(不定期連載)
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風がいきなり立ち上がり、傍らの無花果の枝を叩いた。気づくと目の前にグラの姿があった。俺の影から湧きでたように思えた。グラの顔は頬の内に星を入れているみたいに小さな光を発していた。
「今しがたお前のお婆様のことを考えていた」俺は無花果の幹に背をもたせた。
グラは抱えていた小鉢を差し出した。温めた山羊の乳だった。身体が冷え切っていたのがわかった。垂らしてある蜂蜜もありがたかった。俺は大きく二口飲み、鉢をグラの口元にもっていった。一度首を振ったが、俺がさらに勧めると小さく二口飲んだ。
「グラが乳を搾るのか」
「山羊は好きじゃない。臭くて、ずるくて、いじきたない」
「山羊の乳はうまい。酪乳もな。お婆様の体の具合が悪くなければ少し話をさせてもらいたいと思っている」
「婆様はディリムを気に入っている。ディリムの会いたい時が会える時だ」グラは俺に横顔を向けたまま言った。
俺はラズリ婆様と言葉を交わしたことはほとんどない。会う時はいつも覚師が一緒で、俺は二人の話を聞いているだけだ。たしかに婆様の眼差しは温かかった。
「婆様は人相見をする。ディリムがここに来たのが十三歳、そして長い旅を終えたばかりだった。それはあしたのすべてが蕾のように人の顔に宿る時。大事なのはディリムが顕れたのがその時だったということよ」にわかに大人びたグラの口調が託宣のように聞こえた。
グラは向き直り俺の手に小鉢を戻した。ラズリ婆様の長子、鍛冶職人エピヌーの三女グラは俺より二歳と七ヶ月若い。覚師と旅立つことになった日の姉のことを俺は思い出した。「もうあんたの姉さんではなくなるのよ」と姉は壁を見据えたまま言った。
俺は空を見上げた。星見の力は姉メレルがはるかに優っていた。俺たちはよく夜空に星を三つ選び、その中の星を数えあった。ある夜俺が七十八数えた時、メレルは百十一だった。
「ディリムはバビロンへ行くのでしょう。どうして新年祭に大神官ではなくハシース・シン様が呼ばれるの。それに系図のある神官でもないディリムまで」グラの声は今また幼かった。
グラと同じように訝る俺に覚師は「王の名はナブ神に守られているからな」とはぐらかすだけだった。バビロンの解放者ナボポラッサル王の名は「ナブ神は子を守る」という意味だ。
「俺は供をして船に乗れとだけ言われている。グラはいつでもこんなに早く起きているのか」
「ディリムはいつも夜が明けてから起きるね。今日はどうしたの」
ハシース・シンの学び舎に入って十三の月が巡る間、たしかに俺は夜明け前に起きだしたことがなかった。
「夢をみた」と俺は空を見上げたまま言った。
「ディリムはふだん夢をみないのか」
「毎晩みている」
「今日は特別な夢だったということだね。話さなくていい。夢占師だけよ、人の夢を聞けるのは」
「占は商いのようなものだ」とわが父は言った。「問う者と答える者、問うた者にとって答えに大いなる価値があると思えたら大いなる代価を払う。占に肩入れするわけだ。そしてことが動く。占は梃子の石だ。商いと違うのは不本意な答えも買わねばならんということだ。いずれにせよ高い買物になる」
「わたしは夜明けが好きだから」
「俺は夕暮れが好きだ。西の空がクロカスの花の色に変わっていくのを眺めていると、心が透き通ってくる」
「夕暮れは蝙蝠を連れてくる。私は夜明けが好き」
「グラの気に入りの場所を教えてくれ。そこで夜明けを見ることにしよう。冷えるぞ、外套を着てこい」 グラが胸を弾ませるのがわかった。俺の手から小鉢を取ると、荒い布地の長衣をたくしあげてラズリ婆様の住まいへ走った。そしてすぐに上掛けを抱えて戻ってきたグラは、もどかしそうに首を振ると門の外へと足を早めた。急いているのだろう、グラは無言だった。文書倉を擁するニサバの丘は四囲ともゆるやかな勾配をなしている。北隣の丘は倍以上の高さをもった円錐台だ。俺たちは水路に沿って五百歩ほど北へ歩いた。二つの丘の間を切る隘路に入ると、城壁の下を歩いているようだ。暗いうちに通るのは初めてのことだった。北の丘の上り口に入るころには薄まった空に星が溶け始めた。
グラの足取りはまるで岩兎だ。踏み固められた道だったが、急な足元は雨の名残で滑りやすかった。登りきった丘の上には酒船が据え置かれていた。いかなる請願のためにこれほど巨大な石塊が運び上げられたのだろう。傍らに、かつて雷に打たれたのか焦げ跡のついたアカシアらしい木が一本あった。使われなくなって長い時を経ているはずの酒船から、ほのかに葡萄の匂いがした。
迫り上がった東の岩棚からグラが俺を呼んだ。岩棚の下は小さな窪地で、グラが上掛けをひろげ、くるんでいた皮袋とパン、干し杏と干し無花果を並べていた。
日輪を迎えるのにこの上ない場所だ。俺たちは天空を行く船の舳先にいるのだ。
すべてが目覚めようとしている。大地と川と空の高みにあるなべての生き物たちの身じろぎが伝わってくる。草が露を飲み、ニゴイが胸びれを揺らし、鳥が羽を擦り合わせる。荘厳なざわめきだ。やがて火打石が鳴り、竃に火が焚かれるだろう。ひき潰した麦粉が焼かれ、羊たちは牧夫を待ち焦がれる。ゆるやかに蛇行する大河の向こうの城壁は黒い塊で、消え行く星の光を受けて鈍く揺れているのは常夜番の槍の穂先なのだろう。
鑿の一打ちのように地の彼方に赤い刻点が顕れ、時をおかず金色の火箭が地平を奔った。つかの間すべての音が途絶えたように思えた。
俺たちの見知らぬ土地を夜通し巡歴した太陽の神シャマシュはいま眠りにつこうとしている。これからとてつもなく深い灼熱の夢を見るのだ。
俺は皮袋の葡萄酒を垂らし、パンをちぎり、干し杏と干し無花果を空へ抛った。そして曙光に呼びかけた。
「ルー、ルー、ルー。われらが古都を照らす光よ。御身がわが双眸に刻す白き言葉をわれ見ることあたわず。されど御身を名づけさせ給え。御身が齎す今日一日の、日々の、そして永久の神秘を称えまつらん。
御身のまなざしの下にわれらは集い、商い、涙し、食らう。御身の名はもの言わぬ瞳。
御身の吐息で大地は乾く。汝の暑熱が育むもの、それは葡萄樹。御身の名は生命の木。
御身の腕で百千の煉瓦が固まる。御身の名は不朽の館。
御身の歌声で牛と驢馬と羊たち、そして馬と駱駝たちが番う。御身の名は豊饒のシンバル。
御身の跳躍は花々を目覚めさせる。御身の名は第二の月の祝祭。
俺ははじめにシュメールの言葉で唱え、もう一度同じことをアッカドの言葉で捧げた。俺たちが覚師ハシース・シンに言われているのがこのことだ。
「シュメールの言葉なくしてわれらアッカドの言葉はない。心して喪われた先人の言葉を残すのだ。粘土板の上にだけへばり付いていてはならぬ。写しに写し、ひたすら筆写することで字を学ぶ書記たちは言葉から離れてゆく。城壁に釘付けされる王族の屍のように文字は干からび亡霊となり風に運び去られる。謳い続けよ。唱え続けよ」
俺はもう一度供物を捧げ、新しい名を捧げた。
「もの言わぬ瞳のために。生命の木のために。不朽の館のために。豊饒のシンバルのために。第二の月の祝祭のために」
「ディリム」朝日に顔を向けたままグラが言った。「あなたの本当の名は」
「それこそ」と俺は答えた。「ラズリ婆様に伺いたいことだ」
(つづく)