リレーコラム

  • 林崎 徹「ウル ナナム 1」

    (不定期連載)

    1

    中島敦に「文字禍」と題する、紀元前のメソポタミア地方、アッシリアを舞台にした玄妙な短編がある。私が書いていこうとしている『ウル ナナム』は、このアッシリアを滅ぼしたバビロニア王ナボポラッサルとその息子ネブガドネザルの治世、紀元前7世紀頃の話である。
    『ウル ナナム』とはメソポタミアのシュメール神話の一つ「エンリル神とニンリル神」の書き出しの言葉で、「都市があった」という意味だそうだ。都市の年代記とビルドゥンクスロマンを併せた物語をめざしたいと思っている。

    この文字は読めない。
    覚えているのはそう思ったことだけだ。その刻文を俺はたしかに見ていた。読み解こうとずいぶん長い間見つめていたはずだ。書き出しの楔はどちらを向いていたのか。夢は降り初めの雨粒のようにかき消えてしまった。そもそも楔文字だったのかも実のところはっきりしない。消えてしまったことで、謎をかけられているように思えてならなかった。もちろん、どんな夢も謎だとはいえるが。
    壁に穿たれた七つの小窓はまだ真黒だ。夜明けまで間がありそうだが、もう眠りは戻ってこないだろう。
    俺は闇に目をならしてから、荷担ぎの柳の枝で二回ずつサンダルを叩いた。このニサバの丘の館に入って二十日ばかり過ぎた日の朝、サンダルに潜んでいた蠍を踏み潰してからの習いだ。刺された痛みは蜂にやられたほどのものだったが、そのすぐ後から高熱に打ちのめされた。どこまでも堕ちていく夢を見続け、冥界に引き込まれるのだと俺は心底怯えてしまった。
    羊革の半外套を着て中庭に出てみると、四隅のなつめ椰子の根元は黒い陰の中にあった。明けの星イナンナはまだ姿をみせていない。二日前に終夜降りつづけた雨で大気は澄んでいた。雨とともに腸を揺さぶるほどの雷がしつこく吠えたけれど、水位標を脅かすほどの降りではなかった。
    粘土の書板に触れば消えた文字を呼び出せるかもしれないと思い、俺は母屋の裏の菜園を抜けて文書倉へ向かった。わが覚師ハシース・シンの館は書板を納める倉が人の住処よりはるかに大きい。壁も厚く床には焼き締めた煉瓦が敷かれている。石榴の種ひとつ落ちていないこの倉に鼠がはびこることはないけれど、長脚の蜘蛛がやたらに蠢いている。灯壷を掲げて文書倉に入ると、無数の長脚が陽炎のように揺らめき立ち、逃げ遅れた奴が掘り込まれた楔文字に足を取られたりする。奴らのえさはきっと灯りの油なのだ。夢の中でも刻文に追われ踏み迷っている俺は長脚蜘蛛そのものではないか。
    ニサバの丘にあった家々を破砕し火をかけ数多の品々を持ち去ったアッシリア兵たちは、叡智の神ナブ賛歌が刻まれた石柱を見落としていった。対岸のボルシッパの城市が築き直された後も丘に移り住む者はなく、語り起こす者もいなくなって久しいこの地はやがて毒蛇の住まう丘と呼び習わされ、食う草の乏しくなった山羊さえも近づこうとしなかったという。
    「自ら隠れたのだろうな」と覚師は言った。閃緑岩の石柱は堰きとめられた水路の中にあったのだ。「だれも妙だとは思わなかったのか。蛇穴の山からあれほどけたたましい蛙の鳴き声がするはずはなかろうに」覚師は酒器から泡立つ麦酒を地に振りまくと、葦筆の尻で巧みに蛇と蛙の絵を描いた。そして大げさな身振りで耳に手をあてた。外ではジャッカルもたじろぐほどの大音量で蛙が鳴いていた。
    真水の井戸も枯れてはいなかったのだ。ナブ神は自ら隠れ、時がくるまで丘にもまた偽りの呪いをかけたのかもしれない。
    打ち捨てられたニサバの丘にやってきたのは覚師と五人の男たちと三頭の牝牛と二頭の牡牛、騾馬が四頭だった。彼らが到着した翌朝女が一人丘へやってきた。すでに寡婦となっていたラズリだった。覚師の一行が焚いた夜の火を見たからではなく、新月と満月になる日の朝、ラズリは欠かさず丘に来ていたのだ。二十一年前の新月となるその日、丘の上で声を発した者はいなかった。約束された儀式のように六人の男と一人の女は無言で出会い別れた。繋がれていない驢馬だけがラズリの腰に鼻面を寄せ、水路の縁に捧げ物をするのを見守っていた。
    翌日から六人の男たちは椰子の皮をはぎ綱に編み大きな籠をこしらえると、水路から賛歌の石柱を牡牛に曳かせ引っ張り上げた。満月を迎える日のことで、二度目となるラズリは連れてきた子羊を手際よく屠り肉を切り分けた。肉と椰子酒と乾葡萄をナブの言葉に捧げると、六人の男と一人の女は共に同じ物を食い飲んだ。
    先のボルシッパの総督は忘れられていた丘に文書倉を建造するというハシース・シンの願いをよしとし、煉瓦職人と二十本の杉材を供与した。覚師は倉を建てる四隅にナブ神の名を聖刻した釘を埋め、三月の間に城壁と見紛う部厚い壁を立ち上げた。大きさこそ大神官と二十七人の書記が居並ぶ市内の神殿図書館に劣るが、上の海の彼方あるいは東の峡谷を越えた化外の地から伝播したという文書はアッシリアのニネヴェが誇る考古文書館をも凌ぐという。
    五十の青銅の鋲を打ち込んだ文書倉の扉はいつも半開きになっている。ここは昼夜を問わず出入りが自由なのだ。そのため扉の前に鎮座する双面神像の口が油受けとなって一晩中火が点っている。大柱を曲がったところで俺は先客に気づいた。上床の石壁に油煙が泳いでいる。ナブの石柱を納めた祭壇のあたりだ。師は明後日まで城内におられる予定だから、学び舎の仲間なのだろう。俺は後ずさりし外へ出、腰丈ほどの裏塀に沿って歩いた。星が泡立ち大地はいっそう冷え込んできた。

    (つづく)

other column back number