このあいだ出雲へ行ったときのことだ。小雨はあがって、曇り空が鈍く光る。内陸にある古い社をおとずれた。古代の文献にすでにその名が記されている社だ。木の根と苔によって、ほろほろとかたちを崩された石段を、滑らないようにのぼっていくと、すっきりと美しい社の屋根が目のなかへ、すがたを現した。
がらんとして、だれもいない。祭りかなにか特別なときをのぞいては、来る人は稀なのかもしれない。小さな集落に鎮座する、いかめしくもこぢんまりとした社。太陽の鏡は雲の底へいっそう沈んで、杉や檜の緑はますます濃くなっていく。
社務所の硝子戸のなかで、人影がちらりと動いた。ここには、あの人と自分しかいない。この世にふたりだけ取り残されたかのような心ぼそさがにわかに湧いて、社務所のほうへ近づいた。すいません。声をかける。二度呼ぶと、うつむいていた顔がゆっくりと、持ち上げられた。若い巫女さんだ。化粧をしていない顔、ぼさぼさの眉毛。短く切りそろえられた爪が指先にならぶ右手を伸ばして、巫女さんは硝子戸を開ける。
すいません、こちらの縁起みたいなものが、もしあれば、いただけないでしょうか。お願いすると、巫女さんは面倒くさそうな顔をした。そのとき、気がついた。巫女さんの左手には、青竹の細いのが握られている。手もとには、置かれたばかりの小刀が刃先を輝かせていた。作業中だったのだ。中断させてしまって申し訳ない、と思っていると、ぺらりと一枚、渡された。巫女さんの着物と同じくらい白い紙。
縁起、という文字が目に飛びこんだ。受け取ると、硝子戸はぴたりと閉じられた。巫女さんはすぐに小刀を握り、ふたたび青竹に向かった。お礼を伝えても、反応はなく、もう顔を上げることもなかった。そんなに急ぎの仕事なのだろうか、それは、と削られていく青竹の青さを見つめた。急に声をかけられて作業の手をとめなければならなかったことが、不愉快だったのだろうか。あたまを下げても、もちろん、気づかない。巫女さんは手のなかの青竹に集中していた。
出雲からもどり、時間が経つにつれて、巫女さんを懐かしく思うようになった。不機嫌。無愛想。そんな言葉に置き換えてしまうことは、できそうでできない、慎ましく、奥まった空気。うつむく巫女さんを包んでいたものは、近づくものをやんわりと遠ざけようとする空気だった。愛想などは不要なのだ。なにしろ、訪れる人も少ない、古い社なのだから。
都心の満員電車に乗って、吊り革につかまり、他人とからだを密着させたまま揺られているときなど、ふと思い出す。今日もあの巫女さんは、だれも来ない社の社務所に座っているのだろうか。ぽつんと座りこんで、青竹を削ったり、掃除をしたりしているのだろうかと。社の屋根よりも高く伸び上がる杉や檜。その緑の枝が、ごとん、ごとんと、風に鳴っていた。曇天へ染みていったその音を、電車の揺れる音の底に探す。見つかりそうで、見つからない。
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