まれていた。足取りを速めて、僕たちは明かり へ向かった。懐かしい気持ちさえ芽生える愛車に彼女たちをとりあえず乗せ、シートにぐっ たりした。そして、行ったことがないというガケ書房まで車を走らせた。
その日は翌朝まで雨は激しいままだった。